無重圧

 

 

 

22:02から。

 

やっとこさ明日は休み。

 

6連勤が体に来ているのかというと、そんなことはない。隈に来ているのは薬局で見つかった30パー引きの本麒麟6缶パックだと思う。どちらにせよそこまで調子が悪いという訳でもないから幸運ではある。

 

クレームの人は去年関わった人で、今年逢った人はなかなかまともな人ばかり。

僕も変わっているから、プロセスによって出逢う人が変わって来るのだろうなと解釈している。

 

波長で縁が合うのは、そんなにたまたまではないと言うとスピリチュアルっぽい。お仕事とかだとベルトコンベアみたいなところだから、縁がない人もやってきてたまたま感はあるが、それでも引っかかるのが縁だろうなと。この引っかかりは後付けで理由があると思われることもあるのだろうが、時系列上きっと理由はない。

 

あんまり変な話は抑えて、お仕事の話。

 

店長も先輩女子も気が向いたときにしか僕を気にしていないことに気付いた。

これは別に手放しして問題無いという意味ではなく、それぞれ他人のことをいちいち気にかける性質ではないというだけ。店長は合理的に気にかける対象を選んでいるし、先輩女子は自分の世界観が大事で、結果的には同じだけども、方向性が違う。

 

先輩女子、雑談の様に振った質問で結構ヒヤッとする答えを返す。

前もって教えてくれよと思わなくもないが、ここはその質問に至らなかった自分の落ち度だから特に気にならない。付き合い方をちょっと変えて、思いついた質問を前振りしていくだけ。聞けば答えてくれるから上手く質問を想像すれば良い。

 

店長は合理的に他人を切り分けているにしては、かなり僕のことを気にかけてくれている。

のだが、なかなか無茶振りが多い。その無茶をこなせるようになれよという鼓舞と解釈しても問題ない。何か落ち度があっても別に怒ってないし。ちょっと、何かを聞いたら「そんなことも分かって居ないのか」みたいな鼻で笑うようなニュアンスを出すことがあって、同じく聞けるなら先輩女子とかスーパー事務の人に聞きたくなる。

 

でも、これを踏まえても店長って僕に対して無駄にいっぱい教えてくれているという認識。

こんな有難い上司が居て良いのかという感じ。

 

出逢う人は鏡だというまことしやかな理論があって、この考え方は正しいと思っている。

これって下手すれば運命論みたいなことになるのだが、個人的にはそうじゃなくて世界のことを認識できるのは、自己認識の範囲であって、それが他人の認識になっているというだけ。

 

他人の否を感じたら自分にそういった意識がないかを確認しなさいみたいな話ではなく、それが見える時点で、自己の中にそういう認識なり意識が含まれているということ。

 

僕も店長だったら致命的な問題以外は自由に遊ばせて危険かどうかを肌感で分かるように見守るだろうし、先輩だとしても手取足取り教えることはしない。まぁマニュアル的なところはまずはひと通り教えるかもしれないが、ここは体系的に知識を継承できるかという問題。

 

満月さんが活動フィーバーになっているのも、ある意味鏡理論かもしれないが、ここは合わせ鏡の無限反射だから、一般的な関係とは違う話。

 

またややこしくなってきた。

要は、世界は自分次第というだけ。

 

本日のリクエストは「醤油ラーメンとそれに合う副菜」。

ビストロなんとかみたい(古い)。

 

もちろん麺からは作れないが、スープは用意した。チャーシューとメンマも買ってきて、ネねぎの小口切りを加えて振る舞うつもり。副菜はおつとめ品だった春菊を買って、ツナ缶を加えて、洋風の和え物にした。広告の品になっていた手羽元のガーリックバター炒めにレタスとトマトを添えて。

 

美味しいと思うが、ラーメンに合っているかというと分からない。

 

駄目だったら、次はもっと合うようなものを作れば良いというだけだから、満月さんと過ごすことにプレッシャーはみじんもない。

 

たぶん、満月さんもそう。

という鏡。

 

やれやれ。

 

HSPの分類動画を流していると、どうやらHSS型HSPっぽい。アクセル踏みながらブレーキを踏んでいるタイプだとか。

 

分からんでもないが、今の僕は特に外からHSPに見られる感じでもないし、人を分類化するのもどうでも良い。これで盛り上がれるのは血液型とあんまり変わらないような気がする。

 

いや、盛り上がること自体は否定するべくもない。

ただ、その仲間うち以外が異界みたいな考え方になるともったいない気もするなというだけ。

 

詩の雑誌で三木卓さんという方が、「詩と生活」というタイトルで文章を書いていて、なかなか面白い。

 

詩人は「生」を追求するけども、「生活」に追われて詩人ではなくなる人がいるみたいな。

ここでいう生活は僕が言うところの「社会」と同じような感じ。「生」は精神の内奥に言葉で迫って行くという感じなのかな。僕は詩人ではないから分からないけども、この違いは確かにあると思う。

 

なんなら縁側でずっと思索なりぼーっとに耽りたいのだが、思索の為には活動パートも必要であって。この活動が仕事である必要はどこにも無いと思うのだが、なんだかそういう風潮があるから活動パートもやっている。仕事が無くなったら活動パートが運動とか読書に移るだけであって、動かなくなるということはない。

 

利益を得続けないと存在できないという法人の存在意義もそろそろ破綻するのではないかと勝手に思っている。むしろもっと省エネで最低限で回すくらいの世界になるべきって層の方が多いのではという感覚。

 

便利が犠牲になるけれど、便利って無くなっても慣れれば普通のことになって時間調整するだけだと思う。

 

この話はまた今度。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。