知ること

 

 

可愛いなぁという感覚で溢れたまま寝ると、可愛い人とそういうことをする夢を見た。顔とか体とかではなく存在だから見たこともない人だったのだが、なかなかトラブルが起こる。クローゼットを開けると女性もののベージュのコートが出てくるとか。僕はベージュのコート着たことないが、この部屋には確かにあったことがある。あと、鍵も閉めてチェーンもかけて万全だと思ったら、しれっと誰かが入って来るとか。

 

そんなこんな、致す前に何種類あるのだという何ミリかの隔たりを並べた辺りのシーンで終わる。とても楽しい夢だった。そうだ、致す前の盛り上がりの段階が楽しいのであってその先は別にどっちでも良いのだった。そうして、可愛さも僕にとってはぶすっとしたり照れたりということであり、愛嬌とかではない。

 

そうして楽しい気分で二度寝をすると、今度はスクランブル的な感じ。人がたくさん出てきて喧しい。直近の元恋人さんに泣きながら「七輪を返せ~」と詰めらるシーンが印象的。でナレーション的な僕が、「しかし、七輪なぞ借り受けたことはないのである」と語っていた。ここでいう七輪はなんのメタファーだろう。

 

さておき。

 

相変わらず雨は照屋さんで、夜のうちだけに降っていて曇り空だったが、曇りでも紫外線は降っている、というかつての誰かの教えが掘り返され、どうせだから日焼け止めを塗ってみた。日焼け止めの独特の匂い、好きでも嫌いでもないが出自不明の何かが思い出される。誰が塗っていたやつだろう。

 

仕事はかなり濃厚な案件ばかりだった。20分以上全然知らない人と話した案件が10件はあったのでは。神経使いながら長く通話すると、人格に当てられて頭がぼーっとなる。その上頭も使うから、訓練としてはこの上ない。

 

昼休憩時にやっとちゃんとした雨。職場の休憩室(10階)の窓から眺めながら食べる。その後煙草を吸いに公園に向かい、水面に容赦なくふる雨の波紋をこれこそ雨の本領と思いながら眺めていた。明日履くつもりのボトムスをベランダで陰干ししているのも思い出し、この理不尽さが自然よなと想う。視界の中に濡れそぼる雀が飛んできてなんとなく楽しそうだった。

 

濡れそぼるボトムスは明日には履けないだろうということで、ユニクロで買い足す。体型変わらないってこういうとき便利よな。なんとなく薄くてすぐ乾きそうなものを買う。色合いとして、赤みが強いのがええかなと思ったのだが、どの種類にもそういうのはなかった。夏には合わない色なのか? 黒だって夏には合わないのではと思いつつ黒っぽいのにした。

 

この土日は雨らしいが、とてもウェルカム。映画館と、巨木は雨でも問題ない。ただ、動物とのふれあいはどうだろうと思ってちょっと見たらその時間帯だけ曇りになっていた。まぁ動物園自体他から持ってきた目的だから、なんならスルーして水族館とか美術館とかでも問題ない。なにやら「館」だらけ。

 

この流れで、僕は割と人間が怖いのかもしれないと思った。自然も当然怖いものなのだが自然は平等に怖いのに対して人間は不平等に怖い。僕はのほほんとした人物だから、特定の悪意を向けられる経験はあまりなく、むしろ善意寄りの厚意をたくさん受けてきた側なのだが、だからこそ怖い。僕はいつ敵側になるのだろうって。それならもともと人の世界の外に居た方が良くないか。人はいつ誰かにとって人ではなくなるか分からない。

 

何かのルールが共有されている場であればそんな心配はないのだろうが、とか考えていくとブッダさんが言っている理法ってそういうことなのかもなと思った。ちなみに世界が美しいという言は全面的に同意。

 

さて。

 

なにやら星占いの話を読んだ。僕の星座の今週は、愛や情熱をどばどば注げる何かがどかっと中心にあるらしい。確かに愛の話書いていた。そうして週末になんだかもっとでかい感動があるとかなんとか。巨木かしら。あと、当人が注いでいるそれに対して、そんなこと意味あるの? と水を差す人が居るかもしれないというのもあったが、僕は前もって履けてしまっている。まぁ実際居たとしても、理詰めで勝てそう(やらないけど)。

 

もっと面白いのは、この星占いを書いている人、とっくに知っていて本も持っている。3年前くらいにプレゼントされたもの。作者の名前と文体でピンときた。シンクロニシティ。この先は想像になるので省略。(誕生日教えていたっけ)。

 

これって書いたことあったかな。

義務教育にリベラルアーツを採り入れるのは無理よなって。高校まで行けば倫理ってあったと思うが、過去の思想を生々しく教えるって公務員としての教諭には給料外だろうって。そこまでの知識も情熱もないはず。あるのであれば研究者になっているのではという感じ。倫理ってその時代の政治とかを含めだし、子供にも大人にもまだ早そう。政治は細かい語句ではなく、体制の話。今の普通の大人で、選挙で国会議員を選ぶ権能が国民になぜあるかって答えられる人でどれくらい居るだろう。平等選挙になったからというのもありうる回答だけど、もっとそもそもの話。

 

こういうのをそれとなくスルーしているのが一般常識的な大人というイメージ。義務教育時代は学校の先生ってなんでも知っている万能人みたいだったが、これって今想うと、その範囲を何回も教えたことがあるからでしかないのだよな。学習指導要領。

 

これと同じ意味で、義務教育に法学を採り入れるのも割と無理がある。傘バンクとは違う意味で。法とは何ぞやという定義でも論争がある分野で、最大公約数だけやりましょうというのも分かるが、憲法で教えられた言葉だけの三権分立なんてなんの意味もない。読んでいる人覚えているのかな。

 

 

立法、行政、司法。ただ、これを言葉として知っていることで実践的に利用できることは全くない。憲法学になると、かつては、ルールを作ること(立法)、ルールを執行すること(行政)、ルールが正しいか判断すること(司法)の全部を王様が独占していたから、国家は思いのままだった。でもこれでは国民をないがしろにするよねって、権限を分けるようにして、この権限を担う国家の機関それぞれ別の機関を監視して均衡を保ちましょうとなったということが分かる。

 

おとなでも普通に民事裁判と刑事裁判を混同するというのも、オトナの常識に裁判実務が含まれていないということなのだろうが、この辺りも確かに闇を感じなくはない。暴れん坊将軍とか水戸黄門みたいに、法はお上にあるという観念と、だったら一般人が分かるようにするのではなく、専門家が分かればええわという感じ。

 

不貞行為の裁判で、損害賠償が認められたことが「罪」と等価とする感覚がそうなのだが、あんまりそういうのは教えられないというか、罪と等価みたいに教えられる。これは教える人も知らないということ。

 

あと、何気ない行為が犯罪になりうるという警鐘で、いじめとか万引きとかDVがなくなるのかというとどうなのだろうな。犯罪になりうるとしても、犯罪にするためには証拠が必要だから、証拠がないと有罪にはできないが、証拠がないからといって罪ではない訳ではないし。

 

そもそも、人って自分の主観が客観にも耐えられるように認識しながら生きていない。自分が今日、何時何分に誰かのこの発言を聞いたみたいなことを再現できないし。

 

証拠で判断せざるを得ないという判断方法は、人は真理を把握できる神様ではないというう諦めからくる次善策だから良いとは思う。感情に訴えかければ相手を犯罪者にできるという世界はまぁまぁやばい世界なのは分かるはず。

 

法の世界の人は、基本的に自覚的に動いている人、あるいは結果を予見しながら動いている人。これをすんなり読める人はそうとう自分でもこういう人と自覚しているのだろうと想像するが、ほんまかという気もする。

 

素朴な目で見たらぽろぽろ出てくるな。

細かい話は書いてない。

 

僕がどばどば愛を注いでいるのは、まるっと世界に対してなのかも。

 

では、おやすみなさい。

 

良い夢を。