無重力

 

 

 

今朝はかなり精神的に引きこもっていると観測された通勤時間。可能性と未来の現実化について、未来の可能の数を思考で増やせば増やすほど、それ以外が起こった時の現実は狭まる。だいたい思ったことって起こらないしな、とかぐるぐると。

 

実際の現実ではとても元気だった。そういえば、昨日の帰り際声の調子が悪そうだった最遅番の先輩が案の定体調不良で休みで、急遽30分残業になったのだけど。疲れるという概念がない。ちゃんと寝ているし、中と外が分けられているからなのか、そういった単語も自分の中に浮かばない。遅刻という言葉もなくなった。

 

 

さておき。

 

「思考の地図」ではなく、「思考地図」だった。立ち読みだと物足りないからさっさと買うか。研究者という職業は95%が読書だというフレーズがあり、なかなか魅力的。僕は自分のことも世界のことも研究しているのかもしれない。ただの野良研究者なので何処にも効用はないけれど、読むことは一生やめられないだろうな。

 

読むことと見ること違いって、主観的なのか客観的なのかにあるのかもしれない。読むは自分との相関で、見ることはあくまで確立した自己から世界を眺める視点。でも記録になると意志を介在させるだろうし、本質は対象によって自分が変化というか揺れるかどうかなのかも。いや、揺れている気もする。なんだろうな。

 

引きこもり精神での思考として、「人は素である必要はあるのか」という命題について考えた。素でなくても生活が良好で安定していれば問題はなかろうなという一般論から、僕は素で在るほうがとても元気で楽だと思う。

 

寂しいとか切ないとか嬉しいとかかわえぇとか、自分の感情の機微を観測できるのはある意味では煩わしいことかもしれないけど、個人的にはちゃんと素を捉えていると感じる。一般的な状況設定における語義ではなくて、これしか言葉があてられない感情。ほんとひどいときは何も感じないから。20代のほとんどそんな感じだったのではという感じ。診断受けたら鬱だったのじゃないかなと思えるくらい。お酒を飲みすぎて平気で遅刻するとかやっていた。自分と世界の間に膜があって相手が何を言っているか、言語的には分かるけど意味が分からないみたいな。

 

この文脈において、喜怒哀楽を現実化できることが素かというとちょっと疑問ではある。自然と出てしまうというのも分かるけど、たぶん感情自体には操作性はなくてもそれを世界に開くかどうかには操作性があるしおそらく完璧にコントロールできる範疇のものでは。寂しさは仕方がないけど、寂しいと実際に対象に言語化するかどうかは別問題。

 

僕の素はあんまり悲観野郎ではないらしく、未来においてどう遊ぼうかみたいなことを考えるみたい。ほんとは有用性とか効果とか知ったことではないらしいし。というのは自己観測からの抽出。例えば人は何も義務がないときには怠けるというのは枷でしかなくて、怠けるか怠けないかも自由よなとか、努力には意志が必要だとか、継続には理由があるとか、そんな一般論はどうでも良い。

 

何かが現実化されるのは確かに原因があるのかもしれないけど、今まで世界を観測した限り言語で表現できるものではないと思う。これと同列で、言語化された自他の性質も足りてないと読む。たぶん無意識では共有されていて、例えば履歴書に手書きを求める文化とかどれだけ丁寧に書いたかでどれだけの熱度で志望しているかを推論する間接証拠にしているのだろうな。言葉だけなんて誰も読んでいない。

 

 

という文脈で、「ロミオとジュリエット」。演劇とはこれなのか、無茶苦茶面白くなってきた。舞台と自分は別の世界だと思わせて、暗喩を通して観劇者を揺らがせる。「どうしてあなたはロミオなの」という有名な台詞は流石に知っていたけど、仇敵の家系に生まれたことを嘆いているのは読んで知った。その後の「バラは名前がなくなっても薫りは同じだ」という台詞と連動させると、社会的記号としての呼び名と実体は乖離していることを無意識に響かせるのだろう。当時の社会状況は知らないけど、貴族はあっただろうし社会的な名に縛られて人生を過ごした人はいっぱいいるはず。

 

これは別に昔の話でもない。実名を外に向けても大事だと思う人はいるし、苗字が変わることでアイデンティティを喪失したと思う人も居る。名前は記号だけではなく社会的な評価とか意味も付属していると見れば、貴族があった時代とそんなに変わらない。○○家が固有名詞になっただけ。

 

ここまでくると僕は好きな人と恋人になりたい訳ではないと分かる。

パートナーも嫌かもしれない。

 

僕は自分の名前のカタチは凄く好きだけど、社会的に呼ばれる名前が変わったとしても自分の中の名前が変わる訳でもないから、特に頓着はない。なんなら社会において正解の音で読んでくれる人の方が少ないし。中の名前と外から呼ばれる名前は別に連動させなくて良いのでは。自分の中では主語は要らないし。

 

頓着と言えば、仏教。脳は私ではないの中でかみ砕いて書かれていた。人が苦しいのは「渇愛」によるから、良いことがあればあるほどもっと良いことを欲するし、悪いことがあればそれがないことを欲する。苦しみから逃れるためには、「経験したいこと」ではなく「今何を経験しているか」を見ることで、そうなるためには修行が必要らしい。良いことも悪いこともそのものと捉える。はて、僕は修行をした覚えはないけどなんだかそうなっているな。

 

もちろん仏教徒ではないから、自分を絞る修行をすることで苦しみから解放されるというアプローチは取っていない。哲学とか他のところを読んで、自分の中にある当たり前を更新させてきただけ。「脳は私ではない」は見解を更新させそうな感じ。イデア論デカルトさんも、人の認識は個人の中にしかないということだけど、もっと客観的世界があるのではないかという一般化。僕は世界がどう見えるか個別的だとしているけど、その主観の対象になる前のものは客観的だということが書かれていそう。

 

要は、僕は自己認識として更新不可能な部分を決めていないから、本を読んでもいちいち驚けるし、知らなかったことは全然恥ではない。自分を自分で決めなくても勝手に自分だし。まぁ決めないといけない感覚も分かるのだけど。決めてないと不安だろうし、未知未知の世界において自分すら未知とか大変だ。

 

次の試行としては、未来とか世界でも遊ぶだな。

 

でも、他人の世界線に越境するのは不謹慎な気もする。

いやしかし(葛藤)。

 

まぁなんとでもなるか。世界には収束性があるだろうし。

 

 

おしまい。

 

おやすみなさい。