解釈

 

 

 

自分で自分をメンテナンスできるしか先に進めない、か。三月のライオン、将棋パートは面白いけど、いじめパートはなかなか作者さんの中身が見えてきて楽しく見られない感じはある。コンプレックスの昇華は表現の1つのカタチ。

 

1人称単数と、四畳半タイムマシンブルースと、ビブリア古書堂の事件手帖の新シリーズが新刊枠を争っていた。こういうのが選択なのかと思うけど、本を読んだ後の効果って、比べられるものではないような。期待値と結果が一致することもないし。確かに「いま」読む本を決めることは選択だけど、これって吟味するようなものではない。順番というかタイミングというか、任意的に決めるものではないというか。

 

結局森見登美彦さんが圧倒的語感で優性を保ちぶっちぎった。1人称単数はぱらぱらめくったときに目に入ったのが、絶頂に至った時に他の男の名前呼ぶみたいなフレーズがあって、今はちょっと違う。ビブリア古書堂の事件手帖は今読まなくてもいずれ読むだろう。と、一応言語的説明はできる。これが本当の理由なのかは自分にも分からないけど。

 

この分からなさがきっと自分のほんとうだ。

 

どうでも良いけど、自分のご飯の味に嬉しくなる精神はいかがなものか。客観にも耐えうるかどうか別として、お惣菜より自分の味付けがうまし。昼はちょっとしたサラダうどん。自分で創ったもやしナムルと、ブロッコリースプラウトをかけただけ。醤油とほんだしと砂糖のめんつゆもどきとマヨネーズ。もやしナムルはレンチンして、塩コショウ、鶏ガラ、豆板醤で味付けしたもの。夜はアボカド。ソースはポッカレモン、オリーブオイル、塩、ワサビ。粉チーズをかけてから。あまりに絶妙に美味しい。

 

これって要は自分がご飯を作る為に使った諸々とご飯自体を切り離しているからだろうなと思った。こういう癒着から切り離せることが良いのか悪いのかは知らない。弁当を作っていて偉いと言うとき、人は自分の労力ではそれをできないって癒着して人を評価する。

 

そういえば、波さんも毎日書いていて凄いですねみたいなことを言ってくれたけど、これも自分にはできないことをしているという癒着した評価だなぁと思う。僕にとってはこの「凄い」よりもちょっとだけ返してくれた「嬉しい」の方が遥かに希少だった。

 

自分がしていることと関係していても、無関係に凄いことは凄いことはある。比べない方が自他ともに尊重できるような。自分は、が主体だと視点が濁る。世界が更新されないことは当人にとって良いのか悪いのか。

 

ところで、何も動いていないとか思うことについて。

 

自分の手を動かしてみて、移動って、空間の占有を奪うことだと思う。自分の手がある空間には他の物資は存在できない。この視点で見れば、化学的に自分が移動していないなんてことはない。だって、地球は自転も公転もしているらしいから、宇宙空間において自分が固定されている瞬間なんて一瞬もない。これが現代の知見の真実なのだけど、素朴には納得できないはず。

 

というところからすると、移動の自由を謳歌したいという感覚は、あくまで主観的に空間を移動したという実感が欲しいということでしかない。この実感はVRが代替できそう。

 

人は本当に移動したいのかもよく分からないところ。僕はこの時代になって、空間移動は自発的なものだとしている。ほんとうに会いたい人なら会いに行けるし、移動は目的を伴っている。スーパーでカップルか夫婦がたらたら話ながら買い物している姿を見ると大丈夫かって思わなくもない。スーパーは物を買うところであって、会話をするところではないだろうって。

 

まぁコロナ禍の最適解は無視するということらしいからありうべき光景だけど、じゃあマスクも要らんだろうよと。嫉妬とかじゃなくて、本当に危険だと思っているなら、買い物は1人で行くだろうなぁと思うだけ。一緒に何か見たいでもしたいでもない領域で、なんで大事なパートナーと一緒に行くのか。話し合ってより鮮度が高い野菜を選ぶことを目的としているなら分かる。それならなんの文句もない。

 

そもそも論だけど、今の世界を変わったって思うのは良いけど、なんで変わらないと思っていたのかって、予測可能性の話でしかない。豪雨の被害も最近あったし、その前の311もあった訳で、自分に降りかかったから世界が変わったというのも恣意的な話よな。

 

常時じゃなくなることなんて、ニュースを見ていたら普通に在りうると実感できても良いような。変な話、国家が対立している限りいつ戦争に陥るか分からないし、自分が犯罪に巻き込まれることも当然在りうる。

 

南海トラフだってすぐそこかもしれない。

 

そういえば、古事記でも原罪論があったらしい。スサノオが、黄泉に行ったイザナミに会いたいて泣きわめいて自分の仕事をしなかったから追放されたエピソード。

 

まぁ後ろめたいことがある人はコントールしやすいという国家戦略だったのかなと。素朴に考えても。貴方は悪いことをしているっていう前提の効率性。

 

あと、言葉の読み取り。

 

言葉が一次元でしかなかったら、言葉の芸術は生まれない。

 

というところで、文章の解釈の指標は、当人の辞書であって客観ではありえない。広辞苑とか国語辞典の単語の解釈も書いた人による。

 

だったら共通項なんてないというのが正しい。

 

言葉の意味は内在的だけど、解釈はあくまで自分がするもの。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。