無頓着

 

 

 

継続は執着でも習慣でもなく、意思の連続によるもの。

 

 

わちゃわちゃというかイチャイチャというか、そんな夢が続く。黒髪のギャル(?)と致し始めるときは僕は相手役だったのだが、始まりだけで、その後は俯瞰というか具体的なシーンはすっ飛ばし、最終的にはギャル目線になっていた。

 

「査定(比較)と自分を開示しない交合は詰まらない」

どんな教訓なのだと思ったが色々と想い当たることはある。やっと自分に戻ってきているのだから。

 

 

目を覚まし。あれ、もう木曜日なのかとなる。どこかに曜日を1つ落っことした気分。しかし、お弁当のセーブポイントを辿り、月曜日のメインは豚肉と厚揚げとピーマンと人参のマーラージャン、火曜日は鶏肉とピーマンとキャベツのウスターソース、水曜日は鶏肉と茄子とキャベツの味噌炒め煮、あぁちゃんと生きていた。本日は豚ロースと玉ねぎとキャベツにするつもりだったが、えのきが悪くなっていたからキャベツの代わりに加えてすき焼き風にした。

 

仕事では席替えがあり先輩男子の席に活動的な先輩女性が座り、また雑談を聞き流す日々になりそう。女子トークが盛り上がる。お二方とも爪を綺麗に塗っている。外向きの自分に楽しんでいることは良きこと。

 

キルケゴールさんのいう「絶望」って、どうやら自分が自分自身であることに対するものらしい。支配者になれないことに絶望している人は、支配者になれなかった自分に絶望しているのだという例があった。僕は何かになりたいという切望はないから絶望をしようがないが、微睡んでいるときはこれが一生続くのかと絶望していた気がする。

 

女子トークをBGMに、仕事が暇だったからぼーっとしつつ漢字について思索する。

 

平家物語の冒頭の「ギオンショウジャ」ってどう書くのだっけとPCのメモ帳に打ってみるとすぐに出てくる。では「シャラソウジュ」は。音で覚えていたが、実際は沙羅双樹だった。書き起こしてみると、語感も韻も字面も練りに練られた完成度。祇園精舎のショウジャの音が沙羅双樹のソウジュ、次の盛者必衰のショウジャと繋がる。凄いな。まるまる覚えていた訳でもないが。

 

ここから漢字ブームが巻き起こり、虫編の漢字、魚編とカタチと意味を楽しむ。蟻、蜂、虻、蚊、蝶、鰈、鮃、鯛、鰆、鱈、、、。と、実物とメモ帳で変換される漢字を繋げていくと、虹だけ仲間外れなような。虫にまつわる意味がどこから来ているのだろう。今調べると、龍が空に昇る像になぞらえて、大蛇の「蛇」から来ているのだとか。蛇って見れば読めるが、虫編の漢字が当てられる虫という連想では出てこなかったな。爬虫類、あ、虫が付いてらぁ。

 

戻ってきた自分という文脈。

 

僕は漢字がお勉強になる前の最初はとても好きだった。小・中の漢字テストはほぼ無敵。語源とかは習わないからただのカタチと捉えていた。高校で出てきた漢字のカタチで好きなのは吝嗇(りんしょく)。意味としてはケチとか倹約家という大したものではないのだが、今となっては清廉な感じが合って好きだったのだろうな。

 

この辺りからやり直しをしなければならない。

 

小学校の学習が良かったのは順位が付かなかったこと。中学校からいきなり順位が付いてそのまま続けられなくなった。他人なぞどうでも良いという程には僕はまだ僕ではなかったらしい。ぼーっとしていて、実際ぼーっとしている僕が高得点を取り続けていることに対して、他人から自分はきちんと努力しているのに不公平という評価が投げられる。

 

言語化するとかなり高慢なのだが、当時の僕はきっと逆になんで分からないのだろうと不思議に思っていた節がある。教科書読んだらだいたい分かるだろうって。誰かと比べて自分が優位に立てる、価値がより高くなるという概念もないからただただ委縮することになった。そうか、普通は分からないものなのかという学習。

 

中学時代は毎日学校行きたくなかったな。今から見れば意識的に寝たふりしていた。野球部の空気も嫌だったし、自分を流す。成績が良かったというだけでスコアラーに当てられた。高校受験の面接時に、「字は上手くなったと思います」というネタにはなったが(実際今も全然上手くなってない。

 

高校時代はより査定の世界。微睡みの中の英単語テストは苦行だった。部活は楽しかったな。硬式テニス部で、顧問に考えながら動いていると言われた。実感としては考えているという意識はなかったのだが。

 

昔語りは別に過去の栄光でもなく、やり方を間違ってきたなというところ。

 

良いオトナが机上の勉強を語るべきではなく、実践が問題だというのは分かるのだが、新しいことをするにしろ何にしろ、もともとを辿らないといけないと思う。

 

勉強って、努力とか、目的に向けて時間をかけるという常識があるが、だからできなかったのだよな。負け惜しみでもなく、今のすっきりした世界の景色はそういうところから離れて世界を味わって良いとなったから。ここまで戻るには1人になる必要があったのはしょうがない。

 

世界観を構築される最初に、人は自己観を形成する。その自己観は、自分にとって効用があるかどうか。勉強しても意味がないとなるのは最初の諦め。そんなことよりコミュ力とかコネとかが大事だろうみたいな。

 

僕はそもそも世界をそういう風に捉えてなかった。

自分にとってどうかを問題しだしたのは後付けの学習されたものであって、この世界観は割と地獄だと思う。いや、それで良い人を否定している訳ではない。と、いちいち注釈が必要になってくる。

 

6歳までの環境がよほど良かったのか、再インストールしたのかは知らないが、僕は誰かよりなにがしかではなく、僕が僕であることに意識できるようになっている。今更高校数学をやり直しているのは、僕にとっての効用ではなく、数学が世界をどのように捉えていることを読みたいだけ。ある意味無関係。

 

世界は自分と連動してないのだよな。それが真理だとなると世界がどう見えるかは自分次第でしかない。

 

人って相対的に世界を捉えるから、僕という同じ時空で生きていない存在は刺激が強いのかもしれない。常識人だから外から見たときは一般人だが。

 

同じ時空というのは、別にSF的な話ではなく、常識で良い。

僕ももちろん三次元の世界で生きているし、それがないと思索空間もないのは知っている。ただ、どこに重きを置くかというだけ。

 

法律談義だと、僕は法律を争いのためにできたものと捉えてない。むしろ争わないで済むように創られたルールの方が量的には圧倒的で、ただ意識されないから意識された時にだけ認識できるという文脈で争いの種みたいに見えるだけ。

 

争いと言えば、「人は争うように遺伝子に刻印されている」というインストール理論も個人的には嘘だと思っている。脳的に劣っているとされるボノボですら争いをセックスで回避するし、狂暴とされているヒヒのコミュニティも、狂暴な雄が食中毒で亡くなったら協力的になったらしいし。

 

個人的に言えば、僕の実家ってかなり家庭も親戚関係も不和で争いが絶えなかったのだが、僕はその渦中に自分を置いていない。怒りは発するべきではないという感覚はこの闘争の反面教師みたいな影響があるかもしれないが、この自分は誰にも倣っていない気がする。一応インストールの根はおばあちゃんとかあるが、僕は裏で悪いことを言うみたいな一般論にも従っていない。

 

僕の内心は裏表なく書く。

 

裏があるとすれば、情報として伝えるべきではないというところだけで、それで僕が優位になるとかはない。

 

どうでも良いが、宵顔さんへの私信をしばらく止めようかとなった。

僕の継続が当人にとってどういう影響だったのは定かではないが、宵顔さんの世界観の中で、何も返さないで済むということは楽なだけかもしれないなと。楽である世界は楽しくない。

 

うん、僕がカウンセリングを必要としなかったのはこういうことなのか。

誰の中にも居なくても自分だけで確立できている。

 

はい、おやすみなさい。

 

楽しく生きていますように。