知ったこっちゃない

 

 

 

なんだか生身が物寂しい1日。人間だもの。

 

 

日記を書きながら思い出していた田園風景をベースにした夢の光景はとても綺麗だった。俯瞰的なシーンから部屋の中に戻り、父親の妹が嫁いだ家をベースにしていた。ファミコンがあったし、迷宮のようだったし、従弟も叔母叔父も皆優しかった。母親が父親の親戚嫌いだったからあんまり数回しか行ったことないのではという感じだった。雨が降っていて、見上げると一部ガラス張りで、雨粒で景色の歪みが移り変わるのを楽しむ。

 

そうして、何故か学校を休んでいて、夢の中でも1人自分は感情が薄いのではないかと悶々としている。そうすると、従弟に飼い猫である「小春」を大事に想っているだろう、だったら薄いことはないと諭された。ちなみに小春という名の猫は飼ったことがないし、夢の中でも登場しなかった。語感的には白猫だが、なんとなく黒猫のような気もする。

 

夢の言語的スケッチは色鉛筆で世界を描き起こすことと似ているのかも。まだ色鉛筆はやってないが、一応生活の中でこれを描いたらどういう画になるだろうというイメージトレーニングをしている。ただ、そのまま在るように描ける気がしないという近似。

 

そんなこと言い出すと日記もそういうことになるが、もともと無いものを描くパートについては問題ない。

 

さておき。

 

日に日に1日に読む文字量が増えている気がする。日記の2000字前後縛りも、私信をしばらく送らない縛りも決めたことではなく合わせたことだろうとうっちゃる。あと、僕が想定する一般的語彙の中で書くという自分ルールも廃止されてきている模様。読めなくてもイメージで読み流すが吉。

 

本日の日常。

 

起床からまとわりついて生身の寂しさは、宵顔さんとの現実的交わりがないということによりそう(私信で夢の中で撫でたいとか書いたから)。寂しく想える人が居ることは良きこと。

 

昼休み。空中庭園のベンチが空いていなかったため、大理石でできたオブジェに座ってお弁当。いつものお弁当画像に日の丸ご飯が写っているのはそのため。それよりも、道中の公園の草が刈られていてすっきりしていた。丈が高い花、黄色くて葉っぱがユキノシタのよう、は残されていて、雑草と花の境界は存在感としての花感なのかなとか。「雑草という草はないのです」(昭和天皇が言ったらしい、バイ「植物図鑑」)。もう1つの公園は秋桜とか見知らぬカラフルな花々が植わっていてそれも良いが、僕はなんでもない自然に咲いている花も好きだ。

 

仕事場での女子トーク。先輩男子との雑談よりあまり聞きたくないかもしれない。主人公感が凄いのは話者なのだから良いが、人を下げ過ぎではという感。今の客は云々と粗を述べることと、プライベートとして語られる彼氏が等価っぽいのもなんとも。

 

これが何故嫌なのかというのは、僕がそういう風に語られている現実を見たからではない。1回出くわしたことあったか。生まれて初めてアルバイトをした焼き肉店。なんとも劣悪な職場だった。ともかく、僕が嫌なのは、誰かを下げるようなことを語る人はどれだけ現実に愛想が良くても、裏で何を言われているか分からないということ。ここに合わさないようにしたければという銘。

 

ではここで語られている母親はというと、どうなのだろうな。もはやあまり興味がないというのはあるのだが、やはり人でなしでは。たぶんそうではない、はず。制限をかける文脈で人を捉えるのが駄目だけ。

 

辻村さんの本を読了して、若干こういうのが認識された。

 

なかなかのバッドエンド。合わせ鏡のような登場人物。貴方は私が居ないところで私を笑い者にしていたんですよね、と主人公は言われるのだが、主人公の中にはほとんど残ってない。なにせ自分劇場の中で皆が攻撃して良い対象としてしか人は在らんから。逆襲として、なんでそんな心無いことをできるのだと、えんえんと詰められた後、取材をして、記事にしようとしたら、成功者側から記事化するのを拒否される。

 

こんなのいじめじゃないって心の中で呟くのだが、読者側からすれば、それが貴方のやったことですよね溜飲が下がりそう。たぶんここまで読んでスカッとしてしまうのが良い。

 

ただ、もう少し深読みすると、合わせ鏡になって、ではこの成功者はなんで主人公にそんな扱いをしたのだという話になる。メンタルが安定していると自分で述べる時点で不安定だし、個人的に主人公に恨みが継続していないとここまではしないのでは、という小学生の世界を知らない状態での排除よりよほど闇が深い。

 

となってくると、言葉が本心で語られているというのは、社交でもプライベートでも無いのではという深みに陥る。主人公側がてきとーに発話を扱っていることは語られているのだが、だからと言って成功者側がそうであるとは限らない。

 

言葉はいつも嘘を孕んでいるという椎名さんの「ありあまる富」が思い出される。

 

最後の辺りに、主人公は屈辱がふつふつしてくるのだが、屈辱という感情が起こるということは、まだ相手を自分と等価未満に捉えている。いや、以下なのか。とすればやっと等価に捉えられたのか。

 

なんだかいろいろスッキリさせてくれる本。

 

相手の自分の見えないところで笑われている自分を何故気にするのか。鏡的には自分が相手のことを悪く言っている、ないし想っているから。僕も我知らず相手を傷つけていることは当然あるから、恨まれているに違いない。

 

私信で想いだすのが、パートナーが居る宵顔さんに対して僕が好意を送ったことについて、パートナーさんと笑い者にされるのは嫌だなとなったこと。感じではそんなことないから送っているのだが、僕が収集した経験則がそういうこともあると断定してくる。

 

そもそも、誰も傷つけないように生きることはできないし、自分が知らないところで笑われるかもしれないのも然りだが、もっとそもそも人はそれほど自分と関係していない人を気にしていない。時系列を遡ったら関係人数が少ないから恨みつらみの刻印があるかもしれないが、遡れば遡るほど、人は環境ないし社会そのものになるような気がする。

 

ということで、僕としては、相手のプライベートの中でどう捉えられているかは知らん、とすることにした。僕か相手に影響悪そうだったら関わらないようにするが、勝手に生きるし勝手に祈るし、勝手に気になることで良い。

 

結局人は自分の上限でしか相手を観測できないし、敵と設定することも必然ではなく任意。

敵にされたら面倒なので離脱する。

 

この世界がどうであるか論はもっと言語化がありそうなのだが、そんなことより僕の話。ここでは我が話者。

 

今になった仮説として、僕は都度の人達に合わせてきただけで、自分の存在を全然欠損させてこなかった。どう考えても、自分と現実的に無関係の人を大事に想ったり祈ったりするような環境はなかったし。僕のこれは別に同情とか気の毒とかいった、自分の感情がボランタリー的に満足されるものではない。

 

宵顔さんは好きな人、わんさんはお友達、蓉さんはちょっと妹的な可愛らしさ(拒否されそう)。ここに昔のインターネット世界の人も連なるのだが、きっと僕の存在残っているだろうなという感じ。

 

こんなの原始キリスト教原始仏教も書いてない。

 

そもそも人は何かで欠けるような存在としてできてない、という存在論がある模様。

時間という指標も外付けだから、僕を読んで無駄にさせてしまうという観念がおこがましい。

 

僕は現実的な関係には重きは置かないが、僕をどのように捉えてくれているかは重いから、指標が違うのだと思われる。現実的な関係の重さは、義務がほとんどであって、義務の中の任意は見つけにくい。在るのは知っている。

 

要は、人は自分にとって効用があるようなものしか捉えなくて良いという社会全体からの教育に洗脳されることができなかったということ。

 

どうせなら、これで行けるところまで。

 

嘘を孕ませない言葉を扱う。

これどうやれば良いのだろうな(やりがい)。

 

はい、ここまで。

また明日。

 

おやすみなさい。

 

みんな幸せでありますように。