交合

 

 

 

急いで帰っていたから月を見逃した。ほんとうは急いでいたというより、自分はせっかちなのかとか、人の歩く速度の無意識性とかを考えていて外界があまり見えていなかった。ほんのりイライラしながら。

 

別にイライラというか怒りみたいな感情が芽生えることは悪いことではない。何かに流用しなければ。イライラしていたら思い通りに動くという学習をすると、ほんとうにイライラしているのか手段の為に反射的にイライラしているのかが分からなくなる。

 

ちょっと早く帰れるがために電車に乗るのは精神衛生上良くない。降り口に一番近いところに陣取った割に、降りた後に全然急がない人。結局すり抜けて1番に改札を抜けることになった。ちょうど朝読み返していたブログの中でせっかち性について言及されていたのだけど、ちょっと違うかもしれないなと思った。早く降りなければというより、人ごみから早く離れたく、というより、普通に歩く速度が違う。もっと言うと、意識的に歩いている。帰るために足をちゃんと使うというか。まぁ先頭に陣取った人は自分が早く帰られるのだから、当人の中ではとても合理的判断である。

 

もう1つがスーパーで通路を塞いで並んでいることに気づかない人。通れるかなと思ったのだけど何人も並んでいて、あ、ここ通れないわと思って進路を変えた。変えたところを見られていたから気付いたと思うけど、特に並びが変わることはなく。並ぶ専用のところだったらともかく、本当に全く気付かないのだなぁと。

 

でイライラの中身が自分を阻害したことだけだったら良かった。もちろんここもあるからせっかち的な要素もある。ただ、こういう後続者とか、通路を通るかもしれない人のことが全く意識されない世界ってある意味とても幸せことだと思ってしまったこともイライラには含まれているのだろうなと。皮肉とかではなく、とても生きやすそう。

 

こういう意味でも、世界はひとそれぞれの経験と情報と意識が形作っている個別的なものだとしている。

 

例えば、歩きたばこをしている人を見かけるといまどきそんなことをしているのかと思うけど、これはあくまで僕にとってのいまどきであって、その人のいまどきではない。このいまどきは別に、常識的多勢だからという意味でもなく。

 

青の数学という小説の中で、人それぞれに数学世界があるというフレーズがある。どういう順番でどの項目を識ったかによって形成される世界が違うとか。これって精神世界とか現実的認知でも当然ありうること。はじめの認識が印象強いのは当たり前だし。そういう恣意的な世界で生きるしかない。

 

 

でも、生きやすかったらこの僕は存在しない訳だと考えると、良し悪しを考えることができる今の方が遥かに良い。

 

さておき。

 

今日立ち読みしたのは、本を読むと世界が変わるみたいな本。でも、確かになと思ったのは、1冊の本を読むことはエッチと一緒だというフレーズ。原文がこんなのだったから、僕としてはまぐわいと言い換えたい。読書とまぐわい、ないし、誰かが書いた文章とまぐわいの類似性。

 

こんなの真面目に書くことでもないかもしれないけど、どうでも良いことを考えることができるのが人間だけでに許された営みだと思われる。

 

僕は物理的なまぐわいを双方向の疎通とはみなしていない。確かに体は一番近くなるし繋がるだろうけど、反応も所作も流用できるものだし、変な話、上の空でも全然知らない人とだって物理的にできないことはない。再現性も検証性もないから、なんというか至上の疎通ツールとするのはいかがなものかという感じ。

 

で、言葉を読むという営み。これは少なくとも上の空ではできない。ほんとうのその人に近いかという意味ではやや怪しいけれど、これは文字数が増えれば検証性も再現性もふえていく訳で。あと、文章を読むためには、どうあっても自分の中にある言語世界と照らし合わさないといけない。良いとか悪いではなく必ず。読めない文章は相性が悪い訳で、これを疎通というかは別として、当人と対象の文章が繋がらないと読めないということ。対象の文章がどれだけ日本語的に悪文だとしても、世界が近ければ読めるだろうし。

 

僕は最低限も整っていないのはちょっと主観的過ぎる感じがして好きな人のじゃないと読めない。(のろけ) と、誤字脱字満載の僕が言えることではないけど。

 

物理的まぐわいは余計な部分がある僕ですら受動的に行える。あくまで生理的に硬くなれば使えるし。精神的まぐわいはそうはいかない。あくまでどちらも能動的でないと無理だ。受動的に何かを読むことも受動的に何かを書くこともできない。

 

確かに文章はあくまでも独り言だけど、ちゃんとさらけだして書いたものは疎通っぽくなる。これをまぐわいと呼ぶかは別として、僕の文章を読み続けてくれている人はまぐわったことがある人より近いかもしれない。

 

何か前提知識が必要なことはあまり書いていないはずだから読めるかどうかは僕の世界と近いかどうかにある。精神的官能性。

 

 

やれやれ。

 

時的感覚の話。これも局面によりけりなのだけど、個人的に2020年がやたらと長い。まだこの年なのかってびっくりする。あと二週間で人生をかけると評されている試験があるし、その二週間後にはイベント事がないと会えない一方的に好きな人会えるかもしれないし。

 

どっちが重要かなんて公には言えない。

 

やはり、古典的経済学の時間の観念は遅れている気がする。時間は確かに希少性があるけど、この時間って一律ではない。貨幣のレートと同じくらいな意味でしかないのではないか。人は時間を欲しているというけど、無限の時間が提供されたら持て余す人が多いと思う。

 

時間にレートがあるって素朴に捉えれば普通のことだと思うけど、あんまり浸透はしないだろうな。

 

例えば、好きな人は自分が悲しい辛い時間に居てほしいのか、逆か。僕は好きな人には自分が楽しい時だけに一緒にいてくれたらなって思うけど、好きな人がネガティブな時は寄り添いたい。自分の基準で他人も統一化できる思想はおかしいと思う。

 

こんなところかな。

 

では、おしまい。

 

良い現実を。

 

おやすみなさい。