ぽんごり

 

 

 

本日のリクエストは鯖缶と筍水煮の炊き込みご飯、及び豚汁。なかなか食材に互換性がある2品。炊き込みご飯には舞茸、椎茸、こんにゃく、生姜の細切り、豚汁は小松菜、もやし、ぶなしめじ、人参にした。作り方を見なくてもアレンジできるのが料理の知識であると定義するのはやや無茶か。レシピを見れば雰囲気で再現できるのが知識くらいで良さげ。

 

豚汁を調べていると、普通の味噌汁みたいにまずだし汁を沸騰させてそこに食材を入れるというレシピと、いやいや、豚汁はまず食材をごま油でじっくり炒めてだしを出すのだというレシピがあった。おそらくどちらの作り方でも豚汁という完成品はできる。ただ、個人的には後者の作り方をした方が美味しい豚汁っぽい気がする。手順が増えるのは味を向上する意味であればやぶさかではないし。レンチンと茹でと完成型が変わらないのであれば明らかに前者を選ぶのだが、豚汁ってたぶん時短で作るような料理ではない。いや、やろうとすれば、細かく食材をレンチンして短縮するのはできそう。手順は増えるけども、時間は短くなるという感じ。

 

鍋で作った炊き込みご飯を蒸らしていて、混ぜてきた。柔らかくなり過ぎたかと思ったらちょうどよい。ほとんどタブーの炊いている最中にスプーン3杯分水を減らしたのが良かった。学習作用。

 

料理と言えば、お母様の梅干しやらなんやらをいただいてきた中に、生姜の佃煮というのがあった。味付けがとても実家と近い。いや、こんなの単純な味覚しかない子供では美味しさの深みが分からない。もう少し世の中を学習すると単純な美味しさとは別に、濃く味付けするのは保存食という向きもあったのだろうなという世俗史も味わえる。調味料の原初はきっと趣味ではなく生存のためだったろうし。

 

生姜の佃煮は味を追求した料理ではないのだが、生姜の細切りの幅が一定過ぎて、器用だわということを評した(すき焼きの白菜の切り方は雑いということは言わなかったが、ざく切りに等間隔は必要ない)。器用さが服飾関係になっているのはきっと才能なのだろうなと他人事ながら想う。僕は器用さというギフトはいただけなかった個体。練度が高い領域でだけやや器用に見えるだけ。まぁ、ある程度まではどこでも通用するということで言えば器用貧乏ではある。

 

という意味では、僕は内心状態の自己を自己と定義していないとも言える。まだ何がこの社会でできるか分かっていないのは、社会というものが分かって居ないからとも言えるし、社会って更新していくし、昔の社会の全貌も分からないから結局一生社会のことは分からない。

 

この文脈で言うと、次のお仕事は全くやったことないことに従事してそこから影響されて持ち帰ってくるというのが在りうる。愛知県に多い工場系はやったことがあるからスルーして、閉じた感じの介護もスルー。新規開拓ではない営業系が面白いかもしれない。車の運転をしなきゃならなくなるが、免許を取れている以上、問題は若干しかない。教習所で練習できるとお母様に聞いたから少し練習すればなんとかなる。隣に満月さんとか弟勇者を乗っけたら色々文句を言われそう。

 

どれだけ運転年数が長くても、技術とは別に当人の本質がある。僕はなるべくGがないように運転しするようにしたいと思っているが、我が方の母親は子供達を運んでいたところから離れて数年後に帰ったときに乗ると随分と粗くなっていた。もちろん、ペーパードライバーの僕がこれが今できることはないけども、少し修練すればきっとできうる。

 

車の運転をするにおいて本質的な問題は夜いつまでにどれくらいの酒量で収めたら次の日客観的に飲酒運転にならないのかというところ。飲酒運転をする気はないが、主観的に寝て起きたらそれで良い訳はないし、主観的に抜けていたとしても検知されたらどうしようもない。体温計と同じように呼気検査できるものさしって市販されているのか。

 

 

やれやれ。

 

 

そういえば、昨日書かなかったのは、精神的にまぁまぁやばかったから。眠くて仕方がない。実家に帰った時と同じ心情。発話ができないし、言葉も書けない。

 

いや、別にこの心情でも単に生きることは可能だし、楽しい舞台の幕の為に生き永らえるという感じになる。どこから影響されたのかは知らないが、これこそがHPSの本領だとは思う。影響を受けすぎるのは上手く使えば梯子になるが、負に影響されると井戸の底で誰も居なくなる。

 

こういう影響の受け方が論理的ではないから変に影響受けやすいって認定がされている。いや、しているだけかもしらん。

 

僕の場合は世界観がまんま合わされているから学習できるでしかない。

味付けとか好きな食材とか、相手にとってどんな自分が心地良いかみたいな。

 

ここはそりゃそうだ。宗教で言えば修行して自分を高めるみたいな工程を誰かと関係することでやっている。譲れない自分なんて言語化できるところには存在していなさそう。ここの文章が好かれないのは、同情を求めていないから。好いている人はだいぶやべぇ(褒め言葉)。

 

そもそもの傾向として、誰かに好かれる為にとくに生きていなかったというのがある。なのに好かれるみたいな唯我独尊的カリスマはなく、単に、相手にとって、自分が固有として見られているというだけ。

 

変な話、恋人を作るとか友達を作るみたいな感覚が分からない。

これって要は劇場的に役割をあてがうみたいな感覚であって、互換性があるということ。僕は卒業したのだが、満月さんはまぁまぁ互換性的言語を発する。分からんでもないけど、その次元だったら、人のことはまるっきり信じられない。ここでいう信じるは、信仰対象ではなく、自分の存在として影響されるかどうか。僕に影響されるような人とは生きていけそうとは思っているのだが、これは願い過ぎかもしれない。

 

 

色々面白いことはリアルタイムである。

 

 

社会学者さんが書いた本の中に村上さんが出てきたのが面白い。ディズニーランドと類似するという切り取り方なんとも社会学的。というか、社会学の切り口でなければここを同類項として切り口ができない。

 

僕はこういうテーマパークにおける非現実感をそこまで求めていないけども、ワンダーランドを貫徹しているところは面白いと思う。持ち込み弁当禁止とか、色々禁則はありそうだけど、要は、非現実を楽しむテーマパークとして一種のバーチャル空間であるというところ。現実に体を持って行ける場所だけど、そんなに現実ではないという感じの空気感が好きな人が行くところ。大人でも行けるワンダーランド。

 

(僕はお金をあえて払ってそんな世界に行くほど現実に困っていないから、テーマパークに魅力を感じない。世界が楽しませようとしているところに馴染みたくないし)

 

 

ここと村上さんの「世界の終わりとハードボイルドワンダーワンド」を繋げる社会学者さん、やばし。

 

視点としてはある意味文学より真理に近そうな感は無くもない。村上さん自体が社会にとってどうかとは別に、村上さんが創造した世界はある意味ディズニーランドちっくというという意味合い。まぁ、遊べるような場ではないけども、現実ではないところに存在しうる感じ。

 

この面白さって、読んだ人にもだいたい通じない気がする。

意見が割れるような本が良い。正しさでしか読めないのはつまらん。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。