ユートピア

 

 

夢がメタ。ふと、インターネット世界とか仮想現実の起源って夢にあるのかもしれないとなる。頭の中に無いものは選択も創造もできないし、なんなら見えもしない。

 

 

前半。映画を見ていると、いつの間にか主人公の主観になる。悪役は瑛太さん。無表情で僕を殺しにくる。どういう話かは不明だが、最終的に逃げ切るために僕は寝袋状のシェルターのようなところにうずくまり、これで見つかったら終わりだなというところで意識が落ちる。どれくらい経ったか分からないが目が覚めて、生き延びたらしい。ヒロインと再会しなんとなく円満で終わる。

 

いったんブラックアウトして、ここからメタパートが始まる。ほんとは殺しに来る人は居なくて、僕だけが見ている存在だったという話。走って追いかけられるシーンで、「包丁!」とびっくりするところも相手が包丁を持っているからではなく、僕が自衛のために持っていた包丁にびっくりしていたとか、意識が途切れてからの時間経過もたいした時間ではなく、周りの人がそれっぽく振る舞ってくれていたというネタバレ。VRで見たらその経過時間も体感できるらしい。たしか46分くらいだった。いやこの演出は時間が勿体なくて要らんだろう。笑

 

後半。毎日二本立てで楽しいこと。

普通の田舎の景色で、何か旅をしている。母親に会って、金をせびりに来たのだろうと罵られ、いや、たまたま来ただけだけど、と答える。そんな偶然あるかと一蹴される。

 

この辺りからおかしくなってくる。崖の中腹に穴倉にコンビニがあって、買い物するためには登らないといけない。下で母親が何か言ってくる。

 

その後、妹の旦那さん(実物ではない)とドライブ。妹曰く「僕より遊び人」だとか。どうやらここは完全体感型のVRのゲームの世界であるということが判明する。この場所は1-1とのこと。旦那さんは全クリしているとのことで、車(もちろん空も飛べる)でボスとかイベントとかを解説してくれる。僕の頭の中にこんな映像があるのかというくらいの幻想的な世界だった。この時間にこの椅子に座るとイベントが起こるのですよと言われた場所。初めは普通の椅子ちっくだったが、食虫植物の怪物になる。どうやってこんなところに座るのだ。

 

夢を記述することで夢が鮮明になるということではなく、きちんと夢を侵食できるくらいに楽しんでいるなという感じ。体感がフィードバックされているのだろうし、それを意識が拾えるのも良き。情報量は多くない。だって、もともと自分の中に含まれているから外から採り入れていない。

 

さておき。そろそろ目覚めて出勤。

道中の田んぼで、茶髪の地主が歩いている。そろそろ刈るのかもしれない。段取りを整えているのか。おそらくそのシーンは見られないが、刈られてすっからかんになった田んぼも乙である。

 

仕事。少し粘着質なお客さんに仕事時間をたくさん取られ、できえた仕事がいくつか抜ける。まぁその穴は外の人が埋めるように体制があるのだから問題はないが、成果としては味気ない。

 

同期は手を抜いているのか、もともとそういう人なのか分からないが、仕事場における当たり前が抜けている。あと喋り方が何か緩くなっている。安心は人を手抜きさせるのだろうかという感じ。僕、安心して手を抜く人きっとよろしくない。もちろん生理現象とかすっぴんとかではない。これは相手に対する手抜きではなく自分に対する手抜きだから、そこは省エネになって良い。外から(自分から)見える自分の為にやっているし制限していることだし。

 

外の対象に対する手抜きの話。

 

あと、ねっとり声が耳に障る。

でも職場のコンテストでは賞取っているし、こういう声色の方が需要あるのか。

 

退勤。

せっせと帰る。明日も仕事だから、ご飯もせっせと作る。簡単な炒め物。ちょうどよく副菜も食べきった。無意識の調整力を感じる。自画自賛

 

 

明日の仕事は先生と新人さんとの3人。新人さんも結構障る存在。障りは何か意味があるとしているから、不快ともちょっと違う。笑顔が僕のと違うなというのを見つけた。からくりサーカスは笑顔が割と重要なテーマの1つなのだが、笑顔が人形のようだというシーンがあった。人形は失礼か、いや、なんで整った笑顔が失礼なのか。

 

三島由紀夫さんの小説で、伴侶に見知らぬ男がぶつかってきて、「怪しからん」と述べるシーンで、これはほんとうに怪しからんと思っている訳ではなく、こういった状況ではこういう振る舞いをしなければいけない規範(のインストール)があるからだという話。なるほど。

 

ほんとに笑っているのではなく、笑う状況だから笑う規範的な笑顔だからかって。

でもこんなの充分社会的に素晴らしい振る舞い。他の人はもっと笑っていない。

 

まぁ、僕はもっと自然に笑っているだけ。

パートナーさんが不機嫌になっても笑っている不謹慎な振る舞いをしている。怒られるが、存在を否定するような怒気はないから問題ない。

 

笑顔はある意味無防備だから、人はあんまり外では笑わない。

 

そろそろ哲学パートに行かないと時間がない。

明日は昨日より2時間早起き。

 

準備していた発想は置いて、規範についての発想。

自分の感情に対しても因果的な規範で生きてないか。試験に落ちたら落ち込まないといけないし、結婚したら喜ばないといけないし、人が亡くなったら悲しまないといけない。

 

別にイベント的なものは日常においてそんなに回数もないから規範的な感情で生きても生活の外だから良い。問題は日常的に在る限定された場において、場の感情に同調しないといけないという規範。学校ってごった煮の人達が詰め込まれてヒエラルキー上位の人が感情も既定する。これが社会の縮図だと倣うから、感情が儀式的な領域になってしまう。自分の意識ではコントロールできないものであるという神性。

 

これはオトナの世界にも当然あって、負の感情を他人に投げつけても良いという人も居る。

個人的には人をきちんと褒められるようになるのが正常な人格形成だと思うが、あらを指摘できるのが大人の嗜みみたいな風潮な感じがどうも子供オトナ感がある。

 

もっと世界は褒め合うべき。ただ、これも場に対する安心になるのだろうか。

褒めらたからこのままで良いなんてことはない。僕はこの意味で承認されるとここで良いのかというブレーキ感があってちょっと嫌だった。自分にとって貴方は効用があるよっていう褒められ方。効用的な褒めではなく、存在的な褒めなら問題ない。自分には効用ないけど、貴方がやっていることは素晴らしいという感じ。

 

安心、安全、快適の極致はユートピアであって、きっと人は自由であること求めない。

自由で在りたいと願う人が居たとして、その自由はほとんど自分の場を求めているから何もしなくて良いよっていうことを与えられるときっと恙なく一生を過ごせる。

 

自由には不安、危険、不快がセットというか、こういう感覚がないとこの概念はありえない。

山登りなんて危険だからユートピアではアウト。もの書きはこういう感覚に聡いと思うのだが、表現することに制限がないから緩いのか。

 

いろいろ中がもぞもぞしているがここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。