巡りめぐる

 

 

 

鼻の頭の内部にニキビができた。ニキビと評して良いのか分からないけど炎症の腫れで少し鼻が高くなるなぁと自分の上向きの鼻について思う。この正面を向いても鼻の穴が見えてしまう鼻ってそういえばコンプレックスだったなと。どのタイミングでどうでも良くなったかは忘れたけど原因は母親の一言だろうなと。

 

冗談風に、僕が産まれたときこの鼻はなんだと思ったみたいな。確かに遺伝的にはない形だから、羊水の中で鼻ができるときに押し付けていたのかもしれない。あぁ、自分の鼻って変なのだなと。顎の長さがコンプレックスだったのも姉の一言よなぁと。否定から入る家系なのかなんなのか。

 

あと運動会の長縄飛びのときに5回目を「あ5!」と皆で言ってからかわれたことも。なんとも陰湿だけど、そんなもんよねという気もする。皆僕の何が気に食わなかったのだろう。覚えていないだけで僕もそういう悪口の輪には加担していた。嫌だ嫌だ。

 

ここで思ったのは、外形のコンプレックスって自分で見つけるものではなかろうなと。そもそもcomplexって複雑という意味だった気がするけど、日本語になったら欠点になっているのは何故なのだろう。誤訳ではなくて他の人と外れた個体差は日本では欠点だという意訳かな。自分の外形がどうでも良くなったのは大学以降外形で不遇な扱いをされたということがないからかも。

 

自分で見つけだす欠点は外形どころではない。外形は外からの評価だけど内側は。

 

今日の書き出し、ほんとうは「これだけ暑いとスーパーで買った生肉が家に着くまで腐ってしまいそうで心配だ」にするつもりだったのだけど、1人称単数で村上さんが自分の歴史を語るものだからこんなことになっている。

 

昨日芥川さんが唐突に出てきたのも、ガールフレンドの兄に現代文の副読本の芥川さんの小説を朗読するというよく分からないシーンが出てきたから。35歳で退場したのかと。

 

昨日の日記を読み返してみると寝不足とか興奮でふわふわというかふらふらしている。今日のお昼に日の丸ご飯を食べる時に自分のフラットな人格がどこにあるのか分からないなぁと思っていたのと重なる。夢は一切見なかった。

 

村上さんの話。

 

最新の小説を読んでいると、なんとなく憑き物が落ちたのかなという気がする。文章だけから読み取った訳ではなく、ノンフィクション以外は読んでいるのを含めて総合的に。とてもリラックスして小説を書いている感じ。僕の独断的な解釈になるけど、変な話、父親が亡くなってすっきりしたのかなとか。この確執はきっと無意識的なものだったのだろうけど、無意識を言語化してきたのがこの人だと思っている。父性の悪は海辺のカフカで顕在化したけど、ファンタジー系の物語に通底しているような。ねじまき鳥とかネズミとか。

 

甘やかされた女の子がちょくちょく出てくるのも、そういうことなのかもしれない。その子自体ではなく、その子をそういう風に育てた親、みたいな。大作家さんにおこがましいけどなんだか良かったなぁという気がしている。文章に言霊性はなくなったかもしれないけど、これはこれで美味しい。

 

この視点でノルウェイの森を読み返したらまた違うかもしれない。

 

 

僕が物語について独善的に解釈を遊ばせることができるのは、言葉の味には関係ないから。情報が追加されることも関係ない。清涼飲料水にどれだけ砂糖が入っているかを知ったとしても美味しい事実は変わらないのと同じこと。

 

好きな人の日記が虚構だったと判明したとしてもまぁ美味しいから良いかとなる。言葉と現実の一致はあんまり関係ない。あと、好きな人と僕には何の現実的交流もないから手が美なのは公開されている画像を通しての話。実際に見たこともあるけど、受付の人と客の関係では注視はできない。触らないようにするのが精いっぱいであった。

 

だから、実際にどこかですれ違ったとしても分からないと思う。コンビニの店員さんが私服で歩いていたら分かるけど、この分かるはあくまで形の話。圧倒的えこひいき。

 

利き酒ならぬ利き文章ならあるいは。

 

 

やれやれ。

 

久々に出勤したら人と会話してないから一瞬まごついたけど、すぐ馴れる。発話では人は人を人として認識していない説。意味が分かるかどうかは知らんけど、相槌打つAIでも満足できるみたいだし。要は、自分が打ってどれだけ響くかによって人は内部的に人足りうる。外部的には人であることには違いないけど、外部的な人の枠もかなり恣意的であることは確か。

 

ソーシャル距離感の話も穿って考えればよく分からない話で、知り合いなら近くで話してもなんとも思わないけど赤の他人には近づかれたくないって変じゃないか。知り合いの交友関係をコントロールできるわけでもないから、知り合いの交友には赤の他人が居るのに。

 

なんというか、人の定義が可視化されていると思う。

 

 

人の行動と意図の一致で証明し切らんやろうと思ったのが、昨日の試験問題にあったな。

 

公園に忘れ物があって警察に届けようと思って持ち出したのだけど、持ち主が戻ってきて持ち主はこの善意の人を盗人だと思って返せって暴力を振るったみたいな事例。

 

これって、持ち主が理性的な人であれば刑法が介入するまでもなく済んだ話なのだけど、思い込みが激しかったことでややこしくなる。この持ち出した時点だけ切り取ったらこの人の行動が善意かどうかってどうやって判定するのだろう。刑法上の意図って内心ではなく、あくまで客観から読み取れるその人の認識なのだけど、この時点で善意であるかどうかって、この人が日ごろ落とし物を拾って届けているくらいしかなさそう。あとは財産的に不自由してないとかだけど、ホームレスの人であれば善意で警察に届けたりしないって完全なレッテルよねと。

 

この水準で考えると、逮捕されたことが即人格的にアウトだと考えてしまうのも、別に人を人として尊重している訳でもなかろうなということ。人格者っぽい人が良くやること。

 

 

最後。

 

自分の世界を言語化してこそ意味があるという水準で考えると、この場はかなり重要な役割がある。内的な世界において言葉はあまり意味を持たない。思考すら。

 

ここが僕の真実ではないのと同じように、他人の文章もそんなに真実ではないと納得できる。し、真実であることにどれだけ意味があるのかという問い。

 

僕は日記で虚構を書く趣味はないからここは僕の中では真実だけど、結果的に真実でなくなることも在りうる。だって現実は自己満足の為にある訳ではなし。

 

真実なんて人が体現できるものではない。自分の真実も一生分からんと思う。

自己意識が真実であると思えるのは幸せなこと。

 

 

僕も人のことはどうでも良い質だけど、僕とは無関係で自分と同じような人とは認識している。自分と同じように矛盾しているし起伏があるし欠点があるし。

 

知らないけどさ。

 

そんな感じでおしまい。

 

暑いけど、皆さんちゃんと汗はかいていますように。

 

おやすみなさい。

引き続き良い夢を。