非現実

 

 

本日は中日なのであまり緩まないように過ごした。朝は30円くらいそば麺でなんの工夫もないかけそば。昼は豚肉とキャベツを炒めて中濃ソースで味付けしてマヨネーズをちょっとだけかけた豚丼と、おかずで残っていたもやしと竹輪のナムルとラッキョウ5粒。信ぴょう性の為に画像を撮ることが一瞬よぎったけども味噌汁も作らなかったし面倒になってやめた。

 

夜は、ほうれん草と竹輪のゴママヨ和えと、ささみと玉ねぎの生姜焼き。こういう何も考えずにできるようになったことは「行い」と言えるのか。

 

さておき。

 

昨日の自分の日記と最後の恋文を読み返したのだけど天邪鬼というか、自分に喜劇の主人公性を感じる。悲劇でではなく。ベルグソンさんの笑いは難しくてあまり言語化できるまで落とし込んでいないのだけど、喜劇における笑いのメカニズムは当人が大真面目だけど社会的に見れば的外れみたいなところ。ドン・キホーテみたいな。

 

言葉に化体された感情ってやはり他人事みたいに見える。これで個人的には既に喜劇。そうして日記でのズレは、前半で言葉は大事ではないと言いながら最終的に言葉を求めているという矛盾。まぁ言葉が「行い」だとすれば分からんでもないが、読むことだって行いだろうに。だとすれば、言葉による評価を真実とできるわけなぞない。

 

矛盾と言えば、同じ事実が昨日のより前の日記では好意の理由になっている。期待・嫌悪・反発なく自分が見られるというのは、今読んでいる新刊枠で出てきて、そうだなと感じたフレーズ。で、昨日は逆に至っているみたいだけどこれも本当の気持ちである。根が同じところから別の結論に至るということは普通にありうるし、根本的に相反している訳ではない。

 

となると、てきとーな意志で見るのはやめてくれという訴えは天邪鬼になる。なぜかというと、そういう風に見られていることが分かったらとっくにこれは終わっているから。だから、ほんとうは、「てきとーな意志で観測されていることを表して欲しい」という訴えなのだろうな。僕は諦めたい。望みが叶わないからではなく、いまがとても心地良くでそんなの僕の中の世界でしかないということ知らしめて欲しいということ。

 

そもそも昨日の日記を書いていた時に頭の中にあったのは、今まで反発・嫌悪が起こりそうな言葉をいっぱい投げてきたのに、この人はなんで変わらないのだろうという解釈し切れない表象だった。これが言語化されてアレになるとは、なかなかひねくれた回路としか言いようがない。

 

寂し悲しはあるとしても、何か起こったらそれがどうにかなるようなものではないのに。これが絶対なのか相対なのかは分からないが。

 

そういえば、ベルグソンさんの本の中で、人は自分の感情を外展的にしか見ていないというのがあった。同一条件下で同一の感情が生まれるという上澄み。なるほど、だから共感されるし共感できるものだと思えるのか。僕の感情は僕のモノなので、誰にも自分事とされたくない。こういう共通項を自分の軸に置くってある意味大変なような気がするけどどうなのだろう。感情ってほぼほぼ一過性のモノだと思うのだけど、鮮度が大事なのか。

 

まぁでも、僕が日記でやっているようなことは本来外に出さずに取りまとめてのちに外に出すべきことだとは思う。それを取り出して自分で解剖するって、ある意味自己観の解体というか分散というか。非言語が人の本質でどれだけ言語化しても侵されないと思っているから問題はないけれど。

 

これはから自分に振ってくる言葉も当人の「行い」の一部でしかないということになる。好きな人だけにバグるのはしょうがない。どんな言葉でも無条件に嬉しいから。これが「いい加減迷惑です」だったとしても、やっと言ってくれたかになりそう。被虐嗜好っぽいが、どうしても時間の流れ的に僕の日記と恋文を読むのはやめた方が良いのではっていつも思っている。もっと生活として時間を流していく層で生きたそうに見えなくもなく。フロムさんの「生きるということ」でいうおそらく持つ様式の人生。ほとんどの人がこっちだと思うし。ほんとに僕が居て大丈夫か、みたいな。

 

やっぱり買うのか。

 

ともあれ。

 

本日はペルソナ2の実況動画見ながらのべ4時間くらい専門書を読んでいた。もっと時間かけられるはずだけど、職場の最寄駅でPythonでゲームを創る本が気になって別の本屋に行ってみたり、そこで判例付き小6法の最新版を買ったりしていたり、言えないことをしたりしていたもので。

 

こう、ぼんやり読むようにした方が、あとあと頭に残っている気がする。風景と似ている。夕ご飯の買い出しピークよりちょっと前に出たけど、やたらと人が多かった。あとはまだら模様のイチョウを通り過ぎまで眺めたり、ささみの生肉が悪くなるのもお構いなしで近所の古書店に行って、紐に繋がっていない犬(犬種分からないけどモフモフして小さい)を見かけつつ、入り口でなんか人多し別に家に本あるしなと踵を返したりして。

 

知覚の本と繋げると、ビジュアルイメージで残さないのようにするのは確かに大人の省エネだと思った。この再現は別に現実ではないけど、慣れないと煩わしい。子供ってよくぼーっとしているという固定観念でもなく僕がそうで、むしろ今でもそうかもしれないのは、現実とは別に鮮明な像を見ているような感じ。

 

素面でも(むしろ素面の方が)、人の話聞いてないよねという言われたシーンがいくらでもある。聞いているとは思うのだけど、会話でなくなったら聞いてない気もする。誰でも良いから話したいになったらとか、色々考えられるけど、せめて近い人とは毛づくろいじゃない会話したいのかな。知らんけど。

 

なんかズレたな。

 

知覚の本で見ると観るの違いの話があった。見る方にはバイアスがあるとかなんとか。僕はバイアスをなくして大丈夫かと思う感じはある。だってこれこそその人が培ってきた物ので見方でしょうと。ここを崩すことは物の見方だけで終わる訳がない。

 

で、シャーロックホームズが引き合いだされていた。読む前から階段の数で17段だろうなということは知っている。でも原作読んだ気がしないから、他の何かの小説で引用されたのかな。固有名詞で読まないとこういう不可解な現象が起こる。

 

でも、誰かに説明する必要がない以上これで良い。固有名詞を人に発話できなくなることが物忘れと捉えられるというのはある。アレとかコレとか関係代名詞(何か宛て字が違う気もする)でしか人と話せなくなる現象。だとすれば、僕もそう見えるに違いない。固有名詞なんて対象の1部でしかないのだから、それが言えたことで分かっているなんて言えないと思うけど。

 

ただ、言えたことが分かっているという風に観測されるというのはある。持つ様式的感覚っぽいけど。僕はそんな外展的なところで語られてもなんとも思わないけど。

 

やれやれ。

 

僕は人を見るときに、「行い」でも言葉でもないよく分からないところで人格を形成している。僕にとってどうであるかは関係なく、本当にそれで良いのかいな、それ貴方の本質ではないように見えるけどって。具体例を書くと特定できるからやめておくけど、だいたいそういう風に見ている。

 

ただ、この像って何も現実的な証拠もない。もちろん全く現実がないとそういうことは起こらないけど、言葉も現実だし、現実的なしぐさを知らなくても性質は観える。

 

好きな人を諦めたいのは、別に断られても好意は僕のモノであって関係があろうがなかろうが変わらないのに、意図的に現実的可能性を残しているところ。じゃないなそういう風に観えてしまうところ。もちろん知ることはないという前提ありきの話だけど、好きな人は無駄に近いんだよな。

 

現実ルートだとただの読み物でしかなのに、そうでもないように感じる。この感じが虚構でしかないですよって言われたいのかもしれない。

 

 

では、おやすみなさい。