割り込み

 

 

 

写真が人の視界の切り取りの証拠から進んで、その人が何をしているかの証拠としての拡張作用の集大成が某画像SNSだな。いや、ふと、僕は毎日料理をしていると書いているが、言葉だけでは現実とされるとは限らないと思い、日記に弁当画像付けようと思い付いただけ。こういうのが好きな人もいるだろうし。昔一時期施行としてやっていたこともある。今やるならまずシリコンカップの色合いをもっとカラフルにして、食材選びにも色味の要素が入ってくる。暖色が入ると美味しそうに見えるし。

 

あと、言葉を虚飾としても扱う人はほんとに作っているはずないだろうと穿って考えるかもしれない。まぁそんな人は僕を読まないだろうし、そもそも僕の中で一致していれば良い訳であって、他人に対して証拠を提出する意味がない。

 

良く分からない冒頭になったが、今日はだいたいよく分からない話になる予定。

 

そうそう、昨日の熱が醒めたということ。端的に言えば物理的に近くなりたいという意味での好きを特定の人から解除した。仰々しいが、セルフ失恋認定みたいなこと。こうやって想うと、僕は男女間において、変な固定観念というか強迫観念があるのだということが判明した。僕は男女の友情はないと認識している。近くなりたいすなわちそれは恋人としての希求だみたいな。結論を先に言うと僕は友情すら信じていない感があるのだが、これは強迫観念ではなく生もの。

 

まず強迫観念が生まれたのは、中学1年生時のちょっと痛かった記録。僕の中で性別の境界線がまだ曖昧だったころ、たまたま隣になった女の子と普通に話していたらその子にぶっり的に好かれてしまったことが発端。問題はちょっと周りから的になるような造形の人だったことで、冷やかされてしまう。集団が嫌いのはこの辺りからなのはともかく、男女の関係において、何事もなく近くなることなんてありえないのではないかという観念が芽生える。自分の興味に傾注してはいけないというより、普通の素朴で他人に接してはいけないみたいな。どういう風に接したかは覚えてないが。

 

例えば、僕が他人からの好意を自尊心に還元できるような人物であればそこまでこじれることはなかったのだろうが、そんな普通の人ではなかったからなかなか大変。女性は接し過ぎると自分を好いてしまうという強迫観念を裏付けるように、何かそういう人物が時系列で現われてしまう。これが女性だったらなんとなく分からないでもない。なんだかんだ求められる性だもの。さすがにここでフリーになって何かしらの人物が現れるとは思えないが。なにせ、そうやって関係を醸成するために処分時間を充てる価値観が今はない。母親との週一のLINEもめちゃくちゃ苦痛になっているし。

 

で、同性間の関係の深さは友情とされるみたいだが、実はこちらの方がうさんくさいという命題の方が本題。恋情は1対1で深くなりたいという欲求だから、性欲の発露だとしてもちゃんと個人対個人の関係ではあるが、友情はもっと集団的・社会的要素が強い。要は物理的な場の継続性による繋がり。何せ頻繁な交信が要る。交流と言っても良い。この頻繁な交流があることによって関係性を証明するメディアがグループなんちゃらであり、この輪における人は別に誰でも良い。自己を証明するために関係を消費する。

 

個人的に、昨日夢に出てきた室長と、今は鳥取に居るウイスキー村上春樹を教えてくれた人と、微妙なところだが僕の部屋に入り浸った人は、唐突に発信しても応えてくれるだろうなと思う。全然会っていないし交信もしてないが、なんとなく残してはくれているだろうなという関係。これを友情というならまだ良いが、繋がっている間にしかないものをそう評するのはいかんともしがたい。僕の語彙ではない。

 

これで言うと、僕が歴代恋人さんを残しているのも、「今でも触りたい」という熱はなくても残してくれたものがあるからなんだよな。熱がなくなったとしても、「その人」の価値は変わらない。なんなら恋人になってなくても変わらないかもしれない。人生で会える人数は有限だし。

 

ここでいう価値とは。

 

新刊枠はSFショートショートでは味気ないため、青春小説を買ってきた。この作者さんラノベからの人で、アニメがとても好きだった。とらドラ!というのなのだが、キャラクターの可愛さとは裏腹に人間模様がとても生生しい。今読んでいる小説は割とぶっ飛んでいるのだが、3年近く付き合って同棲もしていた恋人にフラれた台詞の中で、「あなたにはアイデンティティがない、私の世界観のコピーじゃん」というものがあり、なんとなく分かる部分がある。恋愛感情ってそういうもんだよなと。相手の世界観の中で生きようとしてしまう。媚びではなく同調。していると、つまらない人だと言われて捨てられる。この文脈でいうと詰まらないのは誰なのかということになる。

 

で、僕は集団では頗るおとなしくしているし、飲み会でも全然話さない人だったのだが、なんとなく存在感は認識されていたように思う。なんでなんだろうな。噛めば噛むほど味が出るするめみたいな人と評したのは誰だったけか。そういう意味で、自分が発見されないことに対する苦痛ってないんだよな。むしろ人から見られない方がちゃんと自分を試行錯誤できる。言語は見られるという前提がある不自由があるが、生活で1人になるとやりたり放題で、炒め物をしながら米を研ぐとか人に倣っていたらできるようにはならなかっただろうし、この時間マウスの定位置は左手の方にあるとか、行動規範における一般的な当たり前がどうでも良い。ちなみに少しずつ左手文字もうまくなっている。

 

あと、集団的な雑談スキルについて自分では皆無だと思う。いや、場を回す立場になればやるが、自分が発話するというよりは、発話できていない人を見つけて促すとかであって、別に自分が話す訳でもない。基本的には人は話したい人だから、きっかけさえ作ってあげればなんとでもなるというイメージ。1対1の方が好きで、雑談ではなく対話になる。僕は聞いてくれる人にしか話さないが、僕が聞いてくれる人だと認識してもらえば人を楽しめる。営業畑で発話に慣れている人が素朴の語彙を探すために言葉が詰まる時間は至高だった。

 

雑談で人を知ろうという試みは面白いが、雑談で現われる人の語彙はだいたいが惰性というか、癖だと思われるから、そんなに分からないと思われる。

 

「人となり」は外から何をもって分かるのか。

 

というか、他人の「人となり」を何の対価もなく知りたいと思える人ってそんなにいないよな。

 

時間切れ。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。