読書癖の起源

 

 

もう木曜日かという感覚と、まだ木曜日なのかという感覚と。

昨日の日記は編集しなくて良かった。

 

 

引き続き朝から無慈悲な雨。道路に川ができていて靴は用をなさない。長靴を履いている人も見かけたが、僕は長靴履いていてもだいたい中からぐしょぐしょだったな。本日もぐしょぐしょで、折り畳み傘もたいした役には立たない。会社は快適なオフィスだからしっかり空調が効いており、冷やされた空気が服を乾かしながら僕の体温を奪っていく。昼休みにこのままではマジでヤバイと思い、せめて靴下だけ履き替えた。

 

人工的に均された街では体を温める場所は1つもなかった。

 

こういう感じでとても気分が良くなる状況ではないのだが、中身ではかなりテンションが高い。なんでだろうと内省してみる。アクシデントに対する高揚なのかとも考えたが、たぶんほんとに雨が好きなだけ。なんでこんなに好きなのかの出自は不明。

 

昼休みにブックオフに行ってみたのだが、「絵画の言い分」なかった。というかちくま文庫はおろか講談社学術文庫岩波文庫もほとんどない。文庫本の法律棚になんで「千夜一夜物語」あるのだ。というのはともかく、天文学の本は一冊良さげなのがあった。東京大学出版会の本。ただ、はしがき見て2009年。うーむ、おそらくこの10年ちょいでもっと進歩しているよなーと。ジュンク堂とか紀伊国屋とかで、最新を吟味すべきかなと思い、断念。

 

現実世界について。

昨日の通話で嬉しくなった母親から朝一で体調の報告があった。1回目より楽だったらしい。良かった。

 

そうして、変な話だが、「現実世界でも日記で書いているような突拍子もないこと言って良いのかもな」となった。上司とこのご時世の雑談をしているときの話。この上司、何歳かは知らないが、俗っぽく寂しがりやでちょっと好ましい。出かけていないとやんわり濁していたのだが、ふと、「人が居ないところに出かけています。川とか森とか。」と言ってみた。

 

嘘だーと投げ返されたが、その単語ほど信じていない感触はなかった。とりあえず自分の世界にはない現象だから嘘だと評してみたが、年下上司男子の体調不良発言を信じていないという水準ではない。

 

語れば語る程、星人具合が露見するからあまりやらなかったのだが、別に無理してやらないとしなくても良いかなというくらいの緩み。僕の読書癖を職場の人に言ったら引かれるだろうが、引かれるから言わないというより、言う機会があれば開示して良いかなという感じ。

 

ここで、人の言葉の力について考えた。(足から体温奪われながらお手洗いに座って)

 

どんな言葉でも信じるか信じないか、肯定否定とは別に、どうあっても「認識されてしまうもの」が言葉。という意味からすると、一種の現実として作用している。もっと適切な表現は「環境」かな。環境に人格が作用されるというのは一般的な承認があるはず。

 

とすると、中身の言葉は嘘でも肯定的なもので溢れさせるってとても大事だよな。僕は言葉で自分を考えることはあんまりしていないが、現実的に失敗したときにも、許しの言葉を唱え続けるとかはとても理に適っている。

 

僕を読んでいる人が楽でありますようにという祈りとしての祝詞も、こういう環境レベルでは精神衛生に寄与するのかもしれない。と考えるとやはり言葉遣いって大事なのだろうなと思う。

 

これと同じ水準だが、言葉が環境にしか過ぎないのであれば、現実的に本音をもっと開示しても特に問題ないのではというところに戻る。琵琶湖一周してきたぜとか、そこで悲しみと出会ってきたぜとか、毎日30冊くらい並行的に読んでいるぜとか、3千文字くらいの文章書いているぜとか。これって、あえてアピールすることでもないが、相手の中で僕という人物が更新されるだけで、それに伴って自分を鑑みる人なぞほとんど居ないだろうし。

 

なんか、何をそんなに怖がっていたのだろうと、我ながら思う。

まぁ、あんまり変に突出すると変に注目されるという学童時代の経験則だろうが、今更そこまで気にする環境にはいないし。別に母親と隔絶したところで、僕の人格はなんとも揺らがない。その後でも勝手に気になるのだろうが。

 

という感じで、想い付いた発言はなるべく留めないようにしようとする試みをしています。

マイミクさん達、適度に付き合って下さいな。笑

 

さておき。

 

知識と思考力が凄いみたいな評価をいただいたが、そんなもの僕にあったっけと。

僕の独自路線かもしれないが、自分の中にある概念を知識とはしないし、意識的に考えるのもほんとはとても苦手としている。

 

知識という観念って、それを得る目的があり時間をかけるという手段を用いて得た財産みたいなイメージ。たぶんそうやってきたという自負とセット。僕はそういうのが駄目で、最近は覚えないようにしながら書物を読んでいる。覚えなきゃという意識が不純物というか、この意識で脳の資源が使われるし、この意識を持ったところで再現できるかどうかは脳の関門を通るかどうかだし。

 

人の誕生日もずっと覚えられなかったのだが、覚えるべき対象でないとしたことによって再現できるようになった。好きな人の誕生日は12月5日(推定)。

 

個人的な脳の機能を鑑みるに、それが再現できるかどうかというのは焦点が合うかどうかみたいなことで、知識という文脈ではない。まぁこれを知識があると評されるのは良いが、知識がありますかって聞かれたら、本音の僕は何も知りませんって答える。

 

思考力も難しい。

僕は特に地頭もないし、ロジカルシンキングもない。ただ、なんとなく非言語領域が考えていることを言葉として取り出しているというくらいだから、考え抜いてしんどいとかはない。ロジカルシンキングはやろうと思えばできそうだが、まぁまぁ面倒な感じ。これって答えに辿り着く方法ではなく、あくまで説明のためのものだし、僕はそこまで自分が伝わることに重きを置いていない。

 

仕事で話していて思うのは、人に伝えるために必要なのはロジックというより、相手に対する配慮だと思う。相手をちゃんと自分と同列の人と捉えているか。

 

ここで思うところがあった。インターネット世界における文意のやり取りってほんとに成り立っているのか。でも、省略。

 

ここから本題というか、僕にとって本とは。

 

本を読むようになったきっかけはなんだったのですかと聞かれた。

即答できなかった。

 

もともと、活字を自覚的に読みだしたのはあくまで娯楽の領域で、日本の小説家の本ばかり読んでいた。高校後半から大学時代。

知人には女性作家を読めない(性描写が綺麗過ぎるとか)人とか、村上春樹ばかり読んでいる人とかが居たが、僕は江國香織さんとか、美味しいコーヒーとか、守り人シリーズとか、まぁ結構雑食ではあった。

 

そうして、小説ばかりを読む環境から変わったのは、本の先生との出会いになる。司書をしていた人で、図書館にキャリーバックを持っていってはしごして狩りまくり、本の世界に没頭してしまう人。

 

ここであぁ、僕も好きに読んで良いのかとなった。

本との出会いの共時性を肯定してくれたし。

 

そうそう、ここまでは本はあくまで情報で、娯楽とか知識の為の目的という括りだったから、全然関係ない本を読むということができなかったのだった。

 

もう、ここから爆発。

 

本は自分にとって安全な存在ではなく、ある意味人と同じくらいの重さを持っている。

本との出会いは、自分の認識が更新されうるもの。だから偏れない。もうなくなってしまったブログサイトのタイトル「偏らない」だったな。

 

今更数学とか歴史とかを読んでいるのも、当たり前にスルーしてしまった世界の認識し直しであって、何かの役に立ちそうだからということではない。

 

なので、僕が本を読むようになったきっかけは、本の先生との出会いによって、本を自分と同じ水準の存在だと認識して良いのだと認められたからだと思われます。日記の中で作者に「さん」を付けてしまうのは、敬称ではなく知人感覚だから。近しい知人の言ったことって自分に否応なく浸透されるでしょう。(どうなんだろう)

 

僕が直に会話してみたいなと思った日本の文豪のトップは坂口安吾さん。

夏目さんは綺麗な文体だが、そこまで会話はしてみたいと思わない。梶井さんは無口っぽい。

 

本は人が書いているのだから当たり前のこと。

 

実際の人もこういう風に見ている。

僕は自分にとっての都合の良さ悪さで人を判断していない。近いから、長いから大事という感覚もない。というか、大事って主観的なものでしかなく、それによって大事だと思われるべきという正しさになると、うちの母親みたいに娘から音信不通になる。

 

人は必要な人に出逢うというのは真理に近い。何故かというと、必要というフィルターを通して焦点を当てているから。もっというと個人として認識できる人が必要であるということ。

 

面白い人とか、いじめてくる人とか、大事な人とかは類型で捉えている以上あんまり個人ではない。というか、自分を揺らがさない人って、あくまで自分の人生舞台の登場人物でしかないのではという感じ。

 

この話を突き詰めていくとややこしくなってくるのだが、別に刺激とか非日常のことではなく、相互の影響ということ。

 

時系列でポカしたなと思うのは、もっとこの自分であったら良かったなということだが、そこで離れてしまったのであれば、そういう縁起だったのだろうなとなっている。現実的に触れる対象だから好きであるということでもないし、よくここまでしがらみがない状態で生きてきたなと我ながらグッジョブ。

 

ちなみに、僕は年収最底辺レベルだし、そんなに高尚な人物ではないです。

自分の使い方によっては、嫁も居て、家建てて、車も所有してってできたかもしれないとは思わなくもないが、そういう俗っぽいことにはあんまり興味も執着もない。

 

なんの話なのか分からないが、すっきりはしている。

 

では、おやすみなさい。

 

良い現実でありますように。

 

 

 

 

境地

 

 

今日の雨は本気で容赦がなかった。靴もスラックスもぐしょぐしょで、新聞を詰めたりなんだりで後処理が大変だったが、この手間が増えることと好きなことは全然連動していない。別に何かを返してくれることもないが、昼間の公園の池に無慈悲に降る雨。帰りはYシャツの右だけ袖をまくり傘から出して触れ合ってみる。良き。

 

地方によっては大変みたいだが自然って本来これくらい怖い存在。これを「怒り」と捉える人間の感情も分かるところである。畏敬は畏怖とセットだが、この意味でいうと自動車も怖い。自分が退場する可能性はともかく、人を容易く退場させる力を持つ道具を日常に含ませるのはかなり恐ろしくないか。よくもあんなにびゅんびゅん飛ばせるものだ。

 

さておき。

 

仕事では先生が一回目の翌日に体調不良で来てすぐ帰った。歩く速度があきらかにおかしかった(いつもは普通の人よりかなり早い)からどうかと思ったが、やはりしんどいとのこと。なめていたとも言っていた。この流れで母親が本日2回目と言っていたから、なんとなく仕事が終わってから電話すると、たいそう喜ばれた。僕はひねくれ者なので、この前、どうせないと思うけど心配ならかけてきても良いやで(ちらちら)と言われたことで、この行為になった。まぁなんともなくて良かった(素直)。

 

ちょっとここで思うところがあるのだが、とりあえず後回し。

 

インターネット世界で文章を漁っていると、「私をはなさないで」ってやはり「約束のネバーランド」の種本になったという噂があるのかと知った。全然知らなくて、雰囲気から繋がっているのかなというのはあったが、他の人でも感じる人は居るのかという感じ。僕は小説の方はもっと広く社会の寓話性を感じる。不安を煽って来るというか、当たり前の地面が薄氷だったと気付かせされるというか。主人公は微妙にまぐわい依存症みたいなのだが、この繋がっている感も不安を煽ってくる。この2つの作品時系列的にはどうだろうとふと思ったが、僕は別に自分の感じを検証して正しいものとすることには衝動は向かわない。

 

ここで哲学の連載記事。全部読み終えたら、続きは「初めての哲学的思考」を買って下さいという宣伝だった。のはまぁ良い。この人のもっと専門的な本を読んでみないと相性は分からない。と思ったら既に読んでいたりするのかもしれないが。

 

哲学が自然科学に派生したのは良く知られた話。神話への対抗だったのかは定かでないが、万物の本質はなんなのかを実験器具がない世界で思考だけで考察する。水だ、火だ、アトムだという発想から自然科学の実証的手法の発展により、今の世界観があるとのこと。

 

面白いのが、科学が考察しているのは「事実の世界」で、哲学は「意味の世界」を見ているという話。人間は事実の世界に生きているというのが科学の考え方で、この事実って分かり易くて良い。リンゴが木から落ちるのは重力だと知っている人の間では容易く共通理解に至れるという意味。ただ、この事実って現象のありうる「意味」の1つでしかなく、何を事実として検証するかというコンセプトは意味の世界が前提になっているとのこと。

 

これを読むだけやっぱりそうだよなと思うのだが、どうだろう。僕は哲学は専門的に一切学んだことがない独自というか在野でやっているだけだが、可能性的ものさしで生きているなと思ったのが2年前くらい。

 

意味という言葉の意味ってわかりにくいが、もっと分解すると解釈ということ。○○を事実とするときには、○○と事実を結びつける道具ないし媒体が必要であって、それが解釈という思考作用。で、解釈の数自体には制限はない。これが共通理解の多い領域になると「普通」とか「社会通念」とか「当たり前」とかになるが、ニュートンさんが木から落ちるリンゴという現象を見て、単なる自然ではなく何らかの力が働いていると意味付けたことから現代物理学が始まった。天動説が地動説になったのもきっとそんな感じだったのだろうな。

 

要は、「事実の世界」で生きていると思っていても人は「意味の世界」も同時に生きているということ。むしろ、意味の世界を事実の世界に引き直して生きている人の方が多いのかもしれない。

 

この哲学記事では、「一般化の危険」と「問い方のマジック」というのがあったが、とりあえずは前者。これも日記で常々書いている気もするが、自分の経験則を一般化することでそれが事実的に正しいのだってしてしまうことはとても危うい。確かに、生きれば生きるほど経験という事実は増えていく訳で、その事実に依拠するのは当人にとってとても省エネになる。人は楽したい動物だし、僕もこの年になってそういう力を否応なく感じる。解釈ってエネルギーを使うことだから、なるべくしたくないのが自然。

 

別に経験則を自分の中で一般化することは問題ない。その人しか経験できなかったことだし大事にしていい。ただ、一般化の延長は正しさであって、正しさというのは他人もそれをやってしかるべきという道徳化が行われうる。最近の若者はとか、昔はもっと良かったとかそんな陳腐な言葉になるが、こういう人が周りに居るとたまったものではない。

 

当人の中での一般化というのもその経験をしたときよりも今は時代が進んでいると考えるとそれほど依拠できるようなものではないのだが、他人にそれを強いない限り当人の自由ではある。

 

後者は、イエスかノーかの質問で問われると、回答は2択しかないという前提が生まれるという話で、クローズドクエスチョンみたいなこと。哲学はそういう問い方をするものではないとか。これは人と議論するときよりも、自問自答するときの話だろうな。僕はあんまり自分がなんでそれをしているのかについて考えることはなくなった。まぁそういうもんじゃろなとしている。

 

そういえば、帰りに雨が降っていて、電車の車窓からの雨が見たいと思い電車を使ったのだが、人が多くてそれどころではなかった。駅について何気にふらっと本屋に寄ったら「生物学的にしょうがない」という本があり、ぱらぱらとめくる。「浮気してしまうほどまぐわいが」はい飛ばして、

 

「嫉妬してしまうのはしょうがない」。曰く、共同体における資源の分配が不平等であることに対する感情で、それに気付いた分配者が、再分配してくれるために必要だとのこと。

いや、分かる。確かに、僕にもこういう感情の経験はあり、近しい人が自分よりほかにリソースを分配しているときに、自分にもって。ただ、これってだからしょうがないって思ってしまって良いことなのかという疑問。

 

言い過ぎかもしれないが、この言語化で納得できるのは、生物がどうのより、人間的には赤ん坊くらいの感情ではなかろうかとなった。これって、相手を見ている感情ではないよな。自分にとっての誰かへの感情。この関係で良いのならそれでいいと思う。別に僕は他人の選択は知ったことではない。選択にまで関与できない尊重すべき等価の存在と見ているから。

 

こういうのが市販本にあるのかとちょっと愕然としたが、まぁ良いとして。

 

口直しに刑法の話。ちょっとだけ専門的になるが、犯罪とは何ぞやというと、一般的感覚としての「わるい行為」ではなくもう少し進んでいて、構成要件に該当する違法で有責な行為となる。

 

これは、国家権力が、恣意的に犯罪を決めないようにするという抑止力のために細分化された概念で、犯罪行為の類型としての構成要件と、正当防衛とかの違法性はともかく、最後の責任がとてもやっかい。「非難に値するか」ということで、個人的関係における非難可能性であれば、関係の中で決めれば良いが、国家レベルとなると、難しい。今読んでいる本では「人に自由意思はあるのか」という論争が書かれていてとても面白い。そうそう、こういう話が読みたかったんだって。生物学的な原因での行為は非難に値しなくて、規範的理由の行為は非難に値するという学説があったが、こういう文脈で、心神喪失状態における犯罪行為が漏れるのだよな。細かいのは省略するが、刑法学者でさえ、人の行為に自由意思はない(今のところ証明不可能)と捉えているのがとても面白い。

 

別に個人的に自分が自由だって思うのはいくらでも解釈できるが、自分の行為が、何にも支配・影響されていない任意とほんとうに言えるかどうか。僕は巨木巡りとはほんとに任意だとしている。事実的には何も動かない行為。自然に向かったからって僕が事実的に癒される訳ではない、他人には検証不可能な領域。

 

だからこそ言語があるということか。

 

芸術学の本で、人は媒体(芸術・メディア)で人に伝達しようとする意図がある情報があるが、伝わる情報は意図した情報そのままではなく、意図していない非媒体的なものも含まれていて、一致はないということだった。確かにそう。意図したように人には自分は伝わらないし、他人の意図通りに自分へも伝わってこない。

 

ここで見た時、僕の経験則上、なんだかありがたがられることが多い。特に会話が上手い訳でも発話をして場を回す訳でもないのに。もちろんこういう哲学的なことも言わない。誰かにとって自分がどういう存在なのかってよくわかんない。

 

で、本日の母親との会話で嬉しそうにされたとき、僕はこういう現象が好きなのかもなと感じた。別に事実として何かが返って来るという連動はないし、自分がそれをすることで満たされるという奉仕的精神とも違う、嬉しさの収集。

 

僕の日記もそういう風に読まれているという感じがあるから終わらないのかな。

これが愛の範疇だとすると、僕の愛の範囲は対個人ではないような感じ。でも別に僕の哲学と共通項があるから良いとはならず、たんなる共時性。対個人に絞ったとして僕の愛を受け止められる器がある人物が想定できない。笑

 

というところと不謹慎はまま連動していて、僕は現世での苦しさはあんまりないんだよな。何か別の対象にもたれることで自分が保たれるという感覚はない。もっと読んでもっと知って、そうして退場するという境地。

 

僕を読んでいる人が、少しでも楽に生きられればなって勝手に祈る。聖人なんかではなく、狂人でもあり、星人でもある。

 

この境地を誰に遣って良いのか。

 

では、おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

てつがく

 

 

母親から「産んでしまってごめんない」と言われる夢。別にショックでも余計なお世話じゃにもならず無感動だった。姉は実際この人に「あんたなんて産むんじゃなかった」と言われたらしいが。僕の解釈は省略。反面教師にして、僕と出会ってくれてありがとうとかこの時代に生まれてくれてありがとうとか思うようになった。姉は自分のことを産まれて良かったと言ってくれる人には出会えたのだろうか。

 

僕が冒頭の発言について何も思わなかったのは、自分の中でこの世界に肉体をもって生まれることが当たり籤(くじ)なのか外れなのかを決めかねているから。でも、時間を生きられるのが人間としての肉だけとすると、当たりなのかもな。動物も時間を認知していると観測されることはあるが、これってバイオリズムと生活リズムとしての時間であり、思えば自分は何年生きた、という認識ではない。これとは別に僕が僕にとって当たり籤だったということはそろそろ認めるところなのだろうな。一瞬出てきた余計なお世話だという言葉は、他人に自分を認められる必要がないという反骨というか自然なのかもしれないし。

 

無感動で家の下から出ると、桟橋に拡がる溜まりないし池だった。対岸の木々の枝で知らない野鳥が求愛行動をしていた。父親があれは求愛行動なのだと教えてくれたので分かったのである。そんな中、夢の中の僕は「家を出なきゃ」となり引っ越しの準備をして出る。その時、何故かやたらと人をこばかにしてくる中学校の同級生男子が出てきて何かを言っていた。とても苦手な人だった。僕の時系列、人より優位であることで自分を保とうとする人がやたらと居た。

 

現実の光景が増えると夢の光景も増えるのかもしれない。連動しないとしたら、あんまり現実を生きていないのではというのは、言い過ぎか。

 

夢の後半は、一変し、「大丈夫だと思った」と言いながらゲイの人に襲われそうになる。そんなゲイおらんじゃろと思うが、これはちょっと経験とも繋がっていて、なんとも言えない感じ。大丈夫だと思ったとか合意があると思っただけで物理的な行為に至ってはならない。この文脈では言葉はギリギリ非現実。

 

本日の仕事では、やたらと僕を指名してくる女性が居た。指名制というはないのだが、割と話し込んでしまったから他の人が続きから対応するのは難しい。僕はこの人結構苦手。沸点低いし他人を道具にしている感じがある。「専属で」とか言われたが、認められているのではなく、都合の良い人物認定な感じ。まぁでも、認知できればそんなにエネルギーは消費されない。

 

さておき。

 

アラームより10分早く目が覚めたため、ふと「哲学とは」という質問をグーグル先生に投げてみた。すると哲学者さんの連載記事が返される。「哲学とは物事の本質を知性によって認識しようとする営み」、「哲学と宗教の違い。宗教は神話によって本質を呈示するが、哲学はたしかめ可能性を呈示する」。うん、僕の生活的日記的思考だった。

 

そもそもは、身の回りにある常識とか当たり前(感情も含む)というところから来ている。20歳前後の時からずっと考えていた。心理とか言葉とかについてはまぁまぁ言語化していたか。言葉については箱であるという説から、今は、日常においては人の言葉を信じざるを得ないという観念はどうしてかとか。

 

さらに色々言語化できるほど表層になったのはもっと後。あんまりこういうことを考えているって現実には恋人さんにも言えないし。最近自由になってだいぶ遊べるようになったところ。僕の日記をずっと読んでくれている誰かさんには分かるかもしれないが、1年前の日記はもっと重かったはず。当たり籤だと思えるようになったのも、こういう思考で遊べるようになったからかもしれない。

 

こういう感じになって、ふと、なんだか毎日走馬灯を生きているようだと観測される。だからといって、過去に引っ張られて現在を蔑ろにするわけでも無く未来に安心を求めることも無い。5月終わり辺りから、時間の流れが滅茶苦茶遅い。仕事時間は早く終わるがその前後の時間をちゃんと過ごしている感じ。別にぎゅうぎゅうに詰めているわけでもなく認識の凝縮というか、わりと緩い。よくにやにやしているし。

 

ずっと昔の1人の男の子が出てきた。別に何時かの同級生でも何処かも定かでないのだが、なんとなく僕はこの人を尊敬していた。おそらく年上だったのだろうが、病気か何かで成長が進んでいない、とても小さな人だった。何を話したのかも今は出てこないが、達観している感じ。いつかもどこかも分からない人物との邂逅なぞ幽霊みたいだが、過去の記録としての人物との会話は自分しか証明できないのだから、他人にとっては全て幽霊みたいなものだろう。これを自然に実存とみなせるところに言葉の強制力がある。この辺りを哲学中。

 

なんかほんと好きだったのだなという感じだけが再現される。

今は生きていないような気もして、ほっこりと悲しみが半々。

 

もっと現実寄りな走馬灯としては、季節柄。実家の辺りは普通に蛍が生息している場所で夜道を蛍を眺めながら歩いているシーン。真っ白で裾がカールしている蛍が入ったら電球みたいになりそうな花ってなんていう名前だっけ。とても上品。同じ道でも季節が変われば彼岸花の真紅になったりして。

 

あと花火か。何人かと何か所かで見た走馬灯。

浴衣は良いよな。と、走馬灯を表現し出すと本気の本の話と同じく終わらないからやめておく。

 

ちょっと未来の話。

 

熊野詣のスポットは決めた。「夫婦杉」と呼ばれる樹齢800年の先輩方が居るらしい。パートナー居ないのに自虐かと思ったが、パートナーの本質は、社会的安全にも心理的安全にも関わらないところにあると捉えているから、今のところ羨ましくもなんともなくなってきている。婚姻は契約というパッケージだし、他の現実的なパートナー観もなんらかの委譲みたいなところだし。今のところ互助組織も全く要らないな。

 

いつ行くかって、きっと今週末なんだろうな。

移動費とビール代とコンビニおにぎり代くらいしかからず、誰かとちゃんとしたご飯屋さんで1回飲み食いするくらいの費用で行ける。日常生活で外食費はほぼない。本日の優しい酢鶏(レシピはてきとー)も美味しかった。

 

こう考えると、交友費用ってめちゃくちゃ経済を回していたのだろうなと思う。

今はそういうのが減って外食産業とか大ダメージだろうが、僕が地方に行って人を眺めたフィールドワークだと、割と皆牧歌的に見えた。不必要だったのではなんて言ってはいけない。(地方のご飯屋さんは結構賑わっていたが)

 

僕は別に、自分の考え方が正しいとは思っていないし、人の考えも正しさとして採り入れる訳でもなく、ただそうだとして採り入れる。この採り入れる所作が肯定であり、肯定しているけど許容しないということは背理よな。

 

そろそろリベラルアーツも終わる。歴史を見ていると、戦争によって失われた知っていっぱいあるんだろうなと想う。アレクサンドリア図書館に行ってみたかった。ただ、どの時系列でもよりよく生きるにはどうすれば良いかって考えていた人が居たから、現在安穏とできるということなのかとなると、自分の血筋より人類筋の方がありがたいよな。

 

まぁ、僕は一応色んな単位で物事を考えているが、全体的にどうしたらよりよく生きられるのかみたいなところはない。それぞれの個人が決めたらええんではという感じ。僕を読める人は何か自身に想うところがある人なのではと思った時期もあったが、今は、単なる読み物として面白く読める人も居るのかもしれないとなっている。

 

哲学的思考における人の本質としては、何処まで動物的、社会的な人間論から離れたところで遊べるか。五官の中で一番人間的なものは味覚だと思う。視覚、聴覚は自分がしたいようにはできないが、自分の口に入れるものは選べる。味が美味しいからってなんでも食べるのは幼少期の所作と同義。触覚も任意っぽいが、任意ではないところもあるし。

 

これを読んでいて、実際の僕に興味を持つのかって、無いよな、たぶん。

ちなみに、実際の僕は言語化しているようには発話しない。機能が全然違うから。

 

ヘーゲルさんの精神現象学の上巻は4回目くらいなのだが、本質は全体だとか言っている。確かに全体像に本質は宿る気がするが、それを踏まえた細部を見るのも楽しいよな。本日も丁度良く体に馴染んだ服を着ている女性に視覚が向かうと、サンダルから覗く赤い爪という細部がとても良きだった。

 

いきの構造は2回目。この人ハイデガーとかベルグソンと同じ時代に生きた人だとあとがきで知り、なにやらすげー。

 

結局のところ、哲学って個人の中で検証するものだから、誰かと共通項があるから良いとか、ないから悪いものでもない。これを国家レベルにしたカント、ロック、モンテスキューが受け入れた土壌はなんなのだろう。思想的に採り入れやすかったのだろうか。

 

と、考えていくと、僕個人としては公に認められる哲学の方が偉いとはならず、ちゃんと考えている文章が等しく美味しい。ちゃんと考えるの定義も良く分からないが、おそらく自分が都合が良いように思考を操作しないということだと思われる。

 

今日はここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

 

どこでいきるか

 

 

定期的な筋肉痛。山は登っていないからそれほどでもないし、筋肉痛くらいなら無理にはならない。無理はしない(し人に無理をさせない)ということにしているが、すじならともかく筋肉痛であれば超回復で無理ない範囲がより増えるだけ。

 

ここ何日か、某動画サイトで好きだった人がもっと巨大な動画サイトに別名で公開していて、その声ばかり聞いている。実際どうかは知らないが、僕の中ではそうしている。歌わずにはいられなかったのだろうなという解釈。表現熱って、当人の精神とか生活が凪ぐと冷めてしまうのではという気がする。昔の文豪のイメージだが。

 

社会に収められない自分の何かをアピールせざるを得ないという衝動がギフトなのではと思う。僕には何の才能もなくて良かったなと常々思う。文才があったとしたら気ままに書けないし、読み返したら悶々としそう。一筆書きの後2日目に誤記くらいは直しているが。日曜日は夜遅かったからなかなかひどかった。僕はきちんと社会には収まっている。そういう意味ではすげー普通の人物である。常識を疑っているだけで常識的な行為ができない訳ではないし。

 

さておき。

 

悲しみが過ぎ去るとなにやらそわそわする。何が始まるのだろう、いや何を始めるのだろう、か。古木巡りの次は学習したから1か所に絞る。JRはだいぶ乗ったから今度は近鉄線で熊野古道を歩き尽す。たぶんそんなに人は居ないはず。暑いし。

 

自然を歩いていると、自分の中にある記憶とされているものが次々再現される。この草臭いんだよなとか、この草、茎の部分だけにしたら鞭っぽくなるんだよな、とか。田んぼを車窓から眺めている時、等間隔で色んな種類の鳥が居て、野鳥系は全然知らないらしい。カラスと田んぼの取り合わせはなかなか新鮮だったが、田んぼによくいる白く足長の鳥の正式名称が分からない。サギで良いのだっけ。

 

ちょっと置いておいて。

 

Kindle読み放題で幽霊界の話を少し読んだ(先週のどこか)。冒頭辺りでやめたのだが、幽霊って、魂というか意識というか、三次元よりちょっと上の波長が見えるものなのかなと思った。死んだ人は自分が死んだことが分からないから死体と重なって寝ているとか、幽霊は全盛期のその人の姿になるとか、自分の顔は見られないから、顔から失われるとか、あり得る話。こういうのを実際見たことないのに信じられるのは常識人ではないかもしれないが、ともかく。

 

フレーズとして面白いと思ったのが、「人間は肉体がないと時間を生きられない」というやつ。すごくしっくりくる。意識の高次は肉体の三次元の器に収まっている。意識の時間と肉体の時間の進み方は違うから肉体で時間を調律する。

 

この話からの発想なのだが、文体というか人の存在と、肉体の器は特に等しくないよな。どこかの全盛期で存在としての時間が止まっている人もいるし、肉体に合わせて存在している人もいるし。人が書いている文章ってこういう存在がにじみ出ているのではという味覚論。最終的に自分の原初に返るのだろうかという感じ。好きな人の文体は普通に滑らかでちゃんと鍛えた人という文体だが、滲み出る女の子感。きゃぴきゃぴしているのではなく、じっと大人しくアピールが下手な女の子。という可愛さ。

 

僕が読んでいる、僕を読んでいる人達もだいたい実年齢(あんまり知らないけど)より若いように感じる。若さ至上主義でもなく最初に自分が完成したときに戻ってきているのかなという解釈。僕の文章にはそんな文体アンチエイジング作用はないと思うが、あったら面白いな。笑

 

そろそろ次の本も買わねば。自然科学分野では天文学かな。そういう日記を読んだから昔読んでいた星座とか宇宙の本がぶり返されてしまった。たしかに、宇宙の神秘(ブラックホールとか宇宙の始まり)と、死への感じはとても近い。そういう無への不安を想いながら寝ていたな。

 

天文学としての星の運行はケプラーさんだっけ。宇宙では重力で時空が曲がっているって、どういう世界なのだって思うよな。トランポリンに乗せられたボーリングの球みたいな感じらしいが、そのすり鉢状の空間に光すらアリジゴクみたいに吸い寄せられるとは。科学分野なのにSFみたいな世界だ。相対性理論もきっとそうだが、こういう想像レベルの物事を客観に耐えうるように数式にできたから天才なのだろうな。

 

社会科学では、難しい天皇制か。冒頭を読んだ話ってまだ書いてないよな、たしか(いつだ、1か月は経ってない気がするが)。日本の天皇制って、原始宗教みたいな熱烈な信者が後押ししたことによって存続したのはなんでだっていうことを解明してみるという話だった。

 

昨日笹に短冊をかけているのを見て、そうかそろそろ七夕かとなったのと繋げると、日本人って、超自然なのか自然なのかに祈りとか願いをする感覚がナチュラルにインストールされているよな。自然が祈りに応えてくれるはずはないと思うが、ひどい時には人身御供とかもあっただろうし。人身御供は全世界共通か。神事をイベントにしてしまう感じ。そういうあやふやな信仰の象徴が天皇制だとすると、なんとなく続いているのも分かる。無神論者でも、何か人知を超えた存在が在るというのは共有されているような。

 

この本はどういう方向に向かうのだろうな。わくわく。

 

そういえば、昨日母親のことをぼろくそに書いたような気がするが、僕はこの人のことを母としては当然に尊敬している。この人が無茶苦茶荒れていた時期と一致するのだが、めちゃくちゃ凄い生活をこなしていた。おにぎりはやたらと固かったから不器用な人なのだろうが、ひたすら凄い人。対等な人物として見ると昨日のような記述になる。なんなら人は誰でも尊重するべき対象であるのは当たり前だから、この人だけとはいかないが。

 

この文脈で言えば、ナチュラルな尊重を感じる人しか今は接していない気がする。

行為というより内心のところ。そんなところなんて見えるものなのではないのだが、味の話。

 

認識の対象になる前に存在を感じるのが神の味覚だというフレーズを読んで、たしかに存在ってそういうもんだよなと思ったのであった。

 

あぁそうだ、昨日「社会的安全」の話を書いた。ちゃんと警報が鳴らないと危機回避できないという生物としての人間の習慣。割と安全な社会で生きているから有事に対処できない。

 

という概念とは別に、「心理的安全」というのもある。物事を深く自分に浸透させるためには、この安全性が必要だとか。記憶術の話で読んだのかな。無駄なことを収集したり、考えたりするには、自分が精神的に安全であるという自覚が要る。この自覚は表層ではなく脳の自覚。物事を覚えられないっていうのは、脳が不安感とか焦燥感に占有されているのかもなとも解釈できる。

 

忘れてしまうってそういうこと。昔より今が大事だし、なんなら今より未来の方が大事だという生き急ぎであくせくして時間だけが経過していく。今が満足だと認識しながら、実はずっと不安感が拭えない。脳の容量って特に個体差がないらしいし、僕が凡人代表みたいなものだから、本当に忘れたくないなら、それはできると思う。忘れたくないと思うだけでは駄目だし、ここまで自意識を改革する必要があるのかとなると、そこまではする必要はない気がする。

 

この文脈で僕が止まり木であるという感覚はやっぱりそうなのだろうなという感じ。あまり危険ではないし、自分のことは認識されているし、安心の対象みたいなところ。それでないがしろにしていいと思う人には退場していただいた。

 

まぁ、僕がどう読まれているかは僕の範疇ではないからある意味知ったことではないが。

 

 

ところで、プラトンさん流の世界の階層という話が面白かった。最上位から「一者」、「知性」、「魂」、「現実界」らしい。一者は造物主とのことで、僕は人間が生まれたから造物主も造られたという解釈だけどこれはまぁ良い。

 

魂よりも知性が上なのがなかなかあべこべな感じで良き。ここで言う知性ってなんなのだろうな、世界への理解みたいなことなんだろうか。今の日本でいう知性ってなんだろう。知る性ということからすれば、自分が無知であるということを知って、他者を他者として想像できることとしてみたい。知性がない笑いは駄目だって誰かの日記で読んだが、たしかに他人の無知を笑うのは良くない。自分の無知を笑われることを是とするのであれば良いけど、なんだか愛はないよな。

 

まぁプラトンさんって、その時代の人の認識が影でしかないって考えていた人らしいから、こういう解釈も分かる。この考え方がキリスト教に浸透したところで、神の世界が信仰されたのか、なるほど。

 

こういう感じって別に他人事ではなく、無造作に信仰してしまう対象はどういう人にもありうる。僕は行動と思想は切り分けているからどれだけ考えても特に常識っぽいものとの乖離ははない。

 

常識と思っていることはなんですかって個別にソクラテス問答してみたいところだが、そこまでして自分にたどり着く必要もないと思う。これはこれで大変だし。

 

「読書する人だけが辿りけること」という表題の本があるが、個人的にはこれでたどり着く境地は、人はどこにもたどり着けないし、自分のことすら完璧に分かることはないという行き止まりみたいなところで、それでも何かしますかという判断を迫られることだと思われる。ただ読むだけだったら大丈夫だとは思うが、そこまでほんとに世界を感じたいかというところ。

 

なんだかこのご時世のところで異物を自分の体内に取り入れることに違和感を持たない人って多いんだなと思う。先輩男子は、これをしないと甥に会えないって言っていながら早退したが、ほんとに会えないんかなとか。

 

僕はほとんど他人に会いたいという衝動がないからなんでもないが、それを打ったことで人と会える免罪符にほんとになるのかというところがとても気になる。

 

そういう話なのかって。

 

まぁ良いや。

 

寝まする。

 

おやすみなさい。

 

 

 

ただの人

 

 

今日も今日とてゆめとうつつの境界線に言葉を載せる。傘の持ち手を掌の上に乗せてバランスとっているみたいだ。ぐらぐらゆらゆら。

 

 

掌から入ってきた悲しみは体全体にまとわりつき、体を重くさせる。とはいえ、悲しみもエネルギーではあるため運用方法について考えていた。嬉しさとか感謝とかの正の方向がしたくないことでもついでにやってしまえる軽さだとすると、悲しみの重みは、「したくないことはするな」というブレーキのエネルギーかもしれない。

 

朝、母親から「時間があるときに電話して汗」というメッセージがあり、こういう風に問われたら、そんな時間はないって回答したくなるのが素朴な語用。時間は空から降って来るような客観的な財産ではなく、それをするために創る、調整するものであって意識的に使うもの。一般的な感覚でいうお金と近い。「時は金なり」ってこういう意味だと思う。この意味で考えると、通話って両者のコストがものすごく高い疎通法よな。どちらも同じ時間にそれをすることに合わせないといけない。

 

母親は僕と「関係」があるから、この関係のパッケージの中に通話も含まれているという認識があるのかもしれない。が、そんな合意はした覚えがない。こう書いていると僕がめちゃくちゃめんどくさい人物に見えるが、そういう自覚があるのかということを問うているだけだから、自覚があれば問題ない。人の時間は自分に補填できない価値があるから、相手の判断を尊重する。関係が悪いということではなく、関係のひな型を無作為に用いるべきではないということ。

 

通話内容もなかなか大変だった。試験に落ちたとき、「今後を考える」とメッセージを送っていたのだが、その選択肢に、今の自分が住んでる部屋の空き部屋に住みながら仕事と勉強をすることも入れてくれないかというという提案。内心は僕を狭めた原因に当たる人物とルームシェアとか不可能だわという即答案件なのだが、僕もオトナなので、しかるべくという感じで答える。自分の方が優位だと思っていると今更住むとか無理だろう。

 

続きもので、「恋人はいるのか」という問いで、「中途半端な生活をしていたら相手もできないわな」と言われたのだが、これも押し付けられた強迫観念で、僕は今の自分の生活が中途半端なものだとはしていない。別に毎日働いて料理と文章を創る1人の生活は楽しいし寂しくもないから、恋人という関係のパッケージの人物は求めてない。寂しくなくても一緒に居たい人が現れれば、というぐらいの話。言葉と実体を切り離さないといけなかったのはこういう呪詛的な言霊が世の中にはいっぱいあるからなんよな。

 

ここで、この恋人が中途半端な生活しているとできないという理由付けからすると、親と同居している男性こそより中途半端になって恋人は顕われないというのが自然な論理で、なんとも頓珍漢なことを語っている。でもこれってきっと当人の中では整合性がある。何故なら、ここの部分はどうでも良い話で、最重点は、息子を近くに置くことで自分が安心したいだから。理詰めでいくらでもできそうだが矛盾を突いたら大変だからしない。叔父さん(母親の弟)がちょっと反論したらヒステリーが発狂したのは覚えている。高校時代くらいだったな。この人とは会話はできない=世の中には会話ができない人があるという経験則。

 

心配に客観的な意味があるものだと思っているのもどうも。

すげー構ってちゃんだわ。

 

あと、このご時世のアレを打つかどうかの話。副次的な反応はともかく打ったら安心みたいなのが当たり前だとしているところで、AIの本であった、「社会的安全」の話を思い出した。火災警報器が鳴ることで取り乱して良いというか非日常的行為をして良いという認識。これがどうつながるかというと、おそらくこれを打つことで、この事態に対して自分がどうなっても免罪符というか他責にできるという認識を持っている人は多いだろうなということ。

 

僕はどの選択をしても良いとは思うが、自分の選択に対して責任は持とうなという立場。でも仕事をするのは学校と違って自分で選択した契約なのに、そのパッケージを自責とできないことからするとそうはならんか。したか、してないかで仲が悪くなるというのもなんとなく分かる。でも倫理の押し付けはどうでも良くなってきているからどこ吹く風である。

 

母親が職場でそうなっていないのかと聞いてきたことに対して嘘をついたが、説明して納得するようなことがない人物に対して言葉を尽くすのはただただ面倒なだけ。結局掘り下げて行くと直観の対立になって、相手の直感もありうるものだと受容できる器がない人に説明するエネルギーは持ち合わせていない。言葉の準備はあるとしても。

 

ある意味ボランティアよな。僕は生き延びた自分に対しては良く生きてきたなと思うが、それに対してされたことは、した人の勝手よなと思う。自分が求めたとしても選択するのは相手だし。これを冷たく感じる人もいるかもしれないが、こういう営みと人の本質はあんまり関係ないよなとしている立場。

 

さておき。

 

どうでも良いが、昨日行ってきた場所の省み。人は忘れる存在だというのは真理だとしても、僕は忘れない奴かもしれない。自分しかないのだから、その自分くらいは大事にしておく。ということで、まず、膳所(ぜぜ)から映画館に行って、安曇川(あどがわ)、余呉(よご)木ノ本、高月という駅に行った。長浜バイオ大学は高校時代から気になっていたが、通り過ぎる駅のすぐ前にあった。この中で一番好きなのは安曇川。曇りで安らぐってどういう名付けだろう。実際にこの川を下ったが、やはり川って流れているから澄んでいる。釣り人多いなと思ったら、漁場として対価込みで運用されているようだった。鮎とか釣れるんやろか。鮎の塩焼き好き。アマゴも良き。

 

悲しみをくれた「唐川の野大神」は、調べたところ台風で根こそぎ倒れたとのことだった。自然の所作だったから良かったとはならず、ただただ悲しいな。この悲しさは、浮気された時に感じたものと似ていた。共通項としては、「実存(だと認識していた存在)が喪失されていたことを感知したときの心の動き」。村上さんのどれかの小説の中で、実家の飼い犬はとっくに亡くなっていたが、その事実を知らされたのはずっと後だったみたいなエピソードで芽生えた感情とも近そう。

 

このまま感情の分析へ。感情ってその感情が浮かんでいる状態でしか手に取れない、感覚とは違って。昨日道端に野イチゴが実っていて味覚が再現されたし(良いオトナなので実際は食べなかったが)。でもこれって、ラベルで再現されるという観念だと、感情の方が再現できることになるのだよな。過去も言葉だし。

 

で、悲しさは寂しさとは全然違う。寂しさとか孤独感って人である以上当たり前のものであり、そもそも何かで埋められるものではない。なぜなら、人の本質は、ほかのものではないそのものであり1つしかないから。遡れば遡るほど仲間は居ない。関係とか社会とか生物とかの括りで無理やり共通項を作って慰めようとしても、そこに気付いてしまった人には無理。人間のまとまりでここを充足させようとするのは、物理的な空腹を埋めるために映画を見るみたいな頓珍漢なこと。孤独はあくまで孤独でしかない。

 

人間に固有なものはこの孤独感を感じられることだと思われる。意識は植物にもあるし。クラシック音楽を聞かせると良く育つという機構は意識ととても近い。僕の中では意識って、外界の作用から波紋を受ける器の中の水みたいなもの。これはあくまで受動的な影響からの作用で、植物生理学を読んでいるとそう思う。あらゆる外界に対して反応できる準備を持ったシステム。

 

この文脈から、感情ももともと当人にあるものではなく、あくまで外界に反応するシステムが構築されているとすると、なかなかわかりやすい。その感情の種がないと何が起こってもそういった反応は起こらないという解釈。この種は習慣付けなのかもしれないし、本当にもともと持ち合わせていたものかもしれないし、出自は不明なのだが、少なくとも客観的な存在ではない。

 

今、関東辺りが大変らしいが、これとは別に自分が楽しんでいるということを表明するべきではないという「不謹慎」の感情も学習作用でしかない。常識的振る舞いみたいなことなのだろうが、突き詰めたら、何処かで必ず泣いている人がいるし、なんなら退場している人も尽きない訳で、生きているだけで不謹慎になる。あくまで認識している人の範囲を限定しないと起こらない感情。

 

人間の固有性はこういう機構から離れることもできるということ。

目的とも関係とも離れた可動性。

 

こういう風に考えていくと、僕が他人のその人の範囲を慮って自分を制限することもおかしいよな。僕は会っても良いなって思っている人としか関わってないし言動ならぬ現虚一致。ただ、道が決まっていないところの判断ってかなりエネルギー遣うのも分かる。でも、考えたところで何か答えが出る問題ではないのはたしか。

 

考えるって、未知の道に対してはブレーキの作用しかない。思考を抽象化できていればある程度予測が付くというくらいで正解に辿りつくことはできないし。正解の為に考えるというのは基本的に悪手だと思う。

 

悲しみを観測していると新しい解釈に辿りつく。

悲しみの感情は、新しいなにかの予感みたいなところがある。喪失のあとには誕生があるみたいな。別れと出会いなのかな。新たな巨木は知らないけど、もっと人と素朴で接して良いのかというのはある。母親のめんどくささは取るに足りない。連動しなくて良い。

 

結局は、切り離した後にも尊重できるかというところに人と人の間があるという感じ。

 

あぁそうそう、芸術の自己目的性というのもあった。あくまで自分の為の行為であるということ。無駄に人のことに重きを置き過ぎているから制限されると思い込んでいるのか。

 

こんな感じで、すっきりとしておしまい。

 

おやすみなさい。

良い夢を。

mudai

 

 

未来の自分との待ち合わせ場所に向かうためにアラームより1時間以上早く目が覚めた。今の僕に寝坊はありえない。刑法各論の専門書を1冊流し、朝シャワーで寝汗を流し、蕎麦と梅干ご飯の朝食と優雅に過ごして、ぎりぎりでインナーのTシャツがなかったためインナーは肌着に変更し、淡いピンクシャツに急遽アイロンがけをしたが、全然問題なく予定通りに出発できた。自分で自分を嫌にならないための試行の賜物。

 

しかし、電車に乗った後、ふと、今日自分が土曜出勤の日だったのかもしれないという観念が浮かぶ。昨日帰り際同期が出勤だというイメージは残っているが、僕は自分で自分の信用を無くすようなことまれにやるから信用には足らない。

 

色々状況証拠を積み重ねる。社員の人数が何人で月末月初の土曜日だけとすれば、今日の出勤なのはスパンが短すぎる、出勤の前日は上司が明日よろしく、みたいな確認の声かけをするなど。でもこれって、完璧な証拠にはなりえない。自分の日記で「土曜日」で検索して、前の前の出勤まで遡った記録を遡るのも気休めだとしても、初めて自分の記録が役に立った。

 

現実的な証拠としては、職場からの着信がその時間に鳴ることで、その時にはもう滋賀県なんだよなとまさにその時までヒヤヒヤしていた。ただ、アイロンのコンセント抜いてないかもしれないっていう不安感とおなじようなものなのだろうなという俯瞰もあった。自分の中では実感だからどうしようもないところはある。現認しないことには安心できない。

 

結局今の時間まで1度も着信がなかったから、たぶん大丈夫だったのだろうとは思う。

あくまでたぶんだが。

 

その時間が過ぎて暫定的な安心とともに未来の自分と落ち合う。何年ぶりかに映画館に行ったが、ほぼ貸し切り。僕を含め4人ほど。なんとなく習慣でペプシとポップコーンのセットを買ったが、ポップコーンでかすぎ問題。ひたすら食べ続けて映画の終わり際に食べ終わった。映画が娯楽ではなくなっているのだろうなという感。

 

映画の話。ほぼほぼオリジナルだった。原作で残っているのはピート(猫)と、光るフレーズ。そうそうこういうカッコイイ猫だったなと思い出す。オリジナル要素も良き。ほどほどのサイエンスフィクション。30年後が2025年で、コールドスリープ前の音楽がミスチルのcross roadとか。一番長く過ごした恋人さんと遊びにいったときに弾き語りの人が歌っていた曲だった。道の交差か。

 

映画は舞踊だっていうのが思考する身体だが、僕にとって映画は速度が決まっている読み物なんよな。世界は読むスピードが決まっていない読み物。読み物の定義は客観的にその作品がある訳ではなく、僕とその作品の共同作業によって作品が決まるということ。詰まらないのであれば詰まらなくしか読めない僕の責。主人公のサインが英語なのはまぁ良いとして、車のナンバーも英語表記で、作中の世界の公用語って英語になっているのかとか読める。ストーリーには全く関係ないが。

 

そうそうに話は読めたのだが、タイムマシンで過去に行くという理論のパラドックスの解釈はしれっと描かれていて、なかなか面白ろだった。時間は循環しているから逆回転もできるみたいなやつ。時間が戻せないとルールはあくまで人間がそれを実感しているだけで、世界は人が同時存在していることも許容するくらいの器はあるような。同時存在できないのは世界ではなく当人の意識では。

 

あと、ヒューマノイドの藤木さん。我ながら目が似ていると思った。のはともかく、今で考えても最高峰のAIもともかく、人間のカタチでも、人間ではないと認識されるのって演技でできるのだなと。エキストラの方々も上手かった。普通と違う現象を見かけたとき、AIには判断できないから、ただ、その対象を見る。そして日常に戻る。

 

でも、これって普通の人間の所作でもある訳で、何が違うのだろうな。

 

 

映画の解釈はもっといっぱいあるが、まだまだ先があるので省略。

でも、時間はループしている説はとても実感に合う。

 

映画が終わったのが昼前で、やっとこさ琵琶湖とご対面。雨という予報はやはり嘘で、良い感じの曇り空だった。気分に任せて歩いたあと電車に乗る前に確認すると、動物園は反対方向だった。ここから未来が捻じ曲がる。

 

最終目的地は琵琶湖の北辺りだから、その途中にそういう施設がないかと調べると、あった。次の目的に向かう。前に、コンビニで水分(ビール)補給。店員さんに「おおきに」って言われてほっこり。こちらこそおおきに。

 

文明の利器のルートナビ凄いよな。分単位で同期されている。そうして目的の駅に着き、バスに乗って、8駅。バスって結構危機感をもたらされる公共交通機関。初めてだと、1駅がどれくらいかかるか分からないし、今回のバスはICOCA導入されてないから今ある小銭で大丈夫か、両替のタイミングは如何。とか。

 

ナビに従って降りたバス停はふつーの住宅街で、生活的に使っているだろうお婆さんがこのおっさんなんでここで降りたんだと、ヒューマノイド的な反応をしていていた。田んぼを通り抜け、森の中の道にある民家を過ぎ、目的地には着いた。

 

しかし、閉まっている。ここで残念という感情は浮かばない。なんなら、ここに時間使ったら巨木間に合うのかというところと、動物園はほんとに1人で行きたいところでないしなというところで、上手く調整が働いたのではという感じ。道中が目的だから問題ない。

 

僕はひねくれ者だから、同じようにバスで帰ったりはしない。時間に余裕ができたからもっとこの街を歩く気になる。ここまでは誰かと一緒に行ける領域だが、ここからは無理。

 

歩道がない道路がまず危険。人が歩くように作られていない。なので田んぼのあぜ道に入る。あぜ道は、ちゃんと通り抜けらる道なのか分からないから、かなり怖い。くさぼーぼーで、竹が割れる自然音を聞きながら歩いていると、ライダースーツの大型バイクを運転する人がやってきた。僕は何かの巡回かと身構えたのだが、何事もなくすれ違い、なんぞ、ワクワクしそうな道に入ってきた同志かとあとになって想う。

 

道って、誰かが踏み馴らして整備してくれるから通れるもの。

 

次、やっと古木で、天の羽衣を掛けた柳に行ってみた。ここの湖は琵琶湖よりも好きかも。琵琶湖は波打っていて海みたいだった。生活対象なんだろうな。この余呉湖は、ほんと閑散としている。おそらく遊歩道だったろう道もくさぼーぼーで、しかも、どれがその柳か分からない。

 

ここでフィールドワーク的な思考。行政の観光産業は慈善事業でないのだから、それにまつわるお金を落としてくれる対象としての飲食店とか土産屋とかが開けない限り、整備する動機はないんよな。マジでいろんな意味で怖かった(ここ歩いている不審者と不審者と見られないか、あるいは自然の脅威)。

 

でも、個人的には名前があるかは関係ないから、それっぽい木達に挨拶して回る。ある木には、蛇の抜け殻が付いていて、営みを想う。

 

地方のJRを舐めていた訳ではないが、僕は電車時間に左右されたくないから確認しなかったらトータル3時間くらいは駅で待つことになったのでは。絶対誰も付き合えない時間。

 

そうして、最終地点。

 

地方のJRの2駅の中間に在るらしく、本来は徒歩で行くルートでなはないはず。レンタカーの運用を本気で考えているが、だったらお酒が飲めないんだよな。

 

で、異界の入り口みたいなところを過ぎながら歩いて、ナビの指示に従った先には何もなかった。GPSの誤差かと思って何回も行ったり来たり、グーグル先生の情報と照合したりした。

 

で、よくよく見たら、もうそこにこの巨木は無かった。大神という石碑がなかったら分からないが、切り株と名前が付けられるようなカタチも残ってなかったが、ちゃんと触れてみた。

 

どういう経緯で無くなってしまったかは分からないが、この名前が付いているということは、信仰対象だったはずで、ここの駅の名前も木ノ本で。

 

ここで触れさせてもらった感動は、「悲しさ」だった。

この木が切られていてカタチが見られなかった残念なんかではなく、ただただ悲しい。

 

木のために泣ける変人。

厳密には、木の悲しさに同調できる変人か。

 

そこから歩きながら、このメッセージってなんのだろうなと解釈していた。

 

まだ遅くないことはどれだけあるのか。というのも自然と人との邂逅の違いを考えていて、自然は動かないから自分が行くだけで接することができるとしていた。

 

で、人と人の邂逅を考えると、人って関係か目的がないと他人と会えないよなと。

これは全然悲しいことではないが、この枠で捉えた人って、誰なんだろうな。

 

感動って他人事的なエンターテイメントっぽい結婚式とか告別式の話っぽいが、本当に自分が動いたときには、あー良かったなって日常にはすぐ戻れない。

 

今日は試みでリアルタイムで画像を貼ってみたが、この貼る行為って、単なるお裾分けみたいなことで、共感して欲しいことはまったくない。

 

文章も然り。

 

芸術はアピールだというフレーズを見たが、あぴあーって、顕れるという意味しかなかったような。

 

触れた右手に何か違和感がある。

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

知ること

 

 

可愛いなぁという感覚で溢れたまま寝ると、可愛い人とそういうことをする夢を見た。顔とか体とかではなく存在だから見たこともない人だったのだが、なかなかトラブルが起こる。クローゼットを開けると女性もののベージュのコートが出てくるとか。僕はベージュのコート着たことないが、この部屋には確かにあったことがある。あと、鍵も閉めてチェーンもかけて万全だと思ったら、しれっと誰かが入って来るとか。

 

そんなこんな、致す前に何種類あるのだという何ミリかの隔たりを並べた辺りのシーンで終わる。とても楽しい夢だった。そうだ、致す前の盛り上がりの段階が楽しいのであってその先は別にどっちでも良いのだった。そうして、可愛さも僕にとってはぶすっとしたり照れたりということであり、愛嬌とかではない。

 

そうして楽しい気分で二度寝をすると、今度はスクランブル的な感じ。人がたくさん出てきて喧しい。直近の元恋人さんに泣きながら「七輪を返せ~」と詰めらるシーンが印象的。でナレーション的な僕が、「しかし、七輪なぞ借り受けたことはないのである」と語っていた。ここでいう七輪はなんのメタファーだろう。

 

さておき。

 

相変わらず雨は照屋さんで、夜のうちだけに降っていて曇り空だったが、曇りでも紫外線は降っている、というかつての誰かの教えが掘り返され、どうせだから日焼け止めを塗ってみた。日焼け止めの独特の匂い、好きでも嫌いでもないが出自不明の何かが思い出される。誰が塗っていたやつだろう。

 

仕事はかなり濃厚な案件ばかりだった。20分以上全然知らない人と話した案件が10件はあったのでは。神経使いながら長く通話すると、人格に当てられて頭がぼーっとなる。その上頭も使うから、訓練としてはこの上ない。

 

昼休憩時にやっとちゃんとした雨。職場の休憩室(10階)の窓から眺めながら食べる。その後煙草を吸いに公園に向かい、水面に容赦なくふる雨の波紋をこれこそ雨の本領と思いながら眺めていた。明日履くつもりのボトムスをベランダで陰干ししているのも思い出し、この理不尽さが自然よなと想う。視界の中に濡れそぼる雀が飛んできてなんとなく楽しそうだった。

 

濡れそぼるボトムスは明日には履けないだろうということで、ユニクロで買い足す。体型変わらないってこういうとき便利よな。なんとなく薄くてすぐ乾きそうなものを買う。色合いとして、赤みが強いのがええかなと思ったのだが、どの種類にもそういうのはなかった。夏には合わない色なのか? 黒だって夏には合わないのではと思いつつ黒っぽいのにした。

 

この土日は雨らしいが、とてもウェルカム。映画館と、巨木は雨でも問題ない。ただ、動物とのふれあいはどうだろうと思ってちょっと見たらその時間帯だけ曇りになっていた。まぁ動物園自体他から持ってきた目的だから、なんならスルーして水族館とか美術館とかでも問題ない。なにやら「館」だらけ。

 

この流れで、僕は割と人間が怖いのかもしれないと思った。自然も当然怖いものなのだが自然は平等に怖いのに対して人間は不平等に怖い。僕はのほほんとした人物だから、特定の悪意を向けられる経験はあまりなく、むしろ善意寄りの厚意をたくさん受けてきた側なのだが、だからこそ怖い。僕はいつ敵側になるのだろうって。それならもともと人の世界の外に居た方が良くないか。人はいつ誰かにとって人ではなくなるか分からない。

 

何かのルールが共有されている場であればそんな心配はないのだろうが、とか考えていくとブッダさんが言っている理法ってそういうことなのかもなと思った。ちなみに世界が美しいという言は全面的に同意。

 

さて。

 

なにやら星占いの話を読んだ。僕の星座の今週は、愛や情熱をどばどば注げる何かがどかっと中心にあるらしい。確かに愛の話書いていた。そうして週末になんだかもっとでかい感動があるとかなんとか。巨木かしら。あと、当人が注いでいるそれに対して、そんなこと意味あるの? と水を差す人が居るかもしれないというのもあったが、僕は前もって履けてしまっている。まぁ実際居たとしても、理詰めで勝てそう(やらないけど)。

 

もっと面白いのは、この星占いを書いている人、とっくに知っていて本も持っている。3年前くらいにプレゼントされたもの。作者の名前と文体でピンときた。シンクロニシティ。この先は想像になるので省略。(誕生日教えていたっけ)。

 

これって書いたことあったかな。

義務教育にリベラルアーツを採り入れるのは無理よなって。高校まで行けば倫理ってあったと思うが、過去の思想を生々しく教えるって公務員としての教諭には給料外だろうって。そこまでの知識も情熱もないはず。あるのであれば研究者になっているのではという感じ。倫理ってその時代の政治とかを含めだし、子供にも大人にもまだ早そう。政治は細かい語句ではなく、体制の話。今の普通の大人で、選挙で国会議員を選ぶ権能が国民になぜあるかって答えられる人でどれくらい居るだろう。平等選挙になったからというのもありうる回答だけど、もっとそもそもの話。

 

こういうのをそれとなくスルーしているのが一般常識的な大人というイメージ。義務教育時代は学校の先生ってなんでも知っている万能人みたいだったが、これって今想うと、その範囲を何回も教えたことがあるからでしかないのだよな。学習指導要領。

 

これと同じ意味で、義務教育に法学を採り入れるのも割と無理がある。傘バンクとは違う意味で。法とは何ぞやという定義でも論争がある分野で、最大公約数だけやりましょうというのも分かるが、憲法で教えられた言葉だけの三権分立なんてなんの意味もない。読んでいる人覚えているのかな。

 

 

立法、行政、司法。ただ、これを言葉として知っていることで実践的に利用できることは全くない。憲法学になると、かつては、ルールを作ること(立法)、ルールを執行すること(行政)、ルールが正しいか判断すること(司法)の全部を王様が独占していたから、国家は思いのままだった。でもこれでは国民をないがしろにするよねって、権限を分けるようにして、この権限を担う国家の機関それぞれ別の機関を監視して均衡を保ちましょうとなったということが分かる。

 

おとなでも普通に民事裁判と刑事裁判を混同するというのも、オトナの常識に裁判実務が含まれていないということなのだろうが、この辺りも確かに闇を感じなくはない。暴れん坊将軍とか水戸黄門みたいに、法はお上にあるという観念と、だったら一般人が分かるようにするのではなく、専門家が分かればええわという感じ。

 

不貞行為の裁判で、損害賠償が認められたことが「罪」と等価とする感覚がそうなのだが、あんまりそういうのは教えられないというか、罪と等価みたいに教えられる。これは教える人も知らないということ。

 

あと、何気ない行為が犯罪になりうるという警鐘で、いじめとか万引きとかDVがなくなるのかというとどうなのだろうな。犯罪になりうるとしても、犯罪にするためには証拠が必要だから、証拠がないと有罪にはできないが、証拠がないからといって罪ではない訳ではないし。

 

そもそも、人って自分の主観が客観にも耐えられるように認識しながら生きていない。自分が今日、何時何分に誰かのこの発言を聞いたみたいなことを再現できないし。

 

証拠で判断せざるを得ないという判断方法は、人は真理を把握できる神様ではないというう諦めからくる次善策だから良いとは思う。感情に訴えかければ相手を犯罪者にできるという世界はまぁまぁやばい世界なのは分かるはず。

 

法の世界の人は、基本的に自覚的に動いている人、あるいは結果を予見しながら動いている人。これをすんなり読める人はそうとう自分でもこういう人と自覚しているのだろうと想像するが、ほんまかという気もする。

 

素朴な目で見たらぽろぽろ出てくるな。

細かい話は書いてない。

 

僕がどばどば愛を注いでいるのは、まるっと世界に対してなのかも。

 

では、おやすみなさい。

 

良い夢を。