ぶっちゃけ

 

 

 

昨日の日記は何故か誤字が多い。直した。

 

 

さて。時々読んでいるブログで、世界には2つの種類の人間が共存しているという話があった。関心と無関心。この分け方はとても面白いと思った。関心は誰にでもあるだろうけど、自分の世界を拡げることに対する関心があるかどうかで分けられている、情報収集を越えた、生き方の収集みたいなこと。作者さんが体が弱くて西洋医学からそれ以外の方向性を選んだら体調がよくなったみたいなことが1例だから、僕としてはちょっと物足りない分け方ではあるのだけど。

 

あとは、口に入れる物への無関心という話もあったな。純粋な「梅干し」が普通のスーパーで買えないのは異常ではないかというような。確かに生粋の梅干しは美味しい。混じり気のない酸っぱさ。おばあちゃん印の小梅干しほんと好き。

 

ただ、人工甘味料とか科学的調味料は、食材ではなくご飯の安定的供給という社会的メリットがあるから一概に悪いことでもないと思う。家事としての調理時間を短縮するという意味では、洗濯板から洗濯機への遷移とあまり変わらない。その時間を何に使うかということにはなるだろうけど、ただ健康とか考えるなら、そういうサービスを外注すれば良い。

 

純粋な野菜かどうかも形で判断しているだけだから何がほんとかは分からない訳で。調味料もそう。どこまでにするかと決めるだけの話。突き詰めるなら、自分が全部1から作るしかないけどそんな時間は現代人にはないはず。

 

手料理が良いって簡単に言える人は、あんまり自分で作ったことがない人だろうし、しんどいけど作るなんてしなくて良いと思う。30年前だったら無理だったかもしれないけど、今の総菜レベルはかなり高いし。しんどいけど作っていた母親のおにぎりはだからやたら固かったのか。僕は人に要望をあまりしない人だけどおにぎりじゃなくてふりかけご飯が良いって言ってしまった幼少期。運動会のお弁当のサンドイッチは美味しかった。

 

普通に他人に労力を要求できる人って、かなりサイコパスに近いと思うけど、おそらくこっちの方が多勢だろうなという気もする。

 

そういえば、某法律事務所の面接のときに趣味は料理にして素材の味を生かすと言ったら、採用された後にてきとーに話題にされたことを思い出した。ほんとうに知りたくないなら聞くなよって。そんなぼんやりした質問では僕もてきとーにしか答えられない。これを弁護士がやるのだから。今思えばなかなかモラハラの職場だったな。まぁ良いや。

 

 

逆方向のサイコパス方面で想うところは、母親は子供に愛情はかけてなかったけど、労力はかけてくれていたのだろうなというところ。家族と仲良くできない不器用さ。ここに対してはなんとも言えない気分がある。

 

だから僕も自然な情愛が分からないのはしょうがない。自分と密接に関係している人にしか情が浮かばないって、なんだか変だ。という方向性へ。

 

ここの統合が難しいんだよな。別に失調症ではないけど。

 

人間とは未知なるもの(本)で、知的活動と、宗教的活動ないし道徳的活動と、身体的活動が連動してないと進歩しないみたいな話があった。納得できる部分もあり、人間はそんなもんじゃないだろうという部分もあり。

 

まず、僕は人の知性とか理性はあんまり信じていない。別に人の存在として至高の物ではないし、この文脈って、社会的合理性だろうなと。知恵もそう。社会的時系列で正答を出せるという方向性だから、純粋な頭の活動とは違う。もちろんこれも大事だとは思うけれど、別に人の本質ではない。その人が社会的世界の枠の中で決めたものだから、自分で決めたものではない。

 

身体的活動はたしかに本質に近い。根本的に言ったら視力が世界の見え方を決めているし、精神は体調に依る。あと誰かさんにとっては外気温で精神活動が決まるとか。だから、物理的世界を、自分の主軸に据えるというのは分かるし、普通はそう。

 

いや、どうなのだろう。自分の肉の枠が当人の精神とズレているような人もちらちら見受けられるところ。自分の存在と一致するように適切な枠に収めるべきだと思う。太りやすいとかは知らんけど、自分の体を物理的に制御できる範疇でって。制御と言えば歩き方でつま先がハの字で歩くのって何脚なのだったけ。人の歩き方って観測したら面白い。波さんの歩き方を観測する場は今のところないから、情報が足りない。О脚ってつま先は内向きだっけ。

 

何処か架空のところで手を繋ぎながら散歩したら癒されるだろうなという空想。現実で触れるのは禁忌だ。当たり前のこと。存在が電脳世界から物理に繋がっているのも。仮想だけで続けられるのは、大人のご都合主義よね。

 

 

残りの道徳と宗教だけど、これは人の過渡期の規範だと思う。これは別に最上ではない。だって、自分がどうであるかしか見ていない。自分が救われるための価値観でしかない。社会で自分を捉えるならこれで良いという気もするけど、そもそも宗教から離れた現代人が道徳的にまともになったかって、そんなことはない。

 

道徳って、僕の時代は、自分より劣っているカテゴリーに対して同情しましょうっていう感じだった。今はどうなのだろう。

 

道徳の極致は、自罰的なものではなく、単に自分と他人を切り離してみて他人の幸せにほっこりできることだと思う。これができないのもなんとなく分かる。悲しさなんていくらでも同情できるから。

 

関係において必要なのは、繋がりではなくて切り離しであるというのは面白いところ。

 

 

僕はそろそろこの場で書くのは収めようと思うのだけど、それでも接したいと思って居るのかなという問い。自分の場の範疇だから接してくれたのかね。もっと接したいということであればだけど、たぶんない。

 

あくまで、受動性ではなくて自動性の話。

 

グリーはおしまい。

 

ちゃんと固有に自分を見ている人しか観測する意味はないと思ったので、曖昧に接するのは余剰よねと。誰でも良いと把握している人と接する暇はない。読みたいだけならはてなへ。

 

等価的な接触なら僕には要らない。誰でも交換できる存在観には付き合ってられない。

 

という文脈で波さんと現実的に接したとき、おかしくて困る。解釈ができない。

そんなに嬉しそうに笑ってくれたら、ここを前提とするしかないじゃないって。

 

 

まぁなんでも良いけど、僕は交信の積み木なんてどうでも良くて、どこにその人の本質があるかしか読んでなくて、電脳世界では誰も本質は見せてくれないよなというだけ。

 

では、さようなら。

 

皆が幸せでありますように。