タイミング

 

 

 

宇宙の果てはどの方向が近いのか。出勤中歩きながら意識を飛ばしてみる。なんとなく上空からが一番近そうな感じ。おそらく向きをどうしても距離は変わらない。宇宙の形にもよるが。上が近そうなのは地球の重力なのか、空間に対する固定観念なのか。地球を下に突き抜けるのが最も難しい。

 

これから仕事だというのに、意識で遊ぶ。

 

「時間の終わりまで」という本が、宇宙が時間的に終わるところを物理的に書いていて、空間方向でも時間方向でもスケールがとんでもない。こんな途方もない移ろいの中で、自分で在られて、かつ、特定の誰かが気になることができるという縁、それだけで充分奇跡でしかない。

 

さておき。

 

日記を書きながら音楽を聴いている。本日は、たまたま誰かさんのプロフィールで見かけた「plenty」。充分。ある人に教えてもらわなければたぶん縁がなかった。個人的には「人との距離のはかりかた」と、「あなたと過ごす日々に理由が必要になって」という歌詞から始まる歌が好きなのだが、タイトルが見つからない。あと、「窓枠に切り取られた景色眺めていると」で始まるのも好き。

 

固有名詞的に説明しようとすると、好きな歌手というカテゴリーの中に例示すれば良いのだけど、その説明に何か意味があるとは思えない。

 

ただ、こういうのも含め、外にはパッケージ的にしか表現せず、近くなった人にひっそり語るようなものなのかもしれない。僕の文章で語られていることとかも、書き過ぎなのかもしれない。現実世界で関わった人達は皆忙しいそうで、こういう遊び(有意義ではない)みたいなことを考えるということはそんなに聞きたくなさそうだった。思い込みかもしれない。

 

 

この文脈で、自分の言葉が汚いと思うことについて。僕も排泄物として捉えていたという話は書いたと思うが、排泄物というより、唾液みたいな感じなのかもと想った。唾液は口内にあるうちは何も意識されない。体外にある唾液って、どれだけ清潔が保たれていたとしても再び口に入れるのは気持ち悪い。少なくとも僕は無理。そんな感覚に近いのでは。

 

少し仕事の話。

 

対面の同い年の人が、「聞く人」が居ないとぼやく。女性上司が遅刻したのもあり、「使える人」が少なかったのだろう。聞くといっても要は判断を仰ぐくらいの意味であり、責任を負わなくて済むということ。仕事の駒としてはこちらの方が正当であって僕が文句を言うつもりもないが、仕事で人を使う人がプライベートでは人を使わないって無理なのではと想う。そんな切り替えスイッチがきちんとあるのは人間的という機械的

 

人は馴れるものであって、スイッチで意識的に切り替えられるようなことはない。できるのだったら怠惰に過ごしてしまった1日はありえないし、感情もスイッチで切り替えられるはず。

 

僕のことを使わない人が気になる。

 

 

ここで、本日の立ち読みで、教育論の話があった。難しいことを分かり易くするという風潮は知性を育まないという主張。確かに分かりやすいって、善悪、良し悪し、正誤、みたいな二元論になって、直感的に振り分けられるかどうかが問題になりそう。それを思考としているのであればやめた方が良いかもしれない。

 

固有名詞を知っていればそれが自分の中にあるという指標も暗記という分かりやすさの弊害かも。

 

分かり易く書くというのも、何か決めなきゃいけないみたいな風潮はありそうな。自分はなんとかであるとか、なんとかした何選とか、思考は現実化するとか。

 

自分が決まらないと書けないなんてこともないし、別に断定しなくても良いのではと勝手に思っている。

 

分かり易く書くということがこの文章において意識されているかは微妙だが、少なくとも自分の語用はなるべく呈示しているはず。ただ、1つの日記で完結している訳ではなく、動的な日常の移ろいだから、1つ読んでもあまり分からないだろうなという気もしないでもない。目次作ってなんとかできる領域でもないから、好きに読めばよろしかろうと、この辺りは手放し。

 

ダッシュボードを見るとなんだか読まれている回数が増えている。気になるところだが気にはしていない。価値はそれぞれだから、好きに読んだら良き。それぞれが任意で時間を作って読んでいる訳で、時間を奪っているという評価をするのはおこがましい。

 

ありがたいとかあんまり思わないのは、読んでいる人を単なる読者ではなく人として見ているから。あくまで対等な関係のない関係としております。読まれているからとて、自己承認の為に貴方を使わない。

 

やっとこさ本題。

 

感情とか記憶についての考察。

 

感情の具合で、想起されるエピソードって変わるし、何かを見たときに連想される物事があるのって何故なのだろうなというところから。

 

繋がるのが、ボルツマン脳の時間の終わりまでの時間の中ではたまたま粒子の配置が誰かの脳の中の思考と一致することが在りうるという話。

 

感情は必ずしも外界に左右されるものではないが、何か脳内のバイオリズムから作用している。本日は昔の感情が想起されていた。父親に対して社会規範上の反発をして、今の僕なら絶対やらんのにって。具体的には、父親がお小遣いをくれようとしたのだが、まぁこれは良いか。

 

記憶も別に昔の脳内粒子の配置を完全に再現している訳ではなく、何か近い配置があって初めて連動して再現されるのだろうなと。近いというより多いなのか。多いほど記憶が強化されるらしい。

 

個人的な辞書には「記憶」という言葉はない。時間的に昔のエピソードは外の物事ではないから。感情もほとんど放って置いている。(宵顔さんのことまだ好きなのかいなとか)。

 

自分だと思い込んでいる自己が脳内の電子(量子?)の配置でしかないとなると、自己観が揺らぐ人も居るかもしれない。僕としては、ここからさらに、この配置って思考で動かせるものなのかというのが気になる。

 

たぶん、動くのだろうなというのが実感。

思考の現実化はこういう文脈のことであって外の環境とはあんまり関係なさそう。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。