きょり

 

 

月はやはりやたらと近い。薄い雲のカーテンを通ったのに雲より手前にあるように見える。いや、もちろんまともな常識も持ち合わせるから雲の膜の薄さと月の光量の関係でそう見えただけとも分かる。月は宇宙にあるし雲は大気圏にある。どちらが手前にあるなんて自明。

 

ただ、どう見えたかの方が優位なのではというのが知識も踏まえた素朴な僕の感覚。

 

 

お風呂から上がって、ふと今日はシャツにアイロンをかけなくて良い日だったことに気付く。

 

芋づる式に昔の人のことが掘り返される。当時はちょうど20歳くらいか。恋人さんと寝て起きて、いそいそと準備している恋人さんを見て、今日は僕(のバイト)じゃなかったかって言ったら、烈火のごとく怒られたこと。人は地雷だらけだからほんとのことは言ってはいけない学習したように思われる。

 

今想うとなんで自分がしんどい想いをしている時に楽をしている人に嫉妬してしまうかというのは、自分の世界でしか生きていないからなのよね。相手が他のところで、他の日に同じことやっているのが分からない。

 

かなりややこしい人だったけど、結婚生活は上手くできているだろうか。ちょっと書く文章は好きだったような気がする。よそ行きな感じで。思い出そうと思えばもっとできるな。最初に会ったとき、僕は伊達眼鏡をかけていた。あの眼鏡はどこで捨てたのだっけ。

 

 

この烈火のごとく怒られたエピソードはまぁまぁ衝撃的で、人に話せるのはその人の中にある言葉だけかもなという経験則が増えた。そうやって言葉を選ばなきゃいけないなら、いっそ、なくてもいい。僕はもともと人の話を聞くの好きだったからそれで良い。

 

という1つの解釈。

 

なんだか今日はねっとりしそうだ。

 

人の話を聞くというのは、人の中身をリアルで観るということで、スキルというか興味があることが相手に分かれば良い。だから僕は飲み会じゃなくて1対1で飲むのが好きだった。多数人の飲むときのその人より濃いその人が開示されるから。

 

場では淀みなく話して回す人が対面だと言葉を探してくれる。この間(ま)こそ関係であったと今は思う。僕も共通語彙を探すために一生懸命言葉を探していた。語彙があるかないかはどうでも良くて、ちゃんと相手と話そうとすれば、お互いの語彙の投げつけ合いにはならない。

 

なんだか、あんまりこういう関係であることを求めるのも具合悪いかなと思ってやめたけど。ここで思うのは、僕はほんとに誰かと共有されるべき自分が居ないのだろうなということ。別に、知りたいならどんな質問にも答えるだろうけど、あえて自分がこうであることなんて、知られる必要を感じない。

 

本当にそうなのかには疑義があるけど進む。

 

 

言葉と自分の関係。

 

言葉は自分の動作なのかということを考えてみる。確かに発話の言葉だったら肉体が蓄積した語彙がつらつら淀みなく出てくるから、動作の一部ではある。感覚としては勝手に動く肉体と同じようなもの。

 

では、発話ではない言葉はどうか。

 

確かに、肉体を取っ払った人格としてみれば最もその人が剥き出しになっている媒体ではあるけど、だからそれを読み込んで相手のことが分かるわけでもなく。

 

分かるとすれば、自分が対象の言葉をどう捉えているかというだけ。自分が発する言葉も自動書記みたいなもので、どう伝えたいかの話ではない。

 

いや、140文字の世界では何かを伝えたいというより、自分がどう世界を捉えているかの表明っぽい感はある。

 

そういうこと。

 

自分がどう世界を見ているかって、言葉では遅い。言葉をよほど追いつかせていればだけど、そんなの無理だから。言葉は基本過去に向いているから、臨場感がある言語なんてない。

 

自分にとって臨場感がある言葉は感嘆符だろうな。

 

僕は毎日せっせと記録しているけど、言語でセーブできることなんて、一日の一部でしかないから、むしろ言語化しない人の方が進んでいるのではとか。

 

というのも、僕は素朴な1人で居るとき、言葉で考えていない。言葉として共通項にするために日記用に考えているけど、日記がなくても考えているしなぁって。

 

要は、この日記は僕の世界の虚飾とか余所行きの言葉ではなくて、僕の世界のあくまで一部でしかない。僕が何に好ましいと思うかとかは無関係で構築されたもの。

 

色々書いているけど全然主観性はなくて、虚飾ではないけど余所行きでしかない。

 

本音には言葉がないからな。

 

では、おしまい。