一致

 

 

 

物理的なスキンシップとか肌ざわりがセロトニンを分泌させるのが脳が認識する現実感だとすると、現実感を精神領域の存在まで拡げることにより夢の中での抱擁でもどばどば出るのでは。正面からだと顔面の破壊力でどぎまぎするため後ろから。心地良き。これができれば相手の時間も消費させない。

 

さておき。

 

ねっとり話す後輩でない方の後輩男性が本日より有給消化で退職になった。全員何事もなく過ごしていたが、個人的にはかなり恐ろしい。明日は我が身という意味でも、労働力という商品市場という意味でも。会社という領域も一種の劇場感がある。人を自分と同じような人と見なくて良い場。まぁそういう制度設計か。

 

それとは別に、何の関係もないし個人的にも話したことはないこの人の存在が無くなったことに対して、違和感というか、変な話、寂しさみたいなものを感じる。同じ物理的空間で過ごすことの問答無用の馴染み。これってよくよく考えると全然不思議なことではなく、「警戒対象」から外さないと余計に注意しないといけないということなのだろうな。人を見るという第一段階は自分にとって危険かどうかだし、危険でないと分かったあとにもっと見るのは別のエネルギーが要る。自分が相手に見られているという感覚がなくっていくのも同じような段階を経るのだろうな。全然自分のこと見てない人に自分のこと見てくれって言われてもは? となるはず。見ているのに見てくれないという文脈なら正当だ。

 

こうやって毎日毎日文字化できる「思うところ」があるのも一種の才能かもしれないが、本日は、僕は才能と呼ばれるものは一切持ち合わせていないのだろうなと思った。ここでいう才能は、公衆から認められる価値という意味ではなく、自分の中にある「誰にも譲れない何か」。能力でもなんでも良いが、まぁ何かだ。

 

エドガー・アラン・ポーのあとがきに来歴が載っていて、来歴を知ったところで中身がより読めるようになるなんてことはなく美味しくない。時代背景とは別のもの。ただ、その後に、「精霊の守り人」で有名な上橋さんの処女作「精霊の木」のあとがきを自身で書いていて、かなり美味しかった。15年越し、30年越しと段階があるも熟成感がある。こういうのが小説家としての才能なんだなと思ったのが、「物語の種」という表現とか、処女作がもともと原稿用紙540枚で、自分の中では比較的短い物語だったとか。生粋な感じ。

 

精霊の守り人」と「闇の守り人」は確か中学生の時に図書室で読んだ。それから10何年か後に文庫化されたシリーズを一気読み。シーンが生生しくて美味しい。最近、この人の核には隠された歴史みたいなものがあるのかなと思っていた(これって書いたっけ?)ら、あとがきの中にもそういうことが書かれていて読み筋としては間違ってなかったのだろうなと思う。要は野蛮人として排除された異民族の文化を見ている。文化人類学も小説の為の基盤となっているのもなかなか凄い。こういう、自分の中に物語の種がある人が小説家の才能なのだろうなと思う。

 

僕が広い意味で才能がなくて良かったのは、嫉妬しないこと。何かを読む時に自分が邪魔することがない。譲れない自分があるべきだと擬態してみたが、どうも駄目だった。だから他人から消費されまくる人生。まぁ、だから読む人になったというかなれたということなのだろう。いちいち自分の譲れないものが邪魔してきたら物語には没頭できない。

 

作品を通して現れる言葉は感想ではない。

これは譲れないものとしても良いが、読むことは誰とも闘う必要がないことだからとても自由。読んだ冊数で競うとか、財産にするとかならそうかもしれないが。

 

「人類と哲学」はマルクス資本論から社会的無意識の発見となっていて、ほんと美味しい。

 

資本論は資本主義によって人が労働力という商品としてモノ化されているのに、契約として個人の存在として扱われている倒錯をイデオロギーとして、その説明のために、「カメラ・オブスクラ」という最初の画像メディアを持ってきている。

 

曰く、こういう映像メディアによって社会的な無意識が発見されたということらしい。ただ、この先はまだ読んでいないため、独自で考えるしかない。

 

たしかに、今でも同じことだが、画像は現実的な世界の瞬間を写し取った「像」に過ぎない。この像は永続性がある程度あるし、現実にそういう瞬間があったという証拠にはなるが現実そのものではない。にもかかわらず、人はこれを現実と一致することができる。いまの現実ではないという意味では虚構に等しいにも関わらず。こういう現実とみなせるものとしての虚構が存在するという発見が、無意識で共有される何かがあるということなのではという予測。

 

虚構を共有できるものであるという連動で、写真と無意識を繋げたのは慧眼だ。もしかしたらユング集合的無意識もこの系譜なのかもしれない。

 

凄いどうでもいい僕の話なのだが、無意識の可視化という試みをここ10年くらい考えている。これって、社会的な無意識を無批判に受け入れることへのアンチだったのだっただろうな。その、さも自分だと思って譲れなくなっている見解はほんとに自分由来なのか。なんてことを思った訳ではなく、ただ、僕の中に違和感があったからというだけ。

 

この研究結果だと、自分の無意識は諸々が居る。〇にたいってふと独り言を言う奴もいるし、自分のミスに対して許せない奴も要るし、歩く時に自分の筋肉がどう動くか意識しているやつもいる。ただ、自分の素朴なものさしを社会的なものさしと連動させている奴は居なくて困る。いや、居るにはいるし圧倒的に行動化はされるのだが、ほんとにこんなところを基準として生きて良いのかと思う次第。

 

要は、世界に正解はないし、正解がないところを楽しめるためには、異星人性が要るのかもしれない。

 

ここまで。

 

では、おやすみなさい。