しふく

 

 

昨日の今日で我が家。お弁当のおかずは満月さんが作ってくれている。感謝。

僕は文章を制作する。料理を作るように文章を書いている、感じでもないか。料理の方が丁寧、でもない。だいたい同じ塩梅。素材が食材なのか日常なのかの違いくらい。すんげぇ丁寧に推敲して文章を創る人が僕の文章を読んでいるのもやや不思議。完成度が浅くないのかな。

 

 

さておき。

 

チェックアウトのぎりぎりまで二度寝。30分前くらいに起気上がれば、髪のセットも含めて支度できる。満月さんはその辺り押さえてくれていて丁度いい。自分がせかせか準備している間に寝てられるとイライラする人も居る。こうなると先に準備が終わってぼーっと過ごすことになる。

 

ワックスも基本現地調達でコンビニのコンパクトサイズが三色目になった。束感が出るタイプでてきとーに前髪を上げたら雨に濡れたような風情になった。本日は雨だからちょうど良かった。基本くせ毛だから、ぐしゃっと固めたらくねっとなるのだな。湿気の問題なのかもしれないが。

 

そうこうして、出発。スタバのドライブスルーで飲み物とドーナツのお買い物、のお買い物の前に、僕は助手席で昨日の余りのビール500ミリリットルをいただく。朝ビールの格別さよ。罪悪感はブレンドされない。

 

お昼ご飯はとんかつ。ここ何日か舌がとんかつを求めていて、個人経営の美味しいところに行った。地元民がぞくぞくとやって来るタイミングの少し手前で入って、僕はおろしかつ定食、満月さんはひれかつ定食を頼んだ。うまい。ただ、昨日書いた自分への心配はもともとなかったものが増えているような感じ。満腹の為に食べていないから、こういったお店で出されたご飯を自分の胃が全部許容できるのかという心配。食べ過ぎると後がしんどいし、もったいないからって無理に食べて体調悪くなっても本末転倒。

 

食材への感謝は大事と想うが、本当は空腹になったタイミングで腹八分になるくらいまで食べるのが体にはちょうど良いから、特に同じ時間に食べなきゃいけないということもないし、出されたものを全部食べなきゃいけないということもないはず。たしかに与える受け取るという意味で分かり易い領域だが、例外が多いとも言える。アレルギーとか。

 

その後は、鳳来寺というところで紅葉狩り。こういう言葉があるということは、人間に景色も食べ物。こちらはいくら食べてもお腹を壊すことはない。あいにくの雨模様で、人が少ない。良い天気だ。鳳来寺の本堂の標高は高いらしく、霧の雲海が下に見える。そういえば、この景色、実家でも良く見ていた。裏山の頂上(標高六百うん十メートル)からの景色に良く似ている。家もちょうど雲海の境界線の上で、下界が全部白いのは日常の世界の景色に含まれていた。ここを上り下りしていたらそりゃあ健脚になる。

 

そのあとは休憩がてら運試し。

僕はまぁ負けた。虚無の日。満月さんはユニコーンで連チャンになりそうでならなかったが、まぁ当たった。

 

そうして、大阪への道中。

ゲオで相棒とリーガルハイを仕入れて、リーガルハイの方を見た。

 

どういった人が監修しているのかは知らないが、法の限界が表現されている感じ。

ここの専門職にならなくて良かったが、この世界自体には興味はある。

 

セカンドシーズンのクライマックス辺りで、「民意」という単語が出てくる。検察という国家機関は民意を反映させる求刑をしているのだという話。人間が人間を裁く以上、最後にある基準は心だとか。僕はこの辺りの考えとしてはコミカドさんの方に寄る。がめつい人間だが、司法が民意に偏ったら単なる多数決で悪者を決めることになる。証拠よりも印象。こんな判断は前時代の話。

 

主人公は真実が在るという論者で、割と移入できる人も多そう。新垣さんが演じているし。で、コミカドさんは真実なんて知ったこっちゃない派で、司法の限界を語っているような。結局、裁判という舞台における真実も人間には分からないから、印象ではなく証拠で分かる範囲でやりましょう、証拠で判断できない事実は無罪にするしかないということでやろうかが現代の刑事裁判。どんな犯罪行為をしても証拠が無ければスルーされるというのは恐ろしいことだが、これが自由の意味で、犯罪行為をしてなくても印象で犯罪者になる魔女裁判みたいなオカルトな社会よりはまし。

 

自由には責任が伴うというのが社会の一般論だが、僕としては伴っているのは他人の自由という不安ではなかろうかと思った。自分の目で判断するのは不安だから、経歴とか事務情報で証拠付けて塗り固める。

 

リーガルハイのストーカーの回が切ない。司法的な証拠としては単なるストーカー犯罪にしかならないが、ほんとにある真実は別のところにありそうだっていう含み。この含みの方を真実だと認定してしまう時点で真実は印象によって構築されているという世界観だとされる。

 

実際僕はどうかというと、どうなのだろう。

厳密な証拠があったところで、それは一般的にそういうものだとしかならないし、印象も経験則からの傾向判断だし、特に真実がどうとかは問題にならない。楽しく感じられればそれで良いのかも。この楽しいの中にも色々あるが、少なくとも事実でも言葉でもない。

 

今日の1日が楽しかったことは、記録しなくても良いし証拠も要らない。

ただのお裾分け。

 

寝よう。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。