純化

 

 

 

専門書はあんまり進まなかったがちょっとどきどきしながら読めるようになっている。会社法が面白くなる日がくるとは。法律上(厳密には私法上)の「人格」は、権利義務の主体になることができる資格のようなもので、法律で物理的な人間以外に人格を認めるメリットとか、人が人を抽象的に捉えられるようになった概念の発展によるものなのだろうなと。個人事業主は商人であり中間のような存在になるのか。でも完全な私的な個人は消費者保護法の対象であり、まぁ省略。真面目に読みだすと色々考えて全然進まんが、だからこそ残るのだろう。

 

進まない代わりに放射線技師と、病理医の漫画を読んでいた。人体の物理的構造すらまだまだ分かっていないのだなぁという感じ。まぁ読んでしまったのは、それぞれのキャラが好きだからであって、別に情報収集のためではない。情報なんて後から勝手についてくる。

 

さておき。

 

ミクシィで、日記検索してさらっと10分くらいでめぼしいものを読むのだが。そこで三島由紀夫の登場人物が「輪廻」を語るのがよく分からないというような話があった。面白いのはその先で、「輪廻観」の発明に対する考察。来世があると信じさせることは、身分制とセットなのだろうなぁという感じ。

 

僕の考察の前に、昨日の「壁」の観念について、雨の中、買い出しに行くときに考えていた。この時期の雨は、花びらをたくさん落とすが、別に儚いものではなく役目を終えた花弁は早く落として次のための緑を茂らせた方が合理的なのだろうなと考えてみる。花を愛でている人は雨でぐしょぐしょになった汚らしい残骸なんて見向きもしないだろうな、とか。

 

そうして、人類史上の最初の壁ではなく、個人の最初の壁って、「皮膚」だろうなとふと考える。自分と世界を隔絶する問答無用の存在。自我というものがなければこんな絶対的孤独感は認識されないのだろうが、人間はそういう風になっている。自分の肉体と他人の肉体は別物だと本能いや、先験的な悟性かもしれない、が捉える。だから、集団化とか同一化に対するどうしようもない衝動が起こる。職場の仕事量が最も多い先輩が、誰のことを言っているのか知らないが、「依存関係」だったと言っていたが、当人が上司と雑談せずに居られないのも十分な「依存」ではないかと思う。違いは替えがきくかどうか。

 

同一化の方法として社会化とか音楽とかまぐわいがあったりするらしいが、僕はどれも馴染まなかった模様。自分が薄くなるのも人が薄くなるのもどうもよろしくないのかも。今は、絶対的孤独であって問題ない、解消の為に他人を使うことはどう言葉を繕っても嘘っぽいという見解。まぁ人脈は大事だろうが、これって主体は誰だ。

 

輪廻という発明品について。僕はここまで世界を読んできた見識として、宗教も1つの概念装置でしかないと考えている。これは常識とか民主主義とかと同じ水準で、人は自分が最も心地良くなる装置を拡張メディアとして選べばいい。誰かに押し付けない範囲で。社会的にどんなルールがあれば最適化という概念も見つかってないし。

 

輪廻は仏教っぽいが、たしか原始仏教は輪廻を提唱してなかったはず。もともと輪廻って身分制で生まれで地位と場所が決まっていることに対する人の閉塞感を慰めることに目的があったのではと推測する。よく働くようにという意味と、精神の慰撫。だから、人格そのものが来世でも再生するという観念があり、ではなんで過去世を覚えていないのだということになる。たぶん当時の人もそう思っていた人は居るだろうな。

 

ただ、僕はこの考えた方を完全に否定はしない。だって分からなないし。たとえば、今後の発見で、3次元では捉えらないエネルギーがあり、その中には脳という構造物にしか宿らない魂というか思念みたいなものがあったとして、脳が活動停止をして離れた後に次の脳に移動するということがありうるかもしれない。もちろん人格は脳というか肉体の体感を経ないと形成されないものだから都合良い輪廻とは至らないが、何かしらのエネルギーは巡る。のかもしれない。

 

そういう観念があるってことは、何か五官の外で感じるも器官があるのかもしれない。

 

ちなみに素朴な僕としては、物体ではない存在があると感じるのでどちらかと言えば後者寄り。ただ、本当に神様みたいな存在が在ったとしても、既存の概念装置で記述されるようなものではないだろうな。

 

今日はまだまだある。が時間が足りない。

 

メディアの話で、右脳、左脳の話があった。この機能の発見も歴史はとても浅いんだよな。「話しを聞かない男、地図が読めない女」が出てきた。かなり流行ったような気がするが、僕は読んでいない。傾向的にどちらがどちら優位みたいな話なのだろうという想像。

 

仕事で好きな方の上司が、貴方はアナログ人間だと評した。これって完全に右脳人間である。左脳の方がデジタル。文系がアナログで理系がデジタルだとなりそうだが、むしろ逆かもしれないなと思う。左脳脳は、システムに従順なんだよな。自分がやってないことでも信じてしまう。論理は確かに大事というか便利だが、中に何を入れるかによる。もともとは人間は右脳で世界を捉えていたが、表音文字が発展したことにより世界が分かり易くなった。

 

面白いなと思ったのが、左脳優位の人は環境の変化を捉えにくくなるというところ。僕も随分世界に対して雑な時期があった。今捉えている世界が正しいというか規定値になってしまうという弊害。こう考えていくと、地図が読めない左脳脳も当然ありうる。

 

日本語は表意文字だから良いよな。情報の外にカタチがある。

 

あと、ルビンの壺とおばあさんとお姉さんの図。よく見たら壺ではなく接吻しているとか、ぱっとみおばあさんだがお姉さんに見えるやつ。この説明で分かる人が居るのかはともかく、メディアには図と地があり、影響を受けるのは背景の地の方なのに、表音メディアの発展により人は図しか見なくなったという話。ちょっと分かり易く書けば、何が書かれているかしか人は読んでないが、本当に影響があるのはどう書かれているかというところ。余計分かりにくいか。

 

僕は人が書いた文章を無茶苦茶読んでいるが、そこに書かれている情報(図)より、なんで作者はここにこの言葉を当てたのか、当てたい理由があったのか(地)を読んでいるから、ストーリーの結末を先に知っても関係ないのである。読み味が美味しいかどうか。最近読んだ文章では、三島由紀夫さんのがなかなか。

 

あと1つだけ。

 

影響という意義。言葉では誰誰に影響を受けたって簡単に言えるから、僕はそういうのはあんまり信じない。影響を受けることができるのは、思想ではなく実践であって、実践は言語に馴染まないし。

 

ここで輪廻観を持ってくるが、他人に何か影響を与えようとするときというか、英雄譚みたいなことで一方的に伝授しようとする人は、自分と相手が「人」としていっしょくたになっている。まず、時代も違うという前提はともかく、体感としての経験則は当人が当人であるから感得できたものでしかない。容姿とか声色とか物理的な「その人」は他に代替できるものではないだろう。でも、その結晶を簡単に求めるから、これをしたらこうなれるよという法則にすがる。これは聞き手の問題かもしれない。

 

こういう抽象化は完全に左脳優位だと思うのだが、どうなんだろう。人をデジタルとして捉えている。なんなら自分さえ。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

真面目

 

 

 

何か素朴な言葉遣いがちょくちょく出ているような。「○○よね」とか「○○やって」とか、日常でもここでも全然使わないのに、素朴な語彙か。どんどん余計なものは削減されているのにどうも残ってしまう。どういう関係というか感じなのだろう。よく分からない。考えるためには情報が足りないが、入ってくる情報は「どう取っても良い」ばかりである。面白いな。

 

さておき。

 

どうしても解きたい本があったため、電車で2駅の大きめの本屋に行ったがやっぱり提供してくれない。会社法の本だったのだが、ちょっと気になっていたもので代替。定評があるだけあって、面白い。正義という漠然とした解釈基準ではなく、効率で良いよねって。もともと会社制度が資本主義的効率性のために発明されたものだろうし、相性は悪くなさそう。

 

やはり人が多い。眺めていると何かをしたいという明確な目的はなく、自分の家から離れたいくらいの意味合いで外に出ている人が多いのだろうなと感じた。別に無目的でも良いとは思うが、僕はもうそんなに漠然と生きることはできないのだろうとも思う。外から見たら何もなしてないから、むしろ漠然的人物だが。

 

ところで。

 

雑談で人を楽しめないと思っているのは、人の日常語彙は当人の中でそんなに精査されたものではないというところにある。拡張メディアの機能だが、扱い慣れていると自分のそのものではないのにそのものだと認識してしまう。まぁ外から見られとき僕の言葉は僕と認識されることに問題はないが、どうもそんなことは見られてないように見受けられる。いや、そう見る人も居るが。自分を発話で描写しようとしたら精査の過程で詰まるのが当たり前だから、するする話せる人は定型文で慣れているのだろうなという感じ。だから人と私的に話さなくなってもLINEでぽんぽん交信しなくなっても何も堪えないむしろどれだけ無駄な時間を使っていたのだという認識。

 

この交信の無駄は僕の独自論ではなく、中学時代に最初僕が1番取った後ずっと1番だった同級生が高校の時言っていた。当時はチャットアプリなぞなくガラパゴス携帯のメールだったが、メール1通に何分かかるとして、云々みたいな。僕は雑談的に垂れ流される言葉はほとんど残さないが、こういう「真面目」な発話は時系列でちょくちょく残っている。高校1年の同級生が「普通の人なんていない」って言っていたこととか。彼はその後心理学部に進んだ。心理学がその欲求に耐えうるものだったのか、どこまで学んだのかは知る由もないが、修士論文の概略は調べて読んだ。ちょっと議論してみたくもあり、でも昨日書いた友人程僕を残していないだろうなという気もする。あぁ、あんたかよく覚えてないがってなりそう。

 

本題というか、本の題。専門書の読み方ちょっと変えなければとなった喫緊。僕は割と毎日自分の頭の中がまっさらであるとして読んでしまう傾向にあるのだが、いや、有る知見と照らし合わせながら読めよと。法学界隈以外だったら普通にやれるのに、何かこじれている。これって、おそらく現実としての関係に寄せているのだろうなという感じ。会話で、立ち位置的に上の人が情報を披露しているときに、そんなの知っていますってなると場が白けるから、無知な風に振る舞わないといけない。別に相手のアイデンティティまで壊す気はないし。会話のために架空の悩み事を話題として提供するのと近いところにあるような。

 

そう、会話って自分がどうのではなく相手の地雷に引っかかるのが大変なんだよな。ここだけの話になれば地雷は踏みまくっても問題ないが。

 

本も存在だから消費できないというのはもはや擬人化だが、流通されている本は都合良く使って良いのだと言い聞かせる。ここの文章は自分の無意識の認識の更新みたいな意味合いもあるから、あえて記述をする。

 

僕にとって考えることの最大の効果は、既知に対して説明するのではなく、未知が起こった時に対処できるようになるということ。だから考えなくても良くなることなんてないと決めてしまうことで気楽になった。

 

本も認識の強化とかではなく更新のためにある。

 

メディアの法則。ある新しいメディアが生まれたとき起こる現象。①強化、②衰退、③回復、④逆転があるらしい。あんまり細かく書けないが、例えばLINEというメディアだったら①空間を離れた交流が強化され、②メールで書かないといけなかった書き言葉文化が衰退し、③なんだかんだ、集団という社会性が回復し、④実は社会的繋がりも割と脆弱だという逆転。みたいな話。

 

ちょっと数学のお勉強の話を挟む。僕は高校数学で確率は好きだったというかだいたい解けた。確率の概念って、数学の基礎的事項がいくつも前提とされているらしいが、僕はあんまり分かっていない自覚があるのになんでだろう。

サイコロを4回振って、少なくとも1回6が出る確率を求めよ。これは1回も6が出ない確率を100%=1から引くだけなのだが、概念的には分かりにくいのか。どうでも良いけどSNSだけで交信していた人(アイコンを書いてくれた)が、現実的な数学的レジ問題を出してきて、当人にどうやったら理解されるかとあくせくしたのを思い出した。数学界隈は確かに定義を理解できればするするいくのだろうが、定義すら理解できない人を置いてけぼりにしてしまう。僕もわりかし置いてけぼり勢である。直感として解けることもあるが。

 

 

某巨人ではないけど、「壁」の概念って人に根深いなというテーマ。

 

写真は壁のない美術館で、テレビ、ラジオは壁のない教室と解釈したのがマルクハーンさん。この自他(世界)の境界線という観念は、きっと最初の方にできたもの。個人的には「雨」のカタチもそうだと思っている。これあめに降られている外もあるという認識があるような。

 

壁って内と外を分けるものだし、自分が越えるべき対象という意味もある。某原始宗教では、神様は人に越えられる壁しか創ってないとかあったな。

 

 

僕は別にスピリチュアル畑ではないが、この「壁」という言葉自体が、外から設定されたものという風味があって好きではない。雑。外界はどうあれ自分がどうこなしたというシビアな現実でしかないのでは。という感じで、人は自分の努力を認めてもらいたいという衝動があるのかもしれないが、ちゃんとしようとした内心は観測できないから、結局のところは努力も現実化した現象に還元される。ここの不一致はもう当人の問題。

 

もっとまじめに考えると、やろうと思ってもできないことは、したくないことでしかないだろうし、ほんとにしないといけないと認識していないことでしかない。どうしてもできないという疾患はあるかもしれないが、日常生活送れないほどの脳の問題ならともかく。

 

これは、自戒論でしかなく。

ちゃんとしようとしている。

 

認識の更新において人は参考でしかないという話も書きたかったが、ここまで。日を跨ぐ前に終わったのは、次は早番だから。

 

おやすみなさい。

 

 

境界線

 

 

 

同じく興味と呼ばれる衝動だとしても、子供の頃とは随分違う。子供の頃は世界はもっと狭くて、確定事項を取集していかないと生きていかれないという本能の挙動。自分が世界においてどう位置付けられるかどうかを探すこと。今は僕が捉えていた「確定事項」ですら人が創ったものでしかないという認識。別にだからといってがっかりするでもなく、むしろ人は凄いのだと考えている。当たり前のものなんて何もない。のだが、世の中には「お客様は神様」みたいな固定観念もあり、大人性も人それぞれ。

 

昼ご飯を食べていると、女子がジャングルジムの様な全くそんな遊具ではない施設(おそらく植物の蔓が育つやつ)で遊んでいる。端から見ると危ないなーという感じだが、危ないことをするのが子供である。保護者も見当たらなかった。そんなことはどうでも良いとして、距離がちかいものだから会話が聞こえてくる。「ここまでこれたらクリアね。これも修行」みたいな。僕も昔はそういうことをやっていたなぁ。今やクリアなきゲームみたいになっているが。

 

ここでふと考えたのは、ゲームのメディア性について。メディア論の中で、ゲームもメディアの1つに数えられていたこと。このマルクハーンさんのメディアの概念は多義的だから分かりにくいのだが、拡張としての機能と、影響という機能があると思われる。

 

そうして、影響の機能としてのゲームって、なかなか根深いものがあるよなと思った。今の子供はやらないだろうが、はないちもんめとか後ろのかめがーとか、まさに文化的な価値観の無意識的承継だし。別に残酷な殺し合いのゲームをすることが悪影響だっていう教育者みたいなものではない。新しいゲームは文化的にはそこまで浸透していないし、むしろ自分が気に入らないものを排除しようという人の精神性の方が子供には悪影響だと思う。そうじゃなくて、もっと素朴なゲーム。野球からサッカーに推移したという叙述で、野球は役割が完全に決まっていて、そのポジションは動かないがサッカーには流動性があるというのが文化の移行とセットで語られていて、やっぱりだいたい繋がっているのだなという感じ。

 

読んだ事項を採り入れるだけでつまらないから考えるのだが、じゃんけんというゲームは勝敗がはっきり決まるし、世で観戦されているゲームもはっきり優劣が決まる、というか決めらなくてはならない、順位制。

 

でも、これって、ほんとうに人がもともと持っている性質なのかという疑問がふと浮かぶ。そういう風に仕組まれているのでは。というのも、人類史を遡っていくと、人間同士で争っている場合ではない頃があったはずだから。自然という外界とは生死をかけた勝負をしていなきゃならないが、この極限状態で人の優劣はあまり問題にならないような気がする。まぁ劣った人は淘汰されるだけだとしても比較の観念はあまりなかったような。いやこの辺りは言葉の発明でちょっと分からないが。

 

何処かの渡辺さんが争いの観念がインストールされていると述べたのは至言で、どこかで優劣の観念が導入されたんよね、きっと。個人的には古代ローマ奴隷制あたりの時系列かと思うが、まず選民意識と優越感を芽生えさせた方が統治しやすいと気づいた為政者が居たのだろうという想像。現代が人間的に進歩しているかというとそんなことはないよな。勝敗とか優劣とか善悪の道徳観が優遇されるのって、思考が省エネになるというかほとんど何も考えずに依拠できるから。○○主義とかもそうで、専門用語を駆使したら考えているように見えるけど、自分の立ち位置が決まっているのなら、考えた言葉ではなく、説明の為の言葉でしかない。

 

争いの前提には「壁」があるような。

 

さておき。

 

執筆した劇評が公開されたとのメールがあった。添付されているURLに飛んでみたら、たくさん書いている人がいた。僕はあまり同じものを見た人がどんな文章を書いているかに興味がない模様。ちらっと眺めたが、どんな文章かより、とても読みやすいなとここを作った人の思考錯誤を想う。最初から比べると随分違う。何故興味がないのかを言語化すると、別に共感したくて書いた訳でもなく、枠の中の文章ではその人の文体としての「人となり」は分からないから。僕の文章はおそらく比べられてしまえば劇評としての完成度はきっと低いが、あんまりそんなのはどうでも良い。書く過程で完成している。

 

デフォルトの外付けの拡張メディアとしての価値観をどんどん捨て去ってみて、残った自分というは全然悪くないという感じ。共通語彙はどんどんなくなっているかもしれないが、人と話すときは相手の語彙に合わすから問題ない。この文脈で過去の自分がちょっと解明されたのだが、僕が自分を無軌道にすると、話している話題から発想された全然関係ないことを発話してしまう傾向にあった。なので、よく分からない受け答えをする人みたい評価になる。今やこの受け答えもきっとその人の確定事項でしかないのだろうなと思っているから、あんまり気にしていない。

 

 

本日はかなり元気だった。美味しいご飯(文章)を食べて、良く寝たからだと思うが、外界に対して完全無敵みたいな感じ。この文章は歴代のどの恋人さんより現実的に寄与しているのではなかろうか。怠けなくて良いし、時間も使わなくて良い。のに、エネルギーが補充される。

 

ついでに、そろそろ映画が見たいなとふと衝動した。映画がデートになりうるのは、時間を共有することに対する馴染ませなのだろうな。同じものを見たという経験でその後感想を述べあって共有したことにできる。いや、したくなったのは1人映画だが。1人カラオケもやってみるか。声帯を駆使した仕事をしている僕がどれだけ歌えるようになったのかのか確認のため。

 

という流れで、映画とテレビのメディアとしての機能の違いが面白かった。

 

曰く、映画は左脳的な文字としての視覚メディアで読解は識字率により、テレビは聴覚メディアであるとのこと。たぶん5年前の自分だったらまったく意味不明だが、今はちょっと分かる。映画が虚構であると分かるのは、虚構的な物語を収集しているからで、その収集は確かに文字情報でしかない。現実的にはありえない世界って夢みたいだ。

 

テレビが聴覚だというは、耳は現実の音しか採り入れらないから。この辺りの説明も雑だとは思うが、たしかにテレビは当たり前にある音ではあった。汚職事件をお食事券という音として認識するとか。日本人は聴覚的な民族だとアジア括りで捉えられていたが、他の人の、日本人は虫の声を生活音から切り離して聞き分けるということからもなんとなく分かる。

 

音に敏感なのは、音に充てられる言葉が多いということなのかも。他の言語の擬音語は全然知らないから想像でしかないが、その言語圏における単語って人の思想とかまで侵食するもの。

 

まぁ、今の僕はテレビなぞ見てられないし、見ていない。

全然不自由ないんだよな。ちゃんと自分だけのために時間を使っている。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

割り込み

 

 

 

写真が人の視界の切り取りの証拠から進んで、その人が何をしているかの証拠としての拡張作用の集大成が某画像SNSだな。いや、ふと、僕は毎日料理をしていると書いているが、言葉だけでは現実とされるとは限らないと思い、日記に弁当画像付けようと思い付いただけ。こういうのが好きな人もいるだろうし。昔一時期施行としてやっていたこともある。今やるならまずシリコンカップの色合いをもっとカラフルにして、食材選びにも色味の要素が入ってくる。暖色が入ると美味しそうに見えるし。

 

あと、言葉を虚飾としても扱う人はほんとに作っているはずないだろうと穿って考えるかもしれない。まぁそんな人は僕を読まないだろうし、そもそも僕の中で一致していれば良い訳であって、他人に対して証拠を提出する意味がない。

 

良く分からない冒頭になったが、今日はだいたいよく分からない話になる予定。

 

そうそう、昨日の熱が醒めたということ。端的に言えば物理的に近くなりたいという意味での好きを特定の人から解除した。仰々しいが、セルフ失恋認定みたいなこと。こうやって想うと、僕は男女間において、変な固定観念というか強迫観念があるのだということが判明した。僕は男女の友情はないと認識している。近くなりたいすなわちそれは恋人としての希求だみたいな。結論を先に言うと僕は友情すら信じていない感があるのだが、これは強迫観念ではなく生もの。

 

まず強迫観念が生まれたのは、中学1年生時のちょっと痛かった記録。僕の中で性別の境界線がまだ曖昧だったころ、たまたま隣になった女の子と普通に話していたらその子にぶっり的に好かれてしまったことが発端。問題はちょっと周りから的になるような造形の人だったことで、冷やかされてしまう。集団が嫌いのはこの辺りからなのはともかく、男女の関係において、何事もなく近くなることなんてありえないのではないかという観念が芽生える。自分の興味に傾注してはいけないというより、普通の素朴で他人に接してはいけないみたいな。どういう風に接したかは覚えてないが。

 

例えば、僕が他人からの好意を自尊心に還元できるような人物であればそこまでこじれることはなかったのだろうが、そんな普通の人ではなかったからなかなか大変。女性は接し過ぎると自分を好いてしまうという強迫観念を裏付けるように、何かそういう人物が時系列で現われてしまう。これが女性だったらなんとなく分からないでもない。なんだかんだ求められる性だもの。さすがにここでフリーになって何かしらの人物が現れるとは思えないが。なにせ、そうやって関係を醸成するために処分時間を充てる価値観が今はない。母親との週一のLINEもめちゃくちゃ苦痛になっているし。

 

で、同性間の関係の深さは友情とされるみたいだが、実はこちらの方がうさんくさいという命題の方が本題。恋情は1対1で深くなりたいという欲求だから、性欲の発露だとしてもちゃんと個人対個人の関係ではあるが、友情はもっと集団的・社会的要素が強い。要は物理的な場の継続性による繋がり。何せ頻繁な交信が要る。交流と言っても良い。この頻繁な交流があることによって関係性を証明するメディアがグループなんちゃらであり、この輪における人は別に誰でも良い。自己を証明するために関係を消費する。

 

個人的に、昨日夢に出てきた室長と、今は鳥取に居るウイスキー村上春樹を教えてくれた人と、微妙なところだが僕の部屋に入り浸った人は、唐突に発信しても応えてくれるだろうなと思う。全然会っていないし交信もしてないが、なんとなく残してはくれているだろうなという関係。これを友情というならまだ良いが、繋がっている間にしかないものをそう評するのはいかんともしがたい。僕の語彙ではない。

 

これで言うと、僕が歴代恋人さんを残しているのも、「今でも触りたい」という熱はなくても残してくれたものがあるからなんだよな。熱がなくなったとしても、「その人」の価値は変わらない。なんなら恋人になってなくても変わらないかもしれない。人生で会える人数は有限だし。

 

ここでいう価値とは。

 

新刊枠はSFショートショートでは味気ないため、青春小説を買ってきた。この作者さんラノベからの人で、アニメがとても好きだった。とらドラ!というのなのだが、キャラクターの可愛さとは裏腹に人間模様がとても生生しい。今読んでいる小説は割とぶっ飛んでいるのだが、3年近く付き合って同棲もしていた恋人にフラれた台詞の中で、「あなたにはアイデンティティがない、私の世界観のコピーじゃん」というものがあり、なんとなく分かる部分がある。恋愛感情ってそういうもんだよなと。相手の世界観の中で生きようとしてしまう。媚びではなく同調。していると、つまらない人だと言われて捨てられる。この文脈でいうと詰まらないのは誰なのかということになる。

 

で、僕は集団では頗るおとなしくしているし、飲み会でも全然話さない人だったのだが、なんとなく存在感は認識されていたように思う。なんでなんだろうな。噛めば噛むほど味が出るするめみたいな人と評したのは誰だったけか。そういう意味で、自分が発見されないことに対する苦痛ってないんだよな。むしろ人から見られない方がちゃんと自分を試行錯誤できる。言語は見られるという前提がある不自由があるが、生活で1人になるとやりたり放題で、炒め物をしながら米を研ぐとか人に倣っていたらできるようにはならなかっただろうし、この時間マウスの定位置は左手の方にあるとか、行動規範における一般的な当たり前がどうでも良い。ちなみに少しずつ左手文字もうまくなっている。

 

あと、集団的な雑談スキルについて自分では皆無だと思う。いや、場を回す立場になればやるが、自分が発話するというよりは、発話できていない人を見つけて促すとかであって、別に自分が話す訳でもない。基本的には人は話したい人だから、きっかけさえ作ってあげればなんとでもなるというイメージ。1対1の方が好きで、雑談ではなく対話になる。僕は聞いてくれる人にしか話さないが、僕が聞いてくれる人だと認識してもらえば人を楽しめる。営業畑で発話に慣れている人が素朴の語彙を探すために言葉が詰まる時間は至高だった。

 

雑談で人を知ろうという試みは面白いが、雑談で現われる人の語彙はだいたいが惰性というか、癖だと思われるから、そんなに分からないと思われる。

 

「人となり」は外から何をもって分かるのか。

 

というか、他人の「人となり」を何の対価もなく知りたいと思える人ってそんなにいないよな。

 

時間切れ。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

すっきり

 

 

すがすがしく目覚めた体感温度上着を羽織らずに出勤する。纏う布が減るのは身軽だがなんとなく心もとない気分になる。肉が薄いから自分の物理的存在感も薄い。さすが、衣服は皮膚の拡張メディアだ。しかし、メディアとシステムと記号との違いは何なのか。調べても分からないから考えるしかない。

 

メディアとシステムは、人の認知を作り変えるという意味では良く似ているし記号もこれがあることにより、人の認識が省略できるというか、そうであると依拠できる。思い付きではなく、もっと本腰入れて考えないとな。

 

夢はこれで短編小説ができ上がるのではという面白さ。前半は主人公(完全に僕の主観とは一致しない)が住んでいる部屋に他人の気配があるという物語で、「鈍いから大丈夫かと思った」と女の子が出てくる。その女の子と主人公は接吻をするのだが、その後のせりふ回しも面白い。「鈍いと思っていたけど、なかなか」とか、「この体勢であれば私は攻め役」とか。別に官能小説には突入しない。

 

後半は、高校1年から3年間同じクラスだった、同級生が出てきた。もちろん名前はフルネームで漢字表記できる。貴き日が光る。名前で呼ぶのが気恥ずかしくて、高校1年での役職だった室長でずっと呼んでいたが。結婚式も行ったし万博の時にも遊びに行った。あんまり具体的に何を話したかは覚えていない。室長と話していたら、俺の妹と仲良くやっていたよなと言われ、はて、そんな人物居たっけとなり、いやいや、会いに行けよという流れ。もちろん、現実では彼に妹は居ないから、ここからは架空の人物の話。確かに年下の方が上手くいく傾向はあるが、別に妹属性に萌えはないはず。むしろ、まぁ良い。

 

それで、室長とセットで架空の妹さんに会いに行く。今何をやっているのだと兄が聞いたら、「ノープラン、仏教をやっている」とか宣う。夢の中での僕は何故か酔っぱらいのごとくやらかす。何か置いてあるものを倒したり、やってはいけないことをやったり。家の中に川みたいな水の流れがあって流れの先にドアがあるのだがそれは開けてはいけなかったものだったらしい。そのあと室長に、お前良い大人なのだから、まともな危機感持った方が良いよ、分かっていると思うけど、と言われ、夢の中の僕は思いのほか凹んで泣きそうになっているのだが、架空の妹さんが、この人めっちゃ堪えているよって言葉は悪くとも寄り添ってくれて、ある意味現実的感覚としてありがたやーというところで目が覚めた。

 

夢から覚めてみると、なんというか、1つの熱が醒めたという感じがした。感情は意識できる主観ではコントロールできないが、意識が働きかけることはできるのかもしれない。「好き」は誰が決めているのだろうな。

 

あと、変な感覚だが、僕の時系列の中で、接し残している人が居るのではないかということに至る。僕はあんまり他人の時間を使わせてまで接することに特に衝動がないのだが、僕とまだ接したいという想いがある人が居るのかもしれないという発想。僕を数として見てない人がまだ居るのかも、みたいな。僕は別に自分が誰かにとって価値があるとは思わないが、僕にとっては人は数ではないから、この意味で響く人は居るのかもしれない。ただ、近しい人だけ数ではないというのはまかり通らないよなという実感。人はそんなにうまく切り替えられない。

 

そうして、冒頭の現実に戻る。

 

出勤中目に入ったのは、道の端にある雨の通り道である溝に置き忘れられた何かしらのボール。物語を感じる。色あせるまで使ったのだったらなんで持って帰ってないのか、雨がふれば流れるはずだから、置き忘れたのは喫緊だ、だとすると、エトセトラ。

 

公園に墓地が併設されているのだが、ふと見たら、カラフルなお花がお供えされている。良き良きと思いつ歩きながらよくよく観測すると、どのお墓にも同じ配列のカラフルなお花が供えられていて、ちょっとぎょっとした。お墓参りに来る親族が居ますよというアピールなら少しはバリエーション増やして欲しいところだし、ほんとに来ているとしたらもっと不可思議。世にも奇妙な現実世界。

 

ピンクの絨毯の蓮華草の増殖率が半端ない。昨日と全然違う。昨日は田んぼの面積の2割くらいだったが、本日は、もう5割くらいになっている。建物の影になる部分は芳しくなくて、なんとも植物生化学。植物は動けないから、外的要因でしか変化できない。では、動物はいかに、みたいなことを考えた。

 

何か変化したという部分には敏感に反応するが、それがいつからだったのかというのは定かではない。自分の視界は自由にさせているから、勝手に目に入って来る。ここでは興味とか好意とか無関係。

 

僕は寝ている時以外ずっと考えているし、その考えた内容を言語化することも特に苦慮はない。考え事は眉間にしわを寄せてするものではない。が、別に誰かにあえて伝えたいという感情的な熱はないんだよな。

 

もう良い大人が何を言っているのだという話だが、僕は自分が素朴な自分で在ることにまだあんまり慣れていないのかもしれない。ちょっと立ち読みした本で、時間がどうのというところに、自分の精神性と行動化の一致をちゃんと把握しよう、「汝、己を知れ」というフレーズがあった。1人で稼働してみたところ、このラグはどんどんなくなっているが、まだ先がある気がする。なんであんなにしんどく生きないといけなかったのだろうのその先。

 

別に急いでもないし、ただ生きているだけなのだが、暇は増えてきている。本は読むものではなく見るものになりつつあるし。

 

言葉を書きまくっているが、ここに自分を留めている訳でもないし。

 

ともあれ。

 

メディアの話で、時計と写真の関係性がとても楽しい。時計は社会的に共時させるためのメトロノームだというのはもう実感している。時計がない世界における時間は、断続的なもので外界の変化から概算するしかなかった。満月の後には新月があるとか。共有できるメトロノーム的な時計が発明されたことによって、人にとって時間は持続されるものになる。この文脈で考えれば時間が客観的な世界の理であるというのはフィクションでしかないのだが、アインシュタイン相対性理論で科学的に説明するまで把握できないというのも面白い。いや、現代人もあんまり変わってないが。

 

僕の時間概念を挟んでみる。確かに肉体の経年劣化はどうしようもなくある。白髪が増殖している。が、肉体の経年劣化と精神を同期させるつもりもないし、単純な記憶力でも全盛期に張りたい。単純な記憶力って、記憶しようということではなく、自分が世界を知らないというところが源泉だし。あと、突き詰めた時間の観念は結局のところ単位時間における作業量みたいなイメージ。要は、時間は持続ではなく設定された物理的移り変わりの中での枠でしかない。人生という枠が最大で、あとは細々。

 

時計が時間が持続するものとした観念に対して、写真はその持続を瞬間で取り分けるものとして機能した。で、副次なのか主なのかは分からないが、記録メディアとして視線において圧倒的な証拠になる。皆で共有できる瞬間の記録。ただ、叙述ではこのメディアが生まれたことにより、証拠としてもでも記録としてでもなく、それを写した当人の精神性が描出されるようになったということだった。とても分かる。何が写っているかは社会に流通できるものだが、ここの本質は何を写そうとしたか。

 

ちょっと長くなってきたからそろそろ収める。

 

メディアにおける受け手の参与度で、テレビ、映画、文字、諸々あり、テレビはもともと解像度が低くて、想像で埋めるという余地があったらしい。もともとの活版印刷もそんな感じだとか。

 

僕が文字を媒体としているのもそんな感じなのだろうな。文章はほとんどを受け手に丸投げしてしまうものであるというのが良い。ぼくの生の存在感ととても一致している。

 

ではここまで。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

数という発明品

 

 

 

むしゃくしゃは去った模様。桜が優しげに見えた。ピンクの絨毯の増殖率は凄い。この分だとあと1週間くらいで満開なのでは。

 

さておき。

 

何を言語化しようか。言葉はメタだが、メタではない自分の語彙も在るのかもしれない。お弁当を食べながら考えていた。この世界では言語化された僕しか存在しない訳で、存在し続けるためには言語化し続けるしかない。

 

現実における人間関係観察。雑談ゾーンに入ったためよく会話が聞こえてくる。皆自分のことばかり話す。ちょっと透けて見えたのは、トップで仕事をこなしている先輩に対して、女性の上司は割とてきとーに扱っているということ。てきとーというと語弊があるかもしれないが、見ているのではなくただ褒めている感じ。で、先輩の方も可愛がられている自分を自覚しているような。関係としては1つのカタチなのだろうが、しんどいしんどいと言い合うこととか、凄い凄いとか、そんなこと今の僕にはできないなという感じ。

 

昨日はご飯作りました。ざるそばでした。に対してどうコメントして良いか分からない。当人にとってはよくできたということで凄いと評するのは問題ないが、じゃあ貴方はどうなんですかって気まぐれに聞かれたときには大変過ぎる。昨日は副菜にブロッコリーとマイタケのほんだし和えと豚肉、ピーマン、玉ねぎのケチャップ炒め、サラダに買ってきたベビーリーフにレンチン目玉焼きの半分。本日は、、、。

 

ここを言語化で進めていくと色んな方面から反感なり劣等感なりを受けそうだから省略するし、別にこんなこと書きたい訳でもない。でも、素朴な世界観を語る手段として僕には言語しかないし、こういうこともメタを含めず書けるようにならないといけないのかもしれない。褒められる、認められることが原動力に換算されるって、馬の前に人参ぶら下げて走らせることと同じで、人間の尊厳とは。

 

子供なら分かるし、結果的にありがたいという原動力から離れた認識なら分かる。見られているだけありがたいので、切り離して完全に自分の世界観を言語化してみようかという節もある。そういうのが劇評だったり、書いたことないがエッセイとか小説みたいな媒体になったりするのだろうな。言葉自体が伝達の機能を持っているからややこしいが、自分の中にしかない語彙というのはきっとある。自分自身で「したいこと」というのがあまり言語化されないのだが、たぶんもっとしたいことあるんだろうなという当たりを付けている。

 

 

そういえば、統計学の本は当然今日買って読書時間に入っている。本は読もうとして行動すればすぐ読めるもの。分厚くしたい本は、今のところないか。行動経済学は2周目でお腹いっぱい。経済学全般どうもよく馴染まない。ゲーム理論は気になるが、これって経済学だけの占有の領域でもないし。理論が確固としていないという意味では法学と似たようなものだが、「人の経済行動」って傾向としてはともかく人のことなんも分からないよな。

 

ちょっと分厚くなった統計学の本は、中学校の数学の文章題みたいなところから始まった。喫茶店を経営するにあたり、人件費が1年で72万、家賃30万、客単価が500円で原価が40%として、一日何人お客さんが来ると予測できたら経営に乗り出せますかという問題。あれ、家賃安すぎないか、縁故か(いや当然月額だろう、追記)計算式は省略。大丈夫まだ読める。

 

数学は抽象化して世界を捉えられるというのがこの本の文脈なのだが、たしかにすっきりはすると思う。昔言われていた、読み書きそろばんの三拍子のそろばんが統計学になるべきだという説はよく分かる。個人的に高2くらいまでは数学好きだったのだが、ベクトルと微積分への理解に辿りついてないから、再学習。

 

この数という概念で抽象化して世界を捉えるという文脈は、マルクハーンさんも書いていて、なるほど、僕は世界に合っていないなと思う。曰く、群衆に身を置くことによる嬉しさというのは、「数が増える」という観念によるものだとのこと。多い方が良いって雑だという脇道はともかく、帰属意識とか、抽象的な人間であるフォロワーが増えることが自分の価値になるという観念は、数の発明から来ているのかというのはとても納得できる。

 

交友関係とかアクセス数もカウントがあればあるほど良い。

 

これって、もう少し穿つと、固有の存在である自分が誰かのカウント数を増やすことが糧になるというより、自分も数にカウントされることで仲間が居ると幻想できることの方が主眼よな。ニコニコ動画のコメントの定型文とか国民の1人であるとか通底している。

 

僕が馴染まないと思うのは、自分の数が増えることになんの思い入れもないこと。こういう文字数が2000前後の文章はトータル2年~3年分書いているが、全く自分が増えた気がしない。あえて利点を言うなら、自分とか世界が鮮明になったくらいで、積んだ数なんてどうでも良い。

 

もう少し進めると、僕は人を数としていないなというところ。いやしてないよって言うのかもしれないが、自分の為に過去の人を遣うとか、自分の心地よさのための人とか、まさに人を抽象的に捉えている・

 

具体的に捉えるからこそ、時系列で1人しか場所を取れないし、群衆に紛れることはできても、他人を群衆の1部として捉えることができない。

 

抽象化って、思考のショートカットという文脈もあるが、具体的に考える手段という文脈もある。

 

なんとも自分になってきたものだ。

 

おしまいでおやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

存在

 

 

 

自分の内部が感情的だった。仕事に行きたくないという感覚はとても久々。たぶん席替えの件だろう。座って見ればなんてこともなかった。内部の感情が外の行動に影響するのは誤差。思いの外歩くのが遅かったから途中から早歩きしなくてはならなかったが。

 

あと、自分に対してやたらとむしゃくしゃしていた。これを言語化するとても情けないことになるが、まぁしょうがない。僕の罪。むしゃくしゃしているとはいえ、視界は狭まることはなく、行きはピンクの絨毯の広がりを観察。ちらちらと蓮華草は咲きつつある。満開になるまでの過程が美味しい。

 

仕事は、なかなかに忙しかったような気がする。あまり語るべきことはない。

 

昼休み。公園の桜が満開だ。桜には喜ばしい気持ちよりも切なさが良く似合うなと京都に行ったときも考えていたのだが、これは一般論ではなく、個人的な記録として、桜にあまり良い想い出がないからだろうなと思い至る。春は誕生季節なのに、大事だと思っていた人たちと離れてしまった季節でもある。それでも桜は綺麗だなって思うのは、一種の自虐嗜好なのかもしれない。だからか、桜の季節は色々と終わらせたくなる衝動が起こる。

 

帰り路。ビルの間に満月を見つける。光量を抑えつつ赤みを帯びていて、感情を反映しているように見える。薄雲のベールで輪郭がとても鮮明だった。感情と世界の色は相関しているのはある意味当たり前。青とゴールドのドレスの錯覚と同じように、視覚はそれほど完璧に依拠できるものではない。むしろ、自分を依拠した反映が世界の色である。視力だって深酔いとか二日酔いの時は滅茶苦茶落ちるし。

 

自分に対するむしゃくしゃを一言で述べるなら、自分のプレイに他人を巻き込むなとなる。僕のプレイは人生そのものを対象としていて、言葉でも本気で遊んでいるのだが、そんなことは相手にとってはどうでも良いこと。

 

言葉遊びに本気というのは、僕は自分が規定した語彙に自分の現実も依拠するというか、自分の現実に依拠して語彙を駆使することであり、生身の言葉である。

 

例えば、僕は関係は人と人の「間」にしかなく、当人同士の存在を持ち寄ったプラットフォームのように捉えているのだが、ある人に対しては「間」には何もなかったのではないかなと思う。当人、人間関係はそもそも存在しないという説だし、擦り合わせようがない観念だが、僕はだいぶずるをした。

 

すごくどうでも良い話を挟もう。人間観察というか、人って無意識に歩くとそうなるんだろうなという前提。まず、なるべく歩行路の真ん中を歩く。危機回避の無意識からすると当然ではある。なんにも想像しないのであれば最も合理的なルート。あと、同一方向に歩いていて、前の人を追い抜くつもりがなくてもその人のルートから外れて膨らむ。これも視界を広げることで危機回避に備える動物的感覚なのだろうなと観察される。この無意識的挙動をはた迷惑だと感じてしまうのはむしゃくしゃの副作用なのだろうなと、それだけ。意識しなくても生きられるのが1番幸せだろうし。意識は有事で観測されるだけで良さげ。

 

立ち読みした本で、教養とは自分の頭で考えることができることだというフレーズがあった。確かに、僕は馬鹿だから考え抜かないといけないのだが、自分の頭で考えることができるって、おそらく自分の感情とか素朴な価値観で受け入れられないことを言語的思考で組み立てられることであって、自分を言語で説明することができるではないのだろうな。

 

僕は自分を言葉で説明したいとは全然思わないらしい。

 

次に狙っている本は、「統計学は最強の学問だ(数学編)」

ぱらぱら立ち読みしたら、数字は、時空を超えて抽象化して思考できる対象だというフレーズがあり、こういうのに弱いのだよな。ぺらぺらの本では飽きてきた。法学も数学みたいなものだということらしいし。ただ、興味の全てではない。

 

メディア論は面白いのだが、なんか違うなと思うところもある。

 

メディアが人の拡張だという一般論はとても理解できる。技術メディアによって自分の存在が拡がっている気分は、誰もが味わっているはず。自分の視覚とか発話とかが複製して拡散されることが自分の拡がりそのものだし、電車とか車のインフラだってそうなんよな。自分の行動圏内が拡がることがすなわち自分の可動的存在が拡がる。

 

僕も昔は自分の文章が自己存在の拡張だと思っていたし、恋人さんとよなよな通話して繋がっている気分になっていた。

 

ただ、今の自分としては、メディアによって自分が拡がるという気分は嘘っぱちというか、幻想なような気がする。もちろん幻想がお金に換算できるような時代だから、うまく扱える人は扱えば良いが、メディアがあろうがなかろうが自分は自分であることは変わらない。

 

僕は文章を書かずには居られない人物だと自己認識していたが、もう少し進めると僕の中で文章メディアは間にあるものでしかなく、僕そのものとは離れている。書き続けてきてやっと気づけたというところはあるが、言葉で自分は表現し切ることができるものでもないし、ある意味ドッペルゲンガーみたいな存在でしかない。

 

発話もそうで、自分の中にある伝えたい対象は相手にとっては聞き取った対象だから、一致はない。絶対。

 

やっぱり自分で継続してみないと分からないことはいっぱいあるな。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。