笑いの必要性

 

 

 

久しぶりにお月様を見た。特に下向いて過ごしていたというわけではなく単にタイミグが合わなかった。相変わらず美しや。見ようとすればいつでもそこに在るという安心感も良いな。在り方は循環していて満月だけがお月様の見え方ではない。形で呼び名がいくつもあるのは、付けた当時の人が名前を付けてその形を留めたかったからだろうな。時間の言語化でもあったかもしれない。

 

昨日の動物の例えの答えが1つ。顔がフクロウで体が夢喰いバク。(鳴き声はパイオルガンの旋律)なかなかの合成生物的イメージである。フクロウって目というか表情豊かよね。笑えるし。夢喰いバクは人の夢の中に興味があるからだろうか。現実で会うより夢で逢える方が貴重だというものさし。パイプオルガンはよく分からないけど、文体のリズムというか語彙の波なのか。言葉の配置はもっと気を付けていきたいところ。文体は確立できてきたと思われるが。昔は読んだ本の文体に引っ張られていた。

 

言葉と言えば、教養の世界史。何周もしているのだけど、人類の起原の辺りの食糧でトウモロコシが出てきた。しかし、いちいち漢字を使わなくてもいいじゃんと思う。ここでの本質は穀物が食べられるようになったことで、玉蜀黍が読めることではない。歴史ってこういうところがあって苦手だったなぁと想い出す。高校の時のテストで日本史のテストで「やぶさめ」を漢字で書くというのがあった。書けなくて日本史に苦手意識が芽生えたのだけど、これって、流鏑馬が書けることと日本史の習得は全然連動していない。この時代に武士という職能集団ができあがって、訓練の一環として馬を走らせながら弓矢で的を射ることをしていたという出来事のほうが流鏑馬と漢字で書けることより遥かに連動している。歴史ができた人はちゃんとそういう風に自分で考えて習得していたのだろうけど、僕は最近やっとこさだわ。

 

こういう暗記偏重の教育って、実際に習得したかどうかでなくて、ここはちゃんと教えましたよっていうことしか示していなくて、人の思考を閉じること。確かに教育には最低限の安全弁、悪いことはしてはいけないみたいな人の行動を閉じるための思想という文脈はあるけど、学問の習得はちょっと違うような気がする。義務教育を100%習得できている人ってそんなに居ない。ちなみに僕はほとんど覚えてないわ。

 

このやり方って悪意を感じなくもない。義務教育は無駄な知識を教えているという刷り込み。強制されると人は拒絶するものだし。義務感を芽生えさせるという意味では成功しているのかもしれない。義務がないと人は統制できないっていう観念も学校教育の賜物。だって、素朴な自分のコントロールすら義務に頼らないといけない。

 

話すときに相手に理解できない横文字とかでマウントを取って来る人とは付き合わない方が良い。消化不良なだけだから。

 

自分のことを言語化できなくする手法よねって思う。だとしたら壮大な世界レベルのプロジェクトだけど、これが妄想ではないというかもしれないというのが最近の世界情勢を見て思わなくもない。

 

壮大になりそうな話と思わせて、単なる素朴な笑顔の話。笑

 

ある哲学者が、幸福だから笑うのではなく笑うから幸福なのだと書いたらしいし、スピリチュアルだけではなく、科学的な検証でも笑うことは免疫を高めるらしいし。

 

他人の笑いを見る効能は知らないけど、全世界的に笑いを削減する政策が蔓延っているには違いない。日本でもボーリング場は2人で1レーン、かつ、あまり大声を出さないでくださいって言われるらしい。僕は人の声の大音量は苦手なので問題ないけど。

 

そうして、若干オカルティックな記事で、笑いという冗談というか嘘の話があって面白かった。曰く、エイプリルフールの起原は定かではないというところから、イスラム原始教の修行の一環で月一で嘘を付かないといけないという項目があったとのこと。そうして、嘘をつくことによって自分の固定観念に疑問をもてるとか。自分の非を装う虚構ではなく、自分の正しさの観念に嘘をついてみること。あれ、嘘をついて誰かを笑わせるという項目だったっけ。

 

まだ読んでいないけどベルグソンさんの笑いも読まなきゃならないし、そういえば、僕の歴史上1番好きな漫画であるからくりサーカスも笑いをテーマにしていたな。自動人形が笑いの考察をしていたり、ヤスパースが出てきたり、なかなか哲学的な漫画だ。

 

要は、素朴に笑うことは大事という話なのだけど、笑いって自分が外に向かっていないと起きない現象だ。ここからはオリジナル考察。笑顔という表情自体は色々使い道があるから笑ってなくても仮面として使うことはできる。これすら効果がありそうだけど、人が本当に笑うときは誰かあるいは何かを対象にしている。

 

完全に無私ではないけれど、主導権は自分が握っていないときのこと。

 

突き詰めてみると、笑いの表情を浮かべることができるかどうかは関係ないのかもしれない。自然と笑い顔になるのは確かだけど、本質で笑っていることが顔とか現実に表現されるかどうかも人それぞれだろうし。

 

笑いの概念は分析しようとすればめちゃくちゃ難しいけど、端的に言えば世界に存在しているという実感なのではという気がする。椅子取りゲームとか相対的な存在感ではなく、絶対的な意味として。

 

そうして、笑顔と言えば、好きな人の照れ笑い可愛すぎたなということを思い出した。もっと無表情ぽいっと読んでいたのに、不意打ち攻撃。特別に向けられた表情ではないにしろ造った顔ではなかったからとても嬉しかった。受付の時はやや人工物臭はしたけれども。

 

もっと笑顔で接したらよかったというのはなかなかの反省案件。

次は無いからなぁ。

 

 

ちなみに、僕はまぁまぁ1人で勝手に笑っているからあえて誰かに笑わせてもらうことは必要としていない。これは正しさという概念を必要としていないことにも等しい。

 

ずっと残っているフレーズで、高校の時の同級生(男)が、お前の笑顔はやばいって言っていたこと。何がやばいのだろうと疑問だったけどこういうことなんだろうな。その人は自分の笑顔と僕の笑顔の違いが認識できた。元気でやっていたら良いな。もちろんフルネームの固有名詞も再現できる人。特に深く関わったことはないが。

 

知識に対する記憶力が不要になるためには、習得する対象を自分の言葉で語れるように取り入れること。当人の思考が問われるからなかなか大変。僕は余計に不器用だし。

 

では、皆さんが笑えていますように。

 

(観測範囲の人であれば笑顔をデリバリーサービスしたい。)

 

ではおやすみなさい。

 

良い夢を。