どこか

 

 

 

色の種類が多すぎる(歓喜)。目と足を酷使した1日。

 

5時前に遠足前のワクワク感で目が覚め一通りルートを調べ、寝ようと思ったら隣の洗濯機が回りだす。別に良いけどこの睡眠時間じゃもたないだろうなと無理やり寝て、アラームなしで8時半に目が覚める。

 

ちくわと大根の味噌汁、梅干、焼き海苔、目玉焼きの朝ごはん。和食ばっかり作るから飽きるのか。ともあれ、目覚ましにシャワーを浴びて髪をセットして、仕事よりも時間をかけて身支度。京都は寒いだろうと思って薄手のニットの上に冬用のアウターを羽織ったけど、京阪電車に乗った時点で暑い。到着した三条駅でもなんなら半そでの薄手のシャツの人も居て、ニット単体で十分だった。

 

そして、上着はバッグに仕舞いまずは平安神宮に遠目からご挨拶。良い天気でありがとうございます。なんだか文学フリマも思い出した。現代美術館に行ってみて、学芸員(合ってる?)の方にふらっと寄ったのですが、どうしたら良いですかって聞き、とりあえず無料の展示スペースだけ閲覧。デザインの人で、幾何学模様がポイントらしいけど、僕はお皿が好きだった。真っ白な皿に、群青色の花冠が落ちていくシーンが貼り付けられているもの。何を盛るのかは全く想定できないけど良いお皿だった。ということは皿の機能からは外れていないかという見解が出てくるけど、まぁ良いや。機能美のこと。

 

そういえば、ここ初見のつもりだったけど来たことあったわ。藤田嗣治展だったかな。直近の元恋人さんに連れられて。この人も凄かったな。

 

 

そうして、おとなしくバスに乗れば良いのに、ここからすべて徒歩。だって、街並みの景色が楽しいのだもの。小さな庭のスペースにごろごろとした松ぼっくりを配置している家主の意図とセンス。南天が庭に生えている家も多い。母屋の庭にもあった。きっと何か子孫繁栄とかの験があるのだろうな。

 

はい、糺の森に徒歩ワープ。人が少なくて良かった。この辺りから、日が落ちてきて光源の位置で陰影が変わる。僕としては、自然があるだけで良いからあれだけど、色づいた葉っぱの色の微妙な違いは言語では判別できないと思う。もちろん下鴨神社にはお祈りはしてない。やっぱり赤って強い色だ。

 

で、そこから京都御苑。ここには1人でしか行ってない。ほんと思い出諸々含めて好きな場所。演劇の時間つぶしにも使ったのだっけ。ここの広さがとても弛緩できて良い。好きな人の個人的なイメージにも近そうだけどさておき。

 

並木道どころではなく、守られて育った銀杏の壮大さ。遠目に見るとミルククラウンの瞬間写真みたいな非現実感を醸し出す。まっきっき。その色と紅葉の赤の共演は色情報が多すぎる。人口の映像作品より鮮やか。

 

そうして、写真を撮っている人達が歩き回って、一番良い構図はと探し回っているのもおかし。人に共有するためにはよりよくというのは分かる。目と写真が一致することはないから芸術足りうるのだと思うのだけど、目に一致させようとするのかな。

 

桜は花見なのに、なんで紅葉狩りなのだろう。自分にとって良いシーンを狩人するのか。

 

はい、僕の目。

完璧な美しさなんてどうでも良く、緑も好きだから、歩いている自分の位置の移動でそれぞれ美だった。視界を遊ばせたところ、好みの位置は外から見るのではなく幹のそばに立って上を見上げるところ。綺麗とかではないかもしれない。

 

綺麗と言えば、ほとんど緑だけど一部先っぽだけ赤く染まっているのも、なんだか照れているみたいで良いなって感じた。グラデーションが良いの。ついでに御苑にはこの時期に咲く桜のピンクも色もあって、ほんと色が多い。で、美とも色とも関係なく自分の目が焦点を置いた画像。紅葉の緑の葉の上に、それより高い木から落ちてきた枯れ葉が点々被さっている色合いが飾り付けみたいで面白い。

 

ここまでで足を酷使し過ぎて、疲労が凄かったのだけど、まだ行く先がある。空想的デートだということも含め。丸善で本を買う。買いたいと思っている本はほとんど揃う。ついでに勘が働き、このビルにはきっと無印もあるとなりエスカレーターを上がるとほんとにあった。ただ、背負うバックの緑の色合いがもう一声だったから断念。ネタバレすると丸善の休憩スペースで座っている女性が無印の紙袋持っていたから、近くにある、だったら、ここかもしれないという推測でしかない。当たるも八卦

 

総括すると、全く空想的デートではなく、単に僕がしたいことをしただけのルート。もちろんこれが本当の自分のことを好きでないけど僕が好きな人とのデートだったら、もっと綿密にするだろうけど、そもそも現実的にどうかを主軸としている人とはあんまりデートできないかもしれないという気分。

 

好きな人で言えば、一回ご飯でも食べれば、現実的所作としての情報はなんとなく収集できるだろうし、僕が現実的にどういう風に観られているかも収集できるけど、これって僕がほんとうに知りたいことなのだろうかとか。

 

 

僕の収集した情報での好きな人と今日の僕がデートしたら、きっとむすっとされるに違いない(それもかわえぇ)。移動はちゃんとバスないしタクシーにしたとしても。ただ、昼ご飯をどこで食べるかインスピレーションに任せていたら食べるところがなくなって、コンビニでサラダ巻きと照り焼きチキン串とビールを買って河原で食べるには付き合ってくれそう。

 

あと、想定された情報だと、あまり暇に任せて自然を観測するためだけに行動するといった行動規範がないように思う。何かの目的のついでに自然があるというような文脈。ただこれって生活圏で暇に生きている人が居なかっただけで、自然美自体は好きそう。書くしかなかったのかな。

 

 

やれやれ。

 

そうこう考えていくうち、オリジナルの自分とは何ぞやというアイデンティティの崩壊みたいな論考になってくる。

 

憤怒氏の話って、「おやすみなさい」の中にある脳内JKしかり、諸々の読んで来たものが下敷きにされていると思ったとき、自分の人格において模倣ではない部分なんて一滴くらいだろうなと。

 

だって、そもそも模倣がないと人格がないもの。

 

誰かの模倣から人格を自律することは、生活を自立するより大変。

 

だいたいの人は、模倣を正当としてそのままなぞって生きている。正解があるという価値観がそれ。正解ってどこから持ってきたのですかって聞いてみたことはない。

 

例えば、自分の正解。何かをしようと思うと、実際にどうなったかの齟齬があったとき、どちらが正解なの。言文一致という時代があったけど、思現一致しないのは自分ではないっていう価値観でも良いと思うけど。

 

甘やしている自分を自分としてもいいのか。

 

あぁそうそう。僕の人格において模倣っぽいところはだいたい解析されている。煙草の銘柄は本の師匠が吸ってたやつだし、僕が書いている語彙は好きな人に寄っている。でも、模倣ではない自分が見込まれるから、僕は僕で居られる。この文章で書ききれないくらいのことは毎日無意識が考えている。

 

1つの指標としては、自分の価値を考えたとき、誰かとか年代でとかが入ってくるかどうかよな。

 

僕はそんなこと知ったことではないので、いつか好きな人をハグできるかということが現実的にありうるかみたいな妄想をしている。これって相手の既存の価値観ではありえないだろうなと。

 

僕は決められない限り決めない人。

 

 

おしまい。