節々の痛み

 

 

 

問答無用の筋肉痛。肩回りとか腕も含めて満遍なく。歩行は全身を使うらしい。「痛み」ついては面白い話があるが、また後で。

 

そういえば、昨日の日記には書いてないことがたくさんある。視覚とか聴覚についてはまあまあ書いたが、嗅覚とか触覚とか。

 

草の匂い。草刈り後の草の匂いって新鮮というか香ばしい。摩擦で焼けるのか断面から漏れているのか。有機肥料っぽい畑の臭さも懐かしかった。そうしてほぼ夜の帰り道、民家の横を通ると食卓の匂いがした。草の感触は、まあ物だ。それより坂道を登っているとき、重力って概念なのだろうが生身としては感触的なものよなと感じた。

 

自然は好きだが、愛しているはないな。綺麗に調えられてない完全な自然は割とグロい。湿気が多い階段をよく見るとダンゴムシ蓮コラ風にうじゃうじゃしていて、うえぇって思いつつ、これどこかの時系列で見た図だなとも感じる。石を持ち上げた時のやつ。田舎は虫とか野生動物が多いから、そういうのが当たり前なんよな。大発生したイモムシの死骸だらけの道路で通学するとか。あいつ、触ったら頭をぶんぶん振りだして、緑の体液を巻き散らかす。緑はグロいが今考えると葉っぱしか食べてないだからそうなるわな。これで考えると赤もグロいかも。

 

では、知を愛しているのかというとそうでもないかもしれない。哲学も1つの解釈の道筋という距離感。僕はもっとカタチになっていない(誰かの)何かという存在を愛していそう。

 

あと、世界観って時間の捉え方もあるが、不便さをどこまで許容できるかという軸もあるな。世界にはいくらでも不便があると知っていることと、何処までなら生活できるかとは全然違う。これは空間上の世界線か。でも強制的にそうなったらそこに順応するしかないという線もある。

 

さておき。

 

ギシギシ鳴りそうな体で目覚め、味付けが塩と鰹節だけの雑炊を作った。具はしいたけ、ひらたけ、キャベツ。小鉢に梅干し、塩昆布、らっきょうを載せて、味の変化も楽しむ。体が思い通り動かず卵を1個床に落として駄目にした。酷使し過ぎてすまんやで。食に対するもったいなさみたいなのはなくなったな。体に無理やり入れなきゃならないと思って食材は買ってないし、これと自然愛は全然別のことだと思う。

 

どうでも良いが、久々にプリンを食べた。コンビニのカラメルソースが別についている何処かのホテルが監修しているもの。めっちゃ美味しかった。だからこそ、生活的に食べるものではないなと思う。ついでにご褒美的にも。

 

なんだっけ。あぁそうそう。夕方の買い出しの時、時間について割と具体的に考えていたのだった。時間を矢印のように一方通行のものとして解釈することは、色々都合が良かったのだろうなということ。このキリスト教的時間を日本が採り入れたのも最近だろうし。まぁ日本の世代的な考え方とも一致するが、世代的考え方って儒教由来ではないか(想像)。

 

時間を過ぎ去ったものとしないと、不都合なの個人の内部にもある。好きな人が変わることを過去として切り離さないとしっくりこないとか、情報として日単位で区切らないと意識で処理し切れないとか。

 

時間とはあくまで便宜的な基準でしかない。確かに社会的な暦は便利だからそれを使うのは問題ないが、それを自分の時間とする必要もない。相対性理論は凄い発見なのだろうが、時間の捉え方をより素朴に寄せたということなのかも。

 

時間が基準だから僕はタイムマシンの存在はあんまり信じていないが、逆にこの次元の解釈に過ぎないとすれば、なにか方法があるのかもしれないという気もする。

 

普通の語用として、人は時間を恣意的に伸縮させて使っているよな。

 

人類的に見ても年数が増えることにより進歩したということになっていないようだし。昨日自然の中で過ごして感じたのは、時間は世界の動きを観測するための区切りで、進んでいるとするのは人間がそういう風にしか認識できないからだろうなと思う。人間の意識に時間はないという独自説はあり、時間はアプリオリだというカントさんの説に反対したいところ。

 

結局のところ、解釈のカタログは当人が生きやすいようにすれば良い。

 

生きにくいのであれば、解釈のカタログを選び間違っているのではという感じ。具体例がないと分からないと思うから、僕の話。

 

僕は、高次元とか壁の話を読んでいて、ずっと感じていた違和感が解けた感じがある。意識がこの肉体を選んで生まれてきたんだという言は個人的にはやっぱり遊び場なんやなという感じと一致した。これを過去世と呼ぶかはともかく、人って全く同じ環境で育っていても違うことを志向する訳で、職業のカタログがだいたい満遍なくなるとかほんと不思議だと思っていた。何か決めていることがあるんだろうなって。僕はこういうのが全くなかったから、小学生時にはパイロットになりたいとか言っていたし、大学志望も、文学部とか経済学部とか文系で選択できるところ満遍なく選んでいた。

 

選んできたというと、運命論とか輪廻論とかになるが、こっちの方が時間が一直線という捉え方より自然ぽい。何より、選んだということに重きを置く僕としては、生まれも自分が選んだという解釈は動きやすくなる。

 

あと、壁とは、「自分が理想としている像」と現在のギャップだっていう話があったのだが、僕は、自分の中で理想としている像なんてもともと持ち合わせてなかった。そういうものがあるものなのだって無理やりしようとしたことは埃だった。

 

そういう意味で皆壁を感じているのかって。

 

今やなんであんなにしんどく思っていたのかも分からないが、僕の原罪論は、生きているだけで申し訳ないというところにあった。壁とか不都合とか以前の問題。

 

もともと楽しんで生きていて、ただ、こう生きているだけで僕に対して劣等感を抱く人が居る。最初の人は姉で、年長という立場を使って僕をなるべく押さえつけるようにする。僕が居なければこういう風になることもなかったとまで言語化できては居なかったが、僕はこの辺りからうすーく生きようとしたのだと思う。

 

あんまり好きに生きちゃいけないのだろうなというのが罪悪感。

 

もうこういうのはすっきりさっぱりなくなってしまった。これは、誰かが自分の挙動に傷付いたとしても、それは傷付く種がその人の中にあるからだという言による。悪意は別として、たしかに、どれだけ相手の地雷を想像して先に除去しようとしても僕はその人ではないから全部は不可能。

 

こういう知見はもともとあった。なんか社会的な人間関係の建前に振り回されたなという感じ。

 

18歳くらいのときかな、人と人のやり取りって、中に入り込むことではなくて、お互いの中間領域、箱庭というか中立地帯みたいな空間の中で起こるものなのだろうなというイメージができた。これにずっと従えていたらもろもろなかっただろうが、まぁ良い。

 

なんだか、一番長く過ごした恋人さんが、私がしたいだろうことを僕の選択に加味しないでって言ったことの意味が今更実感された。確かに、どれだけ想っていても相手の中は相手の問題であって、僕にどうにかできる領域ではない。

 

見える分余計なノイズがあったのだろうな。結果的に離れてしまったが、離れてしまって良かったと思う。上手く生きてればいいと思うし、肉体的な意味を除けば今でも好きではある。

 

ちょっと離れて。

 

知っていることと使えることの溝。知っていることの量は僕の時系列でそんなに変わらない気がする。名前を知っていることなぞ、特に何の意味もない。それを使って考えられるようになること。

 

例えば民主主義ってオトナなら誰でも知っているだろう言葉だろうが、この中身を把握している人はどれくらいだろう。多数決とかで留まっているのであれば、そんなの小学生でも知っている。

 

僕はこういう名前だけでは納得できない。今日はなんで国家が国民に刑罰を下せるかということを考えていた。これって漠然とした善悪論じゃなくて、もっと現実的な観念なんだなと。社会契約によって国民は統治権を国家に委譲する。その対価として、国家にには国民の法益(人権)を守る義務が生じる。この義務の行使として、国民の法益を害する行為を罰する権限があるとされる。善悪ではなくて、現実的な契約論。

 

と解釈できると色々すっきりした。

 

憎しみは自分の中の何かを憎んでいるというのも分かる。自分の中にあるものしか見えないのが人だもの。

 

正義はあくまで社会的なものでしかない。個人的な正義でも社会に認められなければそれは不正でしかない。不正は不和になるから、自分の中に不正があるのであれば、個人的にも不和が生じる。

 

罪悪感を抱きなさいというのも、そういう風潮による。

 

なんだか色々どうでも良くなったというのはこの辺りで、僕の存在で誰かが良くも悪くも波紋があってもどうでも良い。嬉しく思うも思わないも僕の自由。

 

劣等感とか羨望を抱かれるようなルックスも頭も持ち合わせていないし、そんなこと関係なかった。

 

ただ、人は時系列上で、必要な人と出会うという解釈はありきだと思う。よくもわるくも。

それが残るかどうか別にして。

 

もっと笑える人だと言ってくれた予言通りに笑って、なんなら踊って過ごしているし、相手のことは相手の問題とできるようになった。

 

気になるのは、どうしてその相手にできなかったのかだが、そこまで必要ではなかったのかも知れない。

 

あぁ痛みの話、忘れていた。

 

痛みは芸術の本質だとか、痛みによって喪失した自己を同一化させるという話。

 

確かに、痛みって自分の体と意識を調律させるもの。自傷癖の人は割とフェチだったのだが、これってプリンと似ている。あるいは風邪を引かないと自分の体が意識と別物だと気づけないとか。

 

僕は割と鬱っている時でも、自分を傷つけることは無かった。いや、精神攻撃はあったか。過度の飲酒とか。でも、そんなことでは一致はない。

 

なんで罪悪感が消し去られたかというと、よく分からない。顕在意識で理解していても潜在意識が納得しないとフィードバックはない訳で。

 

ここで、精神分析の話。

 

どこで読んだのかは忘れたが、自分が死にたいという観念を、他人に受け入れて貰うということで掬われるという話があった。サンプルが1つだけあればそれでいい。

 

 

ここまで。

 

僕がこれを書いているのも、読んでいるのもなんかの意味はあるだろうな。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い現実を。