数という発明品

 

 

 

むしゃくしゃは去った模様。桜が優しげに見えた。ピンクの絨毯の増殖率は凄い。この分だとあと1週間くらいで満開なのでは。

 

さておき。

 

何を言語化しようか。言葉はメタだが、メタではない自分の語彙も在るのかもしれない。お弁当を食べながら考えていた。この世界では言語化された僕しか存在しない訳で、存在し続けるためには言語化し続けるしかない。

 

現実における人間関係観察。雑談ゾーンに入ったためよく会話が聞こえてくる。皆自分のことばかり話す。ちょっと透けて見えたのは、トップで仕事をこなしている先輩に対して、女性の上司は割とてきとーに扱っているということ。てきとーというと語弊があるかもしれないが、見ているのではなくただ褒めている感じ。で、先輩の方も可愛がられている自分を自覚しているような。関係としては1つのカタチなのだろうが、しんどいしんどいと言い合うこととか、凄い凄いとか、そんなこと今の僕にはできないなという感じ。

 

昨日はご飯作りました。ざるそばでした。に対してどうコメントして良いか分からない。当人にとってはよくできたということで凄いと評するのは問題ないが、じゃあ貴方はどうなんですかって気まぐれに聞かれたときには大変過ぎる。昨日は副菜にブロッコリーとマイタケのほんだし和えと豚肉、ピーマン、玉ねぎのケチャップ炒め、サラダに買ってきたベビーリーフにレンチン目玉焼きの半分。本日は、、、。

 

ここを言語化で進めていくと色んな方面から反感なり劣等感なりを受けそうだから省略するし、別にこんなこと書きたい訳でもない。でも、素朴な世界観を語る手段として僕には言語しかないし、こういうこともメタを含めず書けるようにならないといけないのかもしれない。褒められる、認められることが原動力に換算されるって、馬の前に人参ぶら下げて走らせることと同じで、人間の尊厳とは。

 

子供なら分かるし、結果的にありがたいという原動力から離れた認識なら分かる。見られているだけありがたいので、切り離して完全に自分の世界観を言語化してみようかという節もある。そういうのが劇評だったり、書いたことないがエッセイとか小説みたいな媒体になったりするのだろうな。言葉自体が伝達の機能を持っているからややこしいが、自分の中にしかない語彙というのはきっとある。自分自身で「したいこと」というのがあまり言語化されないのだが、たぶんもっとしたいことあるんだろうなという当たりを付けている。

 

 

そういえば、統計学の本は当然今日買って読書時間に入っている。本は読もうとして行動すればすぐ読めるもの。分厚くしたい本は、今のところないか。行動経済学は2周目でお腹いっぱい。経済学全般どうもよく馴染まない。ゲーム理論は気になるが、これって経済学だけの占有の領域でもないし。理論が確固としていないという意味では法学と似たようなものだが、「人の経済行動」って傾向としてはともかく人のことなんも分からないよな。

 

ちょっと分厚くなった統計学の本は、中学校の数学の文章題みたいなところから始まった。喫茶店を経営するにあたり、人件費が1年で72万、家賃30万、客単価が500円で原価が40%として、一日何人お客さんが来ると予測できたら経営に乗り出せますかという問題。あれ、家賃安すぎないか、縁故か(いや当然月額だろう、追記)計算式は省略。大丈夫まだ読める。

 

数学は抽象化して世界を捉えられるというのがこの本の文脈なのだが、たしかにすっきりはすると思う。昔言われていた、読み書きそろばんの三拍子のそろばんが統計学になるべきだという説はよく分かる。個人的に高2くらいまでは数学好きだったのだが、ベクトルと微積分への理解に辿りついてないから、再学習。

 

この数という概念で抽象化して世界を捉えるという文脈は、マルクハーンさんも書いていて、なるほど、僕は世界に合っていないなと思う。曰く、群衆に身を置くことによる嬉しさというのは、「数が増える」という観念によるものだとのこと。多い方が良いって雑だという脇道はともかく、帰属意識とか、抽象的な人間であるフォロワーが増えることが自分の価値になるという観念は、数の発明から来ているのかというのはとても納得できる。

 

交友関係とかアクセス数もカウントがあればあるほど良い。

 

これって、もう少し穿つと、固有の存在である自分が誰かのカウント数を増やすことが糧になるというより、自分も数にカウントされることで仲間が居ると幻想できることの方が主眼よな。ニコニコ動画のコメントの定型文とか国民の1人であるとか通底している。

 

僕が馴染まないと思うのは、自分の数が増えることになんの思い入れもないこと。こういう文字数が2000前後の文章はトータル2年~3年分書いているが、全く自分が増えた気がしない。あえて利点を言うなら、自分とか世界が鮮明になったくらいで、積んだ数なんてどうでも良い。

 

もう少し進めると、僕は人を数としていないなというところ。いやしてないよって言うのかもしれないが、自分の為に過去の人を遣うとか、自分の心地よさのための人とか、まさに人を抽象的に捉えている・

 

具体的に捉えるからこそ、時系列で1人しか場所を取れないし、群衆に紛れることはできても、他人を群衆の1部として捉えることができない。

 

抽象化って、思考のショートカットという文脈もあるが、具体的に考える手段という文脈もある。

 

なんとも自分になってきたものだ。

 

おしまいでおやすみなさい。