あくまで

 

 

昼ご飯の時に上司とエレベーターで一緒になって、暑いねー疲れるなーと一言二言を交わす。申し訳ない、暑いのは同意するけど、疲れるのは同意できません。とはもちろん言わない。社会人なので。

 

こう、観測される人が皆お疲れっぽいから僕の元気をお裾分けしたいところ。暑いからといって冷たいものだけを取るのはかえって体に悪い。ふと思ったのだけど。体の外の温度が自分の体温と離れるほど精神と肉体が乖離するのかな、いや一致するのかどちらだろう。

 

普段は意識していない自分の体が主張してくるやつか。

 

 

肉体的な疲れは乳酸で説明できるのだけど、大人になってからそんなに物理的に負荷をかけることはないはず。まぁ夏バテは肉体的な温度調整の機能の障害らしい。たぶん水分補給しながら汗をちゃんとかけば改善するのではという気はする。

 

では、精神的な疲労とは。と考えると、たぶん疲れることをしているのだという自意識から来ている。もしくは疲れないといけないという強迫観念。あと、どこかで読んだ、その時間を自分で支配しているかどうかによる。義務的時間は確かにしんどい。

 

この、時間を自分で支配しているかどうかという感覚はとても大事。仕事だって自分が選択してその拘束時間を選んでいるのだから。誰かに強制されたことではないでしょうよ。

 

決められているという感覚で生きることはとてもしんどいのは分かる。確かに決まっていることを重視すれば、そういうことにはなる。例えば、僕はたまたま自分の感覚と肉体が一致しているけど、性同一性障害とかとても大変だと思う。

 

精神的に疲れるという感覚が分からなくなりつつある。母親と接するのが一番しんどい。母親は僕を個人として慮ってくれないけど、ネット上の知らない人の方が尊重してくれていると感じる逆転現象。

 

さておき。

 

前置きに重ねて申し訳ないところだけど、なんだか心が跳ねている。生きていて楽しい感じ。これは誰かに自分が認められたとかではなく、絶対的な楽しさ。

 

僕に対する評価で、いつも頭を回転させているという言葉をいただいた。確かにもともとそういう傾向というか、強迫観念があった。考えないとまともな人の水準までも至れないというような。

 

でも、最近の日記で書いている思考の言語化は強迫観念からは解放されたもの。

 

まず、思考はしんどいものではないし問題解決のためでもない。

 

思考が問題解決になるというのはデジタルの考え方で、良くある男性は解決脳で女性は教官脳っていうのも何が着地点かという意味では等価。要は、正解の最優先の変数が一次元であること。何がなんでも解決も共感も相手のことを考えていないという意味では一緒。自分にとっての正解を他人に対して促せるって、カミサマ的所業よね。

 

僕はどこまでいってもアナログ人間で、正解を探すために考えている訳ではない。というか、別に、日記で書いているほど常に考えている訳でもない。いちいち言葉で考えている訳じゃなくて、後からこれはこうだなって言葉を当てているだけ。

 

この当て勘は、日記で培った機能なだけ。

 

そもそも自分の判断をデジタルで設定するってかなり難しい。例えば何かを買うときの変数の重みをどうやって決めるのか。値段が高すぎのは駄目だとかは分かりやすいけど、自分の嗜好の重みとか加味してここまではどうでここから先はこっちの方が重いみたいな合理的判断はしていないというか、できない。

 

もちろん経済的に区切ればできなくはないけど、その限定された判断を素朴な自分とするのかという疑問が生じる。経済的世界に限定すれば、理性的に判断することは変数が少ないから選択は楽なのだけど、この判断基準で人を決めると、人にもそういう風に自分が決められることになる。自分も判断される対象になるのは仕方がない。

 

僕は自分に対しては自分を決めなくて良いとしている。というか、自分にとって自分がどうであるかを規定する必然性がない。G行為で性欲を慰めることもコントールしうるもの。

 

で、ちょこちょこ立ち読みして面白い読書術の本があった。確か、頭が良くなるという枕言葉がついていたけど、頭が良くなりたい人が読んでも良くわからないと思った次第。

 

 

読書が体感だっていう感覚は、そういう風に意識しないと、単なる流れていく出来事でしかない。僕が読書感想文苦手だった意味がなんとなく分かった。体感だからその話の中だけで限定できない。劇評が面白あったのは自発的に限定して書いたから。

 

文字情報が、体験に至らないという見解は分かる。自分の外のエンターテインメントとして読むみたいな。この文脈だとどんな物語を読んでも体験にはなりえない。読書感想文の領域。

 

という意味で、好きな人への執着は。自分と同じ水準で世界を見ているという妄想を前提としていただけであって、とても迷惑をかけた。読み物としてはずっと好きだから一生好きで良い。ごめんやでやけど、変な語彙を使ったから勘違いしたんやで、って言いたいところ。

 

調整済み。

 

文字情報が更新される限りずっと好きだけど、もうここは閉じるのかな。言語が理性だとあるべきってあくまで主観の話だと思われますよと。

 

 

この僕の楽しく生きている世界線だと、別に当人の整合性なんてどうでも良い。皆楽しく生きられていたら良いなというだけ。

 

おやすみなさい。