すまんやで

 

 

 

「高いところが苦手な人っているでしょう。あれは自分が落ちることまで想像しているの。」

小説、漫画で読んだのか、それともどこかで誰かが話していたのか、夢の中のことなのか。全然分からない。「あの日」の混沌性。

 

夢。どこかの崖で何か作業をしている。足がすくむ。どこからか「こちらの作業を手伝って」と言われ、そちらに行くと高所からは逃れるのだが声の主はいない。助けてくれたのは誰なのだろう。そうして次の幕。地下に何階も階段を下っている。階段のそこここに良く知らない人たちがたくさんいて、降り切ったところはそれはそれは広大な洞穴、東京ドーム何個分か分からない、もっともっと大きな空間。そこで昔の倉庫内作業のバイトをしていた頃の上司と逃亡中みたいに黒づくめのスーツの集団がたくさんのパイプ椅子を持って現れ、派遣作業員みたいな人達に、何か指示をしている。僕は遠目で段取りを眺めている。実際見たことがあるあの日。

 

その後はその広大な空間の中で歴代で僕がやってきたゲームが展開されていた。宇宙船とか諸々。で、最後は、遊園地の遊具のような1人用の飛行機で隊列を組んで、人命救助をしている。なかなか体感が激しい夢たち。

 

さておき。

 

目が覚めて、痕跡がなくて、やっぱりそうやろなと寂しくなりつつ、最後のnoteの更新を読む。パンフレットに文章あったのかと初めて分かり併せて読んだ。なにせやたらと暗かったもので。読み終わると、僕も僕の戦いをしなきゃと思い至る。

 

休憩時間に願書の請求の封筒をしたため(書き損じなく1発でできたのはなかなかやりおる)、本日火曜日含め、平日のご飯を作りだす前の1時間弱の可処分時間を使って、劇評を書いてみるという試行をすることにした。家の鍵の1つがどこに行ったか分からなかったため、40分くらいしかなかったが、850文字くらい書いた。真面目に必要なことだけを書けば2400文字でもある程度は表現できるかもしれない。ただ、これは劇評というより、劇を通した僕の物語でしかないような。随分と文体が柔らかいし、あんまり客観的な演出とか動きとかを気にしていない。素朴な文体だ。素朴な文体だと、固有名詞が雑いから、金曜日までの4時間弱で書き上げて、土曜の午前中に校正して送ってしまう。土曜の午後はゆっくりして、自分の戦い臨んでいこうかなという予定。

 

 

謎の人の最後の制作日誌に書かれているシーン。庭もカメラも全然覚えていなくて、あの日はなんと空白だらけなのだと絶望しながら出勤していた。だからそこにモニュメントを置くのかなんとか考えて、劇評のタイトルは、「穴ぼこだらけの「あの日」のすきまにモニュメントをお供えして」ということになった。我ながら意味が分からないが、勝手に出てきたのだから仕方がない。

 

もうちょっとで終わりなので、なるべく深く書いていきたいところ。

 

ということで、僕の中ではおそらく、言葉と人格に癒着がある。現実的な挙動としての発話にはあまり何も思わないが、言葉だけが存在している世界では誰もが剥き出しだろうという説。謎の人は言葉=理性だとしているから、理性で自由に選択できるのが言葉だけの世界であって、物体としての自分とは乖離しているということだと思う。

 

僕はそうは捉えていなくて、直感として好きな言い回しをする人は現実的にも好ましいし、やりとりでなんとなく僕にとって現実的にどうかが分かる。分かるというのは、発話は繕えるが、言葉自体はあんまり繕うことに慣れていないということから。繕う動機もほとんどないし。この、繕わなくて済む存在で居られる空間は僕にとって生息地であった。

 

ただ、謎の人は完全に分けてみているだろうなという言い回しなのだが、言葉がなくなった後で見るとほんとよく分からないところはある。一定の好意を感じる解釈もできるし、ただ自分への好意を返さなくても良いところで表現されるところを眺めるかという冷血漢的な解釈もできる。僕としては後者の解釈が正しくあって欲しいが、すんなり腑に落ちなかったりする。はたして僕は「知り合い」になれていたのだろうか。

 

現実世界でもそうなのかも。だいたい的外れというか期待値を越えられないのだが、それは相手が僕のことをあんまり見ていないというところに依りそう。いや、希望は提言すべきだし、希望に応えられなくても存在として承認するということであれば、あるいは。不都合でも問題ないという関係。

 

僕は人に何かを話したいという欲求はないのだが、ふとしたときに謎の人に僕の中にあるエピソードを語っている想定をしていることがある。日記には収まっていないところ。なんでだろうと思うと、やはり癒着し過ぎていたからに違いない。あくまで文字としての物体を伴わない存在として読むから器が大きいだけであって、認識がズレていたという解釈。大丈夫、いくら好きと言ったところで全く響いてはおられない。はず。

 

そう、この僕にとっての貴重な時空は、謎の人にとっては他人の中の1人がやたらと独り言を言っているだけという認識のズレで生まれただけだったのだろうな。だとしても僕は穴倉の中で勝手に癒されたから、穴倉から出て戦いをするという段階に至れた。出会えてよかったとか好きになって良かったとかは全く覆らない。

 

これを現実に向けるというのは今のところなく、このまま消えても人間は慣れるから多少寂しく感じたとしたもすぐ忘れてくれるだろうなと思うだけ。僕にとっては勝手に一生忘れられない価値はあった。

 

自分の側にいなくても想えるという感覚はなかなか学習できない。

 

とてもありがたい存在だったな。

 

では、おやすみなさい。