ばんさん

 

 

 

22:08から。

 

お腹いっぱい。

マメアジの唐揚げと南蛮漬け、加えてにんにく炒め。ついでにベビーリーフサラダ。

満月さん料理が美味くてたまらん。

 

お弁当を作っていただくのが常態化していて有難い。

保温できるスープ入れを回してもらって大根スープを食べていると、漂った香りに先輩女子やらスーパー事務の人が「おでんか」とかざわついていた。僕も同じものを買ってスープも毎日持って行くと食生活がさらに贅沢になる。

 

 

仕事はなんとなく停滞しているように見える。

成果が出ていない。ただ、個人的には楽しいんでいる。いや、苦しんでいるのだが、苦しいのが人生劇場の醍醐味だろうし、ふつふつ静かに学習中。

 

内側でふつふつしていると外から見ると元気がないように見受けられるらしい。

心配されると申し訳ないが、あんまり元気で居すぎると人間味が無い。

 

具体的には書類整理できゅうきゅうしているのだが、やっとこさちょっとずつその意味が分かってきて、何をチェックすれば良いかが読めてきている。その中で新人の雑用みたいなものとか店長の申しつけみたいなものが飛んできて、今のところあんまり営業に傾注できていない感じ。

 

マルチタスクが人間の脳的に苦手なのは意識の容量の話であって脳の容量ではないと思っている。要は、どれかのタスクが意識せずにできるように自動化できれば、他のタスクも並行的にこなせるのではないかという説。脳と意識の容量がズレてないと、歯磨きしながらテレビを見るとか、スマホを弄りながら音楽を聞くとかできないだろうし。

 

あんまり書くと言い訳に聞こえるかもしれない。

本日、母親にこの前の試験が落ちたことに対して、「準備時間が足りなかった」と言ったら、「そんな言い訳なんてせずに、やると決めたらやらないと」と言われた。

 

新人だから定時で帰れて充分時間取れるだろうなと思っていたらそんなことはなかったという目論見の失敗でもあるから、何を言われても気にしないが、なんというか、やっていない人って、凄い人に高尚を強いるよねという気分。

 

失敗の分析ができなければその後の改善なんてありえないし、人生で一発勝負の局面は努力でなんとなる方面ではなく運とかだろうし。

 

やらない理由を言い訳するというのはやめた方が良いと思うけども、やった後の失敗の結果についての言い訳はいくらでもやったら良いような。原因が分からないと対策しようがない。

 

ここをいっしょくたにして、母親は僕がやらなかったこと言い訳をしていると解釈した。

やるためにはやる時間とか環境(やる気ではない)が必要であって、そこを確保できなかったというのはたしかにある。だから、別に外には何も話す必要がない項目だった気がする。口がすべった。

 

やっていない人は、やっている人に高尚さを求めるという話はどこにでもある。

 

 

今回の震災で、ボランティアに行くのは邪魔だからやめろみたいな見解があったという話が流れてきた。あんまりコメントをするつもりもないのだが、そんな警鐘は政府がするものであって、外から静観している人がするものではないだろうなというだけ。実際のインフラがどうなっているかなんて個人の視界では統一的な全体像が把握できる訳が無いし、どれだけその視点を集めても局所のつなぎ合わせでしかないような。

 

まぁ、法令を犯さない限りは捕まることはないから、その範囲内で好きに行動して発言すれば問題ない。それより下なのか上なのか外なのか分からないけども、こういうのはその社会観の問題だから、論理ではなく感情のお話。

 

個人的な感情では居てもたってもいられない人の感情は分からなくもないけども、あんまり凄いとは思わない。非日常に発揮される善意より日常のどうでも良いシーンで出てくる、する必要がない気遣いみたいな振る舞いが好き。

 

こんなの個人の好き嫌い。

 

 

やれやれ。

 

昨日の続きを書こうと思うのだが、もうなかなか眠い。

 

前の日記を書いてから思ったのが、社会って法律が形成したのか、もともと形があってそれを法律がルール付けたのかは分からないけども、とても大枠のものがある。ここを外れると社会の優遇制度に乗れないとか、社会によって自己が一般の人と比べて制限されるとか。

 

感情が社会に規定されるのかというのは微妙な話だが、大枠な喜怒哀楽は設定されているような気がしないでもない。これは法律の外にあるのだが。だって法律は誰にでも知覚したり感知したりできるようなものしか対象にできないし。

 

で、その内側にも細々と社会があって、ここがややこしい。

人それぞれの延長みたいなもので、場によって具体的な社会が微妙に違う。大枠の一般社会では当たり前ではない価値観もそこでは通じることもあるし、むしろそれが当たり前だから一般社会の価値観を持っている人がマイノリティになるとか。

 

細々考えていくと頭が沸騰しそうだが、最終的には、そんな複層的な網にかかっている上で、「本来の自分」みたいなものが保てる訳はないよなということになる。人格は社会がないと設定されないし、そんな自分の価値観も社会という環境からフィードバックが全くないということはないし、どうあっても完全に自由な人格はできえない。そんなものがあるとすれば、おそらくその人格は言葉を扱えないと思われる。

 

いや、だからどうのみたいに人に諭すつもりはなく、だったらもっと楽しいように人格を設定できそうだということになるなというだけ。

 

僕の中には人と関わりたくない部分がどうしようもなくあるのだが、これは別に環境ではなくもともとの性質。変化するのは好きだが、自分のペースでやりたい感じがあって、だから電話とか苦手だったのだろうなと。もっと苦手なのは自分によって相手を変化させてしまうところ。仕事でのそういう関わりに苦しさを感じる。

 

ただ、これって人格というより、単に社会と折り合いをつけた解釈みたいなものでしかない。

外のことって暴論だけど、知ったことではないとすれば良いのだろうなと。知ったことではないとすることで、ブレーキをかけずに他人と関われるのでは、みたいな。

 

他人を傷つけない唯一の手段は関わらないこと。

ただ、相手の傷なんて見えないし分からない。多く見積もったところで関わりが良好になる訳でもなく、単に遠くから関わるだけになる。

 

 

どうでも良いけども、僕の最終地点は縁側でお茶を飲みながらぼーっと思索にふけりつつ、時々世の中に言葉を放流するくらいな感じなのだろうなと。

 

もちろん、暫定的だが。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。