運命

 

 

 

どちらの言い分も説得力があるとき、選ぶのは価値判断なのか感性なのか。

難しい。情報が足りない。

 

本日は久々にアラームが鳴るまで寝ることにした。色々夢を見たのだが、最後が仕事のシーンだったというなんともよろしくない目覚め。いや、別に特に囚われている訳でもないのだが、若干ある意味お祭り状態に当てられている節はある。

 

1日の終わりのここで何を書くかみたいな想起が全くなかったのは、余裕がないというより勝手に汲み上がるだろうなという安定感。ネタがなくなることがないのは、終わるまで終わらない世界で生きているから。

 

そういえば昨日の日記を読み返して、何も語っていないと想った。何か(もの)は書いているのだが、何物も書いていない。料理パートは現実のレシピっぽいが、分量を厳密に書いていない(というか書けない)から、再現できないという意味で、物ではない。

 

現物的にもここの僕で生きてええんやでとは思っているが、だからと言って特にルールとか合理性があるような感じではない。利得と損失の天秤も時系列や感情によって変遷する絶対的指標では在りえないし、安定も不安定も特に意味がない。

 

天才脳の本はまだ本編まで進んでいないのだが、美学の天才の概念を持ってくると、脳の活性の極致には、「占有しない」という感じがありそう。個人の尊重とは彼岸の観念。だから天才性と人格が直結している人物は人格が社会的に破綻しているが、世界の発展に寄与するという。

 

この本はあくまで「天才脳」を養う本であって、脳の回復力を発展させる方法論らしい。困難に遭っても楽観でいられる、もしくはすぐ戻せるとか。ここで言う天才脳は僕が秘して人生劇場の方針としている「賢くなる」ことと近い。脳の活性化によっておそらく記憶力の増強されるのだろうがこれは福産物でしかなくて、本質は自他(世界)に対して寛容になること。

 

寛容は損なわれても赦すことみたいなニュアンスだが、そうではなくて、階層が違う存在のことを慮るというか、意識できること。中庸よりも難しいかもしれない。だったら私に損なわれてくれても良いでしょうという次元には付き合わないようにすること。

 

あと情報に対する寛容も難しい。自分が正しいと行動理念としてきたことが覆ったときアイデンティティを保てるか。拒絶してしまう脳は不活性。もちろん別にそれで良い。

 

あと、現代詩を読んでいて思うのが、当人において活性化した脳は透明になっているのではないかというところ。ちょっと後にして。

 

朝の20分程のまったり時間でPDF記事を読む。本日は憲法上の勤労の義務について。現実的な意味で勤労が義務なのは雇用契約を締結することによって、勤労の対価としての賃金を得るという双方向のセットだが、もっと上の次元の憲法が勤労を義務としているのかという話。憲法学、行政学社会保障学の学者の説がそれぞれ紹介される。

 

憲法が謳っているのは、精神論であって法的拘束力はないあくまで道徳的な理念であるという説がしっくりくるのだが、国民には一般的に勤労の義務があり、生活保護法の給付要件にも関わっているというのも分かる。後者だと憲法が設定している勤労の義務を解除するベーシックインカム憲法違反になりうるとか。

 

僕は学者ではないから好きなことを宣うが、憲法が縛るのはあくまで国家であって国民ではないから、あくまで国家の構造が存続するためのものだと思う。納税の義務と同じ。個々の国民の視座からすれば一方的に課されているものになるが、厳密に言えば社会契約の擬制が媒介されていて、人権の尊重とセット、でもない。

 

社会科のお勉強で、憲法の三本柱を学ぶ。「基本的人権の尊重」、「平和主義」、「三権分立」。でもこれって、かなりぼやかされている。わざとかよっていうくらい。憲法の本質は国家に毀損されないように個人の尊厳を確保することにある。基本的人権の尊重って言われてもそんなの読めない。平和主義も三権分立も国家機関の恣意によって個人が損なわれることがないようにするという国家の義務を規定している訳で。

 

お役所仕事に融通が利かないのは、融通したことによって弊害が起こった歴史からの教訓なのだと思われる。気分とか従順な人だからでやっていては公平が保てない。会社と同じ。

 

 

さて。

 

本日の現代詩。

「時代によって感受性は運命付けられる」というフレーズにガツン。

 

これが書かれたのは戦後の辺りらしい。目まぐるしさで言えばこの時代も負けてない。僕は山奥の昭和の価値観に生まれて、今や5G時代。感受性という運命も選択できるようになっている。物的なのかもの的なのか。地元の大学に行ってそのまま就職して子を成して継承することも在りうる世界線だったのだよなぁと想ったのが2年前くらいに行った岡山の公園を歩いているとき。

 

1世代生まれるのが早かったら、僕も父親みたいな一生を過ごしていたのだろうなって。

たぶんPTA会長とかもやっていた。

 

こんなの大げさ過ぎるという評価はありうる。

僕がそう感じているだけではあるのだが、天才でない人にとっては感受性の展開は事象がないといけない。感受性は生来のものではない。鍛えられるし変更される。かつての幼少期に虫に対して何も嫌悪がなかったのにいまでは触れないとか。

 

ここで「共通感覚論」がやってくる。

 

共通感覚が時代によるのだろうなというのがアリストテレスさんの言で分かる。アリストテレスさんも詩人だ。共通感覚で時間を捉えると、未來が「期待」で、いまが「感覚」、過去は「記憶」になる。この観念が自明なものとしてインストールされている人はいまでも多数派を占めているはず。

 

ただ、これって科学的に証明されている区分けではない。

にもかかわらず、自分としてこれを区分けできる人格って不思議。脳の活性はこの不思議さに気付けることでもありそう。

 

賢者に聞いたとしても回答が返ってくることはきっとない。

 

ともあれ、これでも僕は日々をゆるゆると生きております。

人の言葉は参考とか影響とか存在になりえても、確証にはならない。これを言ったら悲しい顔をされたのだが、それが嘘だと思っている訳でもなく。

 

なんだか頭の中が賑やかになってきて、一義的な言葉が綴れなくなってきた。

 

僕の言葉は存在がきちんと乗っているのかは自明ではない。

存在として書いてないからなのだが、翻すと、これこそが存在ともなりえるし、現物とも実は相違ないような気がしないでもなく。

 

そういえば悪態を吐く人格はおとなしくなっている。

 

どれかだけ書くというのも良いのか。

呟き場は喧噪ちっくで苦手。でも食わず嫌いはいくない。いや、一時期やってファボに辟易したのだっけ。いやいや、短歌とか詩とか自動的に書き取る場、効用が分からん。

 

やっぱりカオスになってきたからここまで。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い感受性を。

 

仕様

 

 

なにやらいちいち悪態を吐く人格がおられる。何に反応しているのかと観測すると、集団に当てられた当てつけで、特に個別の誰かではなかった。車ほどは危険がないから歩行って規制があまりないのだよな。

 

ウインカーを出すのは交通違反で当人が捕まるのを避けるためではなく、周りに動きを知らせるというきちんと理屈がある。これと同じように、同期の緩さに内心で悪態を付いている。

 

ここでの悪態人格は、自分がどうのという文脈と、全体の合理性がどうのという文脈がある。悪態のために粗を注視している、という訳でもない。

 

 

内心の反映のように風が荒れ狂う1日。自然には悪態は出てこない。なんか台風めいていてうきうきした。こういうとき思っているのは、何か看板とかが飛ばされてきたらひとたまりもない、自然には勝てないな、ということ。自然には悪意がない。

 

人間には悪態が出てくるのは、自然的な動きを操作できるのだから、もうちょっとあるのではというところなのか。これは反射して自分への悪態でもあるとすると、自己改革のための人格とも言える。現実で相手に表現しない限り存在しているのは内側だけ。外に出ないように制御するくらいはできる。

 

そんなに理に適っていない人格ではないから、駄目だとか何にも思わないし、窘めることもしていない。やりたいように暴れればよかろう。

 

 

自己改革的な感情の挙動として、本日失敗を楽しんでいた。最終的にリカバリーができたというところもあるが、失敗したところで別に大したことはないなという感じ。なんだか自分で失敗を発見したと思って訂正したら、その情報が古くて最初が正しかったという感じで、自分が間違っていないか確認しないと起こらない失敗だったという、勝手に右往左往してしまったというところ。

 

マスクの下でにやにやしていた。

 

ヒューマンエラーは必ず起こるものであって、それが起こることを非難するよりも、再発しないような対策を講じることの方が大事。情報だってずっと保持はできない。

 

 

間違ったり足りなかったりすることは特に問題はないと思う。問題は自分のこういう脆弱性を認められなくなったとき。こうなると世界が閉じてしまう。認めた上で他人に足してもらうというのはありうる対応法。

 

結局、全部自分の話にしてしまうくらいにはまだ余白がある。

そうした方がすっきりする。自分の話だったら対処できるし。

 

 

そういえば、お昼休みに香君の下巻のついでに、久々に啓発本めいた本を買った。「12週間で天才脳を養う」。海外のお医者さんで医療ジャーナリストが書いている。これが「天才脳を養うための12の方法」というタイトルだったら買わない。方法論が知りたいのではなく最新の知見を参考にしたいだけだから。

 

まだ冒頭の30頁くらいだが、著者のスタンスがとても好み。一目惹かれただけある。好きなフレーズは、「恐怖でコントールしようとしてはいけない」。恐怖政治をひかれていた思春期時代を想う。怒りに対する恐怖で行動をコントールするのって、上の立場の人にとってはとても省エネなのだろうな。ある意味下の人も怒られないように動けば良いという思考停止で良いから楽ではありそう。

 

これは社会全体にも言えること。恐怖を煽って行動を制御する政策の当否を暗に言っているような。

 

あとは、人にはそれぞれ特性があるから、誰かにとって合う方法が、貴方にとって合うかは分からないときちんと書いているし、分かっていないことは正直に分かっていないとしている。天才脳になりたい正解を需要する読者にとっては不満だろうが、ほんとにそんな方法論があれば皆天才になっているのはふつーに考えれば分かるはず。

 

目次を眺める限り、書かれている脳を活性化する方法論は読む前にいくつか実践している。歩くこととか、読書は、なかったか。この職場に入ってから歩くことが増えて、活性化している気がする。あと、毎日書くことも含まれていると思うが、これは一般論で実践できることではない。きっと皆そんな暇はない。noteでフォローさせていただいている方の執筆頻度が高くなっている気がするが、気のせいかもしれない。

 

僕が脳の活性化を需要しているのは、社会的な成功とか誰かより賢くなるとかではなく、単に人生劇場の充実の為。変な表現だが、記憶を置いてけぼりにしたくないから。

 

自分の意識上の情景が記憶という名前を付けられるのは、それが「いま」の自分と断絶した意識されるから。これは社会時間としての過去の概念とは別物で、もっと個人的な領域。

 

思い出の概念はいまの体感との断絶か。

 

目次の中に、経年で脳(記憶力)が劣化するという俗説を覆すみたいな話があり、とても楽しみ。個人的な劇場として、10代が一番忘れ物していたし、20代はいっぱい落としていたが、今はほぼないしあってもすぐ再点検できるから、一般論は何を言っているのだと思っていた部分。

 

別に生来でも経年でもないやん。

 

個人的には、真面目に従えない天邪鬼人格が作用しているとみている。

壊してきたからいまを楽しめている。

 

共通感覚論でも記憶力の話が出てきた。当時の現代人に欠如している能力がこれだって。僕も記憶力はないと思う。物としては自分に残っていないし、物として再現できる機能はコンピューターがやってくれるし。

 

物としての記憶は財産との類似で、おそらくアイデンティティには寄与するはず。記録もそうか。記録能力でも人は人類が作った装置(写真とか動画とか)には勝てない。それをいっぱい持っていることで自己のアイデンティティにしている節。

 

僕はそういうのは駄目だ。物的な積み重ねをアイデンティティとはできない。

なんなら、思考する意識が自分ともできない。考える葦もちと違う。

 

別に自分が自分であることなぞどうでも良い。

他者に対して証明する必要がないという立場。かといって唯我独尊でもないという微妙な感じ。

 

物的には再現できなくても、感じとしてのものは残っているというのが人間の妙味。正しさではなく、そういう感じが人の方向性を決めている。僕が人の怒りに敏感なのは母親の恐怖政治の名残みたいなものだし、母親となるべく接したくない感じも仕方がない。これでも接するのは外付けの儒教的正しさ。

 

で、もっと実践的な情報としての記録ないし記憶を考えてみても、物的に捉えるのであれば未來に向けて加工するのが難しい。もの的に捉えるのであれば良い感じの世界線に勝手に動くみたい。

 

どういう人生が良いのかはライフスタイルによりけり。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

笑顔でいられますように。

 

 

 

解釈の幅

 

 

昨日の文章について、人に当てられて疲れているのではという指摘。

 

たしかに耐性付いてきたとはいえ、人がカオスの場所に頻繁に行くと不活性になる領域があるのは確か。繊細さん的傾向。単純に人が多いところが苦手というより、何やら当てられる場所というのもある。名古屋駅は相性悪いのかもしれない。名古屋駅を往復しないルートを開拓しよう。京都経由だともっと東に着く高速バスがあったような。

 

あと、個人的に、大阪駅のグランフロントの紀伊国屋書店の場がとても苦手。阪急駅の近くにある紀伊国屋の方が人は多いのに、気分が悪くなる。何を感じているのか分からないが、繊細方向が多角過ぎる。

 

だから定期的に人の手がかかっていない森成分を補給したくなるのか。

 

苦手な人は、違う世界観の話を聞こうともしない人格的傾向。循環がなくて滞ってしまう。

喜々と食べる変人は僕くらいのものだが、聞くこともせず突っぱねてしまうのは振る舞いとして雑だ。

 

当てられているからこういうことが言語化されるのか。本日のお風呂は入浴剤ではなく粗塩にして禊をしたから、そのうち抜けるとは思う。まぁ、良い感じだけ採り入れるというのは難しいよな。感度を高めれば良し悪し問わずに感受される。この性質を麻痺させるつもりはない。

 

さておき。

 

日記的日記。

 

よく寝た。体がお疲れ具合。もっと寝たいとかはなかったが、体の動きがやや鈍い。筋肉痛はやっと収まった。

 

てかてかした空の下、出発。ここで発見。かつてピンクの絨毯だった田んぼの田植えが遅れていた理由。幼稚園生(小学低学年かも)が多いなと思ったら、田んぼに群がっている。僕もそれくらいの頃やったわ。田植えの体験学習。幼稚園児と田植えの取り合わせは成長の予感があって綺麗。スケジュールの調整で遅れていたと想像。

 

子供動きが不規則なのは、無意識のオート状態が学習されていなくて、全霊で意識的に動いているから。こういうわらわら群には当てられない模様。なにやらすっきりする。

 

これから米の成長を観察する田んぼになった。

 

唐突に「香君」の話。農業がメインの文化圏のファンタジーなのだが、ある品種の米のノウハウを国家が独占して配給することで国民の食生活が安定した。この品種は外の作物にとって毒性が強くて、枯らせてしまうから、国民は配給される籾殻に依存するしかないのだが、時代が移り変わって、育てる方法論がオリジナルから効率化に向いたことによって、天敵の虫が繁殖してきてさぁ大変というのが上巻。さっき読み終わった。

 

これって、資本主義における貨幣のメタファーなのではという読み味がした。

資本主義については採り入れ中。お金があればだいたいの欲望が叶うみたいな一般的な観念では何か物足りない。もともとは個人が富むための方法論として生まれたものではなくて、社会全体の富の絶対量が増えることによって、結果的に個人も富むという方法論として考案されたという想像している。だって、最初から独善的な方法論は全体が受け入れないはず。じんわり悪どくやったという説もありうるが、もっと社会全体の思想な気が。

 

「性愛と資本主義」の本で、「サッカーと資本主義」という補論があって面白い。資本主義の思想は終わりを引き延ばすところにあって、サッカーにおけるオフサイドルールもその為だという話。法人(企業)も人間とは独立した生命体みたいなフィクション的な存在だが、構成員が変わったとしても存続する、死を(ある程度)克服した存在だし。会社が倒産しても構成員は死なない。そうとも限らないが。

 

こういう世界に生きている以上、現実が物体的な体が感知する現象に留まっているということは在りえない。世界は恣意的な視覚で構成されている。

 

帰り道、あと2分くらい歩けば着くところで、首筋に痛みを感じる。外界からの侵襲の気配(虫)。首にはかつてスズメバチにさされた痛みの記憶があるため、なかなか敏感。叩き落としてみるのだが、暗くてほんとにそうできたのかが分からない。部屋に着いてスーツを脱いだら痛みの元凶が居た。カナブン。高いところに行きたがる習性でハンガーの取っ手部分まで上がってくる。

 

夜に帰した。

 

 

やれやれ。ここから大変。

 

自己にとって自明であることが、ほんとに自分のものなのかということが気になってくる昨今。個人的に感情としての言語で表現される感じは関係的なものだから、あまりあてにしていない。関係において利がないところで出てくる感情的感じには信ぴょう性がある。

 

利得と損失の観念は行動経済学でげんなりしながら読んでいるが、学問が形成されているということは、統計的に人はそういう世界観をインストールされていることになる。

 

とかいいつつ、統計学は主観的な統計的優位の偏りを排除してなるべく客観であるための学問だったりしてややこしい。

 

要は、利得とか一般論での判断は自分のものではない。

もちろん、自分のものではなくても生々しいのであればそれ良かろう。

 

まぁ、合理性とか論理は外向きの説明だから習得するに越したことはない。

僕の人生劇場は一貫して説明できるようなところを軸としていないから、解釈してくれという感じ。

 

憲法学の本で、「強い個人」という概念が出てきた。自由の為には個人で主張しないといけないという。たしかにもたらされるものとしたら誰か先人とかリーダーの肩に乗ればできるが、自分の自由を求めるためには個人の力が必要。

 

文脈を迷子にして。

 

大岡さんの現代詩の解釈本面白過ぎる。

今日読んだのは、「夜と魚」だったかな。世界の外にぴちぴちしていた。

 

詩的表現について考えていたお弁当時間。

僕は自分を言語で表現できると思っていないものだから、言語で表現されるものがほんとうとは思っていない。

 

ただ、自分がどういう世界で生きているのかという書き取りはここでやっているから、これを詩という媒体に代えても良かろうなと。表現するという芸術化だと敷居が高いけど、単なる書き取りであるというシュールレアリスム的な感覚ならありうる。

 

表現と存在を全然連動していない。

 

 

はいここまで。

 

また明日。

 

おやすみなさい。

 

元気でありますように。

楽と楽しいの違い

 

 

酔っぱらいが家に帰れるのは、そういう運動野が酔いの作用する脳の領域ではないからとのこと。

 

脳の神秘。たしかに、「歩いている」、「歩いた」という状態と結果は言葉として意識できるけども、まさにいま歩くことをずっと意識し続けることは呼吸と同じでとても難しく、ほとんど無意識に丸投げしている。意識していない歩きの人って、ぶわーっと拡がる。大きい駅で目的地に向かって歩いている人達は歩くことを全く意識していない。名古屋駅はほんとにカオスだが、帰り着いた最寄り駅の階段で、三人組が並行に並んで対向者にしか空けないのに若干疲れる。利益が問題にならないところに人の本質が出る。

 

僕の言葉を綴る領域もそうなのかも。脳の中を散歩する領域は、酔いが作用することによってより感度を増す。酔うとよく話すと評されたどうでも良い人達と飲んでいた時代を分析してみる。素面でも酔いでも特に話したいことは無かったのだが、外界に対する注意(人の話を聞いて語彙を合わせるとか、共感してみるとか)に酔いが作用して、自分に向くから話せるようになってのでは。伝達でも指示でもない言葉ばかりが在るため、そういう語彙が乏しい。

 

酔いは悪酔いにならなければ影響しないが宵は影響する。眠くなると頭の中をお散歩できない。人は言葉を遣ってなくても結構饒舌だと思う。

 

楽しんだ最終日。朝ごはんのバイキングタイムを睡眠に充てる。お腹いっぱいで調整。昨日の鶏料理美味しかった。むねと肝のお刺身と、焼き鳥アラカルト。ささみのわさび焼きがしっとりしていた。つくねの温玉ソースは濃厚。冷酒の可(べし)と佐久の花も美味しい。

 

昨日の文字数がやたらと少ないのは、頭の中がふわふわぼーっとしていて散歩ではなく寝転んでいたから。

 

そのあと、コンビニで梅干しおにぎりとポカリで調整ご飯。また海岸沿いの観光地に行く。しばらく行列を眺めつつぼーっとして、海鮮丼をいただく。酢飯になっているのは持ち帰り用に冷やす為とか。合理的だ。

 

大阪名古屋間で最も快適な公共交通機関は、おそらく近鉄特急。高速バスは安いが融通が利かないから予定が決まっている往路では良くても帰りだと縛られる。時間の融通で言えば新幹線が本数多くて便利だが、自由席でも高いし座れない可能性がある。近鉄は全席指定席だから、座れないということはないし、新幹線と高速バスの中間くらいの移動時間になる。

 

どうでも良いが、東京はともかく、大阪駅より名古屋駅の方が人の動きがカオスで苦手かもしれない。京都駅はなんとなく人が少ないイメージ。

 

 

そうして帰ってきて。体はきっと疲れているのだが心が全然疲れてなくて、スムーズに生活に移行された。買ってきた朝採りナスを塩もみしつつ、洗濯機を回して、そのままご飯も作った。メインは豚肉とズッキーニと新玉ねぎともやしの味噌ポン炒め。楽するのは肉体が滅んでからいくらでもできるだろうし(そのときは楽という概念すらなさそうだが)、楽しく生きる可。

 

いつものお風呂読書に、持ち帰った2冊が加わる。

憲法の本と、大岡信の現代詩の解説本。個人的にはやってきたからにはこいつらは近いところにあるとしている。何故って、どちらも「言葉」に焦点があるから。

 

現代詩の解説本から。詩の読み方が学習される。今日読んだのは「母国語」に関する詩。外国に留学? している時は詩を書こうと思えなかったって。なんとなく分かる。外国語って完全に言葉だから、ニュアンスはそぎ落とされる。母国語の言葉の世界では澱(檻)が認識されて、それが詩になるのかな、とか。ただ、この意味で言葉を突き詰めていくのは劇薬めいている。安定した言語という概念で構築された世界から当人として自律している試行は不安定。インストールされた世界観で満足できない人格は、不適合者だったり、精神疾患というレッテルを貼られたりする。まぁ、自分を楽しんでいる人という気はする。自分だけの苦しみを見つけられるのも人生劇場の醍醐味。

 

あと、文字数の区切りとかは僕にはないところだから面白い。ただ、計算してそれを書いているというより、計算に見える自然の運動な感じ。なんだか漫画家を目指す漫画で言うところの計算型と天才型みたい。でも、そういう世界に生きていれば、最終的に自分の表現が解釈の幅を許容するようなものになって一致するような感じもある。綴られる言葉が全部意識的であるというのは素人見解であって、歩くこととか息をすることの方が近そうな。

 

膨大な表現されない言葉が運動しているから深くなる。

字面では読めない濃厚な料理のような。作品に対して当人がそうであるという感想を抱くのも無粋ではあるが、そういう世界が存在しているから表現になっているのは確かで。認識できないものは書けないだろうし。

 

 

憲法の話は、媒体の現象学とも繋がっている。ヘーゲルさんは「法の精神」で「占有」とか「所有」の概念を浮き彫りにしたらしい(読まねば)。個人が国家から独立した存在として意識されるためには、まずもって物が共有ではなく、自己が物を持っているから個人なのだという観念が必要だった。フィクションだけど。だって、物の区分けは国境線と同じで、人間がそういうものだとしているだけ。

 

物を持てるのが個人だという観念は当然に日本の民法にもある。例えば胎児は権利主体になれない(例外あり)し、行為能力がない人は保護者ありきの制限的な所有権しか持ちえない。

 

憲法で、自由権が物権の類推で把握されるべきという話を随分前に読んで引っかかっていたところがやっと繋がってほくほく。自由は物と類似していて、保持できるし行使が任意であるというフィクション的世界観。

 

現実とフィクションに優劣がない立場だからそういう感覚も良いとは思う。なにせ僕は夢も大事にしているし。昨日の夢は「あじさいの里」で語句検索した人がいっぱいここに来場して言葉遣い誤ったかなというやつ。自由とは他者が問題にならない領分である、なるほど。

 

結局のところ、現実に対する練度がある人と関係するのが楽しいのだろうな。

自分の人生劇場における職人ではなくて、他者の劇場も見える人。疲れない。

 

 

あぁ、そうだ。

 

僕があんまり自由に言葉を発さないのは、変な固定観念だが、人に影響を与えて世界線を動かしてしまうから。いや、違うのか、僕の世界線が動くのか。どちらにせよ同じこと。

 

最終的に辻褄が合うという世界観だから、こんな世界に付き合ってくれる人はなかなか居ない。(天気予報も覆すし)

 

今日はここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い睡眠を。

 

 

 

 

 

 

 

 

見方

 

 

頭が良くなくて良かった。

知識が財産にならない。

 

イカスミは消化されない。

胃腸が識る。

 

隈がなかなか酷い。

睡眠の不足の印は、世界を楽しんでいる証明でもある。

 

寝る時間が惜しまれている。

 

 

本日はゴミのような男だなと言われた。

 

さておき。

 

 

朝ごはんは豆乳リゾット。美味しいが米の芯をもぐもぐするために咀嚼回数が増えて食べるのが遅くなる。世界線の境界。

 

そのあと、あじさいの本番で、「あじさいの里」というところに行った。6~7分咲きらしいが、不自然な自然の様相。自然に分布している色合いではない。(心に残しているので画像はない)。

 

やたらと人が多いのはなんぞやと思ったら、どういう巡り合わせか知らないが、たまたま前日に放映されていたらしい。なるほど、ほとんどの人が自分で見るよりも誰かに伝える為にパシャパシャしている。仕事ならともかくもっと「いま」の自分だけの世界を楽しめば良いのに、というのは余計なお世話。

 

何か客観的な証拠がないと楽しんだという記録が残らないほど世界を外付けに依存しているのだろうか。ディスっているのではなく単なる感想。誰かに伝えるための名前がなくても普通に景色は楽しめるものでしょう。個人的には、品種改良されて綺麗な花弁の紫陽花より、てきとーに植わっているその辺の存在の方が馴染める。色とりどりで面白かったが、人の多さにちょっと疲れた。ミーハーでやってきている人って、他者は世界の外だから、人間的に不自然。

 

 

次は、栄町に行って、讃岐うどんとじゃこ天をいただく。小麦粉が原料の食材は消化が遅くなる。満腹状態になるとたばこも要らなくなる。仙人なので、煙も食べ物。笑

 

運試しにおみくじを引いたら重ねて凶。面白い。そのまま現実的な運試し場で、シンゴジラがあらぶりつつ、七つの大罪でもやや。あぶく銭が補充される。1人では行かないようにしよう。

 

お金も時間も消費物でもないし、そのいまを楽しめば良い。

 

僕はむかーし、制限がかかっている時、お金を使うことに罪悪感があった。いや、日常生活における嗜好品には使うのだが、移動には使えない。誰に制限されている訳でもないのに、何か枠がかかっているというセルフクリスチャンみたいな感じ。

 

お金は使う交換券だから、破綻しないところで遊べば良い。

 

 

言葉に付着されている意味を気にし過ぎていた。

 

言葉は記号でしかなくて。どう意味づけるかは選択できるもの。

 

 

そういえば、さっき、ちゃんとした居酒屋に行って鳥のお刺身を食べてきた。

枠もなくて、このご時世の前みたい。がやがやしている場が苦手なのは、存在として他者が認知されて内部でもがやがやしてしまうから。

 

地酒の冷酒美味しかったなぁ。

 

 

思索パート。

 

言葉ってなんじゃろうな。

 

不用意な言葉で容易く傷つけられるし、言葉(概念)だけでマウントを取れる。

僕の頭の悪さは、言葉と存在を連動できないところ。

動できる方が悪いという節もあるのか。

 

なんも分かっていない。

 

むしろ、マウント取らないように世界を識るのが難しい世の中。

 

今日は駄目ぽい。

 

ぼーっとしていて文字が書けない。

まぁ、これが存在しては本分なのです。

 

はい。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。

 

 

 

 

人生劇場の謳歌。学問も横断する。

 

 

憲法学の本に、ソシュール記号論が出てくる。シニフィアンシニフィエ。たしか憲法9条の解釈で、記号から意味に一気に飛ぶのは粗暴で、その中間の段階があるだろうという話だった。

 

エリクチュールだっけ(たぶん違う横文字)。言葉そのもので突き詰めていくというのは好み。突き詰めた人の言葉は返って透明。西脇順三郎さんの詩をいくつか読んだのだが、ほんと、透明。何かの詩集のあとがきで、詩とは「もの」であるみたいなことを書いていて、ここでも横断。人は「もの」であって「物」ではない。この話は面白いのでもう少し寝かしつつ。

 

 

ビジネスホテルで目が覚まし、朝食バイキング。柴漬けと沢庵はあるのだが、梅干しがない。その現象を伝えると、不満を言っていると評される。これは別に無いからどうとかいう話ではなく、単なる感想でしかない。

 

この話、ちょっと分からないでもない。否定的な言説(無いとか)って、発言者が否定的評価をしていると捉えられるのがありうる解釈だが、僕が見えている世界は別にそれによって主観的に何かが変わるようなものではないし、他者に変化を求めるものでもない。

 

だから、否定的言説が否定的評価とイコール(シニフィアンシニフィエの一致)の人にとっては、なかなか刺激があるのかもしれない。視覚的表現って本来そういうもので、評価が先行している訳でもないような。

 

気付かれたことによって気付いた僕の発話的ずれ。

なるべく発話しないというのはこういう文脈にも拠っている。一面しか見えないところでそれを描写したところで人は決まらないのに。人の発言はこういう意味で気にしないことにした。これもまた後で。

 

 

そうして、豊田市美術館幾何学的な建物で世界を反射するし池も反射する。なかなか恣意的な美。「機能と構造のポリフォニー」というモダニズムの展示を見てきた。面白い。表現できないと自分の中だけのものだから、書く。

 

第一次世界大戦によって世界観というか、世界そのものが移り変わっている。部屋の内装とか、装飾品とかファッションも。システマティックの機能を追求して進化できているのであれば、今頃は選択肢が機能一択でデザインの選択はない。抽象的幾何的なデザインで現実を描写できる人の世界観の天才性。あと、家具のシステマティックな変遷も面白い。ただ、最先端の機能性だけでは追いつけないのだろうな。最先端にはあくまで馴染みとの連続がある。

 

お昼ご飯はカレー屋さんに行った。先人が頼んでいて美味しそうだったから頼んだドライキーマカレーは美味しいのだが、かなり辛い。お風呂読書のときのように毛穴が開いて汗だらだら。なにやらすっきりする。

 

そうして、紫陽花は明日に繰り越し。雨具合の予報がカンカン照りで、散策するには気温が高すぎた。ついでに運試し。1000円使って次元がと銭形警部が頑張ってくれたが、確変はなかった。「燃えよ斬鉄剣」のシーンが出てきて懐かしくて良き。

 

甚平とサンダルを購入して、文字通りのモデルハウスに泊っている。展示場を宿泊施設として流用するって面白いコンセプト。ウッドデッキがある宿泊場。化石みたいな家電製品で過ごしている僕としては、近未来みたいな感じ。勝手にお風呂が溜ってくれる。本日は料理長ではなかったが、こんだけ広いシンクでIHコンロ3つあればどれだけ生活的炊事が時短になるか分からない。

 

家というのも構造と機能の交錯。生活に何があるべきかというのも時代によりけりだし。

 

解放感で本日の画像は甚平姿。まぁ顔は扇子ですが。

 

ちょっと自己考察。僕が自分の存在というものをあまり確立できて来なかった原因に、他人からの評価が玉虫色だったからというところがありそう。本日のタイトルは本日評されたこと。縄文人顔だし、これは良い。顔は、何で撮るかとか、どの角度かで全然違う。あくまで感想レベルだが、藤木直人とか亀梨なんとかとかか言われる。どちらかというとカオナシみたいな感じだが。

 

これは人格的な部分にもあって。誰かに評された人格が自分の人格なのだと合わしている節がある。割と見た目に清潔感があるらしく部屋が綺麗そうとか、きちっとしてそうとか。

 

でもこういう他人の評価って、結局はその当人基準だから、僕のほんとうとの比較ではない。ある程度は合わせられるけれども、僕は貴方の範疇外でも生きておる、とかなっていた。

 

一番は言葉と人格が一致しているという世界観に合わせられなかったこと、いやいや、言うほど現実化してないやんとか、当人に言語化できてない人格もあるやんとか。結構こういう部分に惹かれるところがあるかどうかを問題としている節がある。

 

 

評されてきた自分の人格にムラがありすぎて、環境から自分が決められない。

この器を持ったら、もっと女遊びしているとかつての友人に評されたこともあったが、これも友人のコンプレックスなのかもしれない。いやこの人、パイロットの人妻だった人を娶った猛者なのだが。

 

まぁ、僕はこの人格も器もとても謳歌できてきている。

輪廻転生があるしても、この肉体で生きられる世界はきっと何万年後とかになるし。輪廻転生を救いに使わないスタイル。

 

どうでも良い感想だが、自分の人格の症状に名前が付くと安心できる世界観も良いな。しんどさに名前が付いたところでそれが定型であるとはみなせないのだが。だって、それをどう感じるかなんてその人の人生劇場によりけりなのに、外から決められない。

 

そんなことより何が匂うかが気になる。

日本語の原点みたいな本を読んでいるのだが、匂うは嗅覚ではなく、嗅覚を比喩とした感じとのこと。僕の語彙でいうところの味覚的世界観。味は世界に影響されない。どれだけ収集したところであくまで個人的な感じ。

 

 

夜ごはんはシェフがものすごく美味しい料理をサーヴしてくれた。対象に与えたい、対象を求めたいとなるのが個別的な好意なのだ。という世界観はとてもシンプルな合理性。与えられたから始まっていないのが楽。やきもきされている可能性はあるが。

 

 

そうして、思索パート。

 

この憲法学の本を読んでいて、近代の個人の尊厳の意味がちょっと分かってきた。

 

そもそも、個人が個人になりえたのは世界が細分化されてきたから。国民が王様を自然現象と同じく捉えていると、人の区分が不明瞭になる。

 

僕は個人的に、人が固有な存在であることに財産の所有が付着している意味がよく分からなかった。何を持ってなくても自分の人生劇場を過ごしているだけで固有の個人じゃんって。

 

でも、もっと歴史を遡ったヘーゲルさんが構築した法哲学の語彙としての「占有」の話が出てきて、なるほどなと思った。原初の国家では、国民も国王の所有物であって、人が存在していない・そこから個人を勝ち取る為に、土地ないし物を国家から離れた個人が所有しているという概念が生まれた。

 

物を持っているから個人だという世界観はここから来ている。納得。

 

憲法学における自由が、所有権からの類推であるという叙述が全然分からなかったのだが、やっとつながった。

 

ただ、現代人でもここで留まっているのはどうしたことだろう。

教育の雑さなのか、人が分かりやすいところに留まりたいのか、どちらかは知らない。

 

なるほど、世界が「物」的に捉えられると自由になったり不自由になったりするのか。

 

そういうのはどうでも良いとしたほんとの自分を追求すべき。

人に評価されなくなったいまの方が動けるし、評価の枠は馬における人参の比喩みたいでいやいやする。僕は自分のことを飴と鞭がないと動けない獣みたいに捉えておらんし。

 

資格試験に向けてあくせく客観的な知識を追っていたときより、いま読む方が楽しい。

正解がない世界の方が生きがいがある。

 

ここでいう楽しいが楽ではないのはそろそろ伝わっておるかしら。

 

こんなてきとーな世界観で表現物を構築しても良いかなと思うくらいにはゆるゆるしてきた。物書きではなくもの書きになる世界線

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い楽しさを。

 

 

 

 

スイッチ

 

 

有給を満喫している1日目。

 

朝はきちんと起きてご飯も食べる。出がけにはガスの元栓も閉めたし、スイッチ式のたこ足配線も切った。はず。

 

ただ、あまりに私生活で、かつなんとかなる領域だとゆったりしてしまって良い塩梅だと思った出発時間が思いの外遅いし、そういえば普通の人の出発時間だということに注視してなかったため、梅田に着いたとき、あと15分くらいしかなかった。地の利を生かして余裕で間に合ったが、内心はスリル満点。割と最終的になんとかなるだろうとしか思っていないから枠内でのスリルなのだが、こういう意識を安心させないように遊ぶ節がある。計算してるわぁ(誰がとは言えないけど)。

 

そうして名古屋駅に到着。思いの外時間がタイトなことに今更気づきながら、本屋さんに寄る。どうしても気になっていた「憲法の土壌を培養する」という本。日本の政治の遷移と憲法学の間を繋げるような話で、やっぱり気になっているだけあった。森鴎外とか夏目漱石の知的階層みたいな話も出てくるし、「政治」の定義が滅茶苦茶シビアで面白い。

 

「一個の全体社会の頂点の意思決定を、自由で独立の主体相互の特別な質を持った厳密な議論によって行い、かつ一義的で明確なその決定を迂回することなく自発的に遂行する」

 

これくらい厳密な定義をしてくれる政治家ってきっといない。政治的な決定を担う機関にかなりの知性を要求しているという意味では政治を考える国民にもそういう土壌があると言う前提があるところがシビア。

 

何かを批判して満足するのではなく、批判の批判も前提とできる器は育てようとしてもできない。日本人は思想とか見解が人格と連動しているように捉えるし。

 

あと、日本の現代史が浅いから目から鱗だったのだが、デモクラシーの語源ってざっくり言えば、国家の構成員でもなく社会の参加者でもない個人を守る政治的な思想。ただ、個人的には、現代日本人が個人であることに耐えられる器を醸成している人物がどれだけ居るのだろうかというのはちょっと疑念。

 

耐えられるような個人が確立しているのが理想的な政治なのかもしれないが、これはユートピア観よりさらに遠い。

 

あくせく知識を収集するところから離れた憲法学はほんとに美味しい。

 

 

そんなこんな移動時間。

 

高速バスの降り際は、いや、歩いた方が早いと思う。どうでも良いが、五月の歩行距離98キロだったらしい(グーグル先生調べ)。6月は100キロに乗せてみたいところ。

 

移動にかかるお金って、距離ではなく時間なんだよな。僕は歩きを至上としているから、あんまり移動にかかるお金を問題としていないのだが、大阪から名古屋に移動するバス時間より、新幹線で愛知の端っこに移動するお金の方がかかる。あるものだけしか問題にしなければここに罪悪感は起こらない。

 

ご当地ご飯を食べることもしないのだが、たまたま空き時間があって、冷やしきしめんをいただいた。美味しいが、消化が悪い。

 

そんなこんな、のんほいパーク。

 

陽キャ学生っぽい集団が最寄駅で集まっていって若干萎えた。何か話しているのだが、音として聞き取れても分からない。そんな話していて楽しい、のだろうな。

 

 

1時間ちょいでは周り切れない敷地。植物ゾーンは癒し。アジサイが元気。どんぐりを転がすピタゴラスイッチみたいな遊具でも遊んでしまう。

 

動物ゾーン。

 

動物園は好きなのだが何か畏れがある。牙を抜かれた野獣って鑑賞対象になっているが、本来は人間って捕食される対象だし。この微妙な境界が楽しい。鑑賞してるという一方通行はなんらかの策があるという規定だが、んなことはない。

 

お風呂読書が別軸になった話もある。

 

西脇順三郎という詩人の集とか、日本における言語学の長老みたい人の本とか。

 

 

ここまで。

 

文字数少なくてすみません(思ってない)。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。