くろすわーど

 

 

 

はい、今日もこんばんは。

 

3カ月以上放置しているブログが今月で100PVという通知が来た。なんぞこれ、読み返してもらっているのか。はて。分からないことは分からないままにしておくことにして、ただ僕の日記10単位で読んだら整合性取れていないに違いない。同じことを言い換えているという気もするが。懐かれているという説もある。

 

なんだか落ち着いてきた。

 

さておき。明日もまだ休み。

 

自分が作る和食に飽きてきたかもしれないということで、本日の朝食はカットトマト缶を主軸にしてリゾットにした。玉ねぎのみじん切りとキャベツの細ちぎりが具材で、味付けはコンソメ顆粒、ケチャップ、中濃ソース、牛乳、そうして粉チーズ。美味しかったのだけど、僕が飽きているのは自分の味付けという感じもする。休みの日のご飯の優先順位はとても低いし。仕事日だと日々が繋がっているから、お弁当を作ったってそんなに時間は変わらない。もともと食にこだわりがある訳でもなし。

 

どうでも良い話。ナンプレが一向に早くならない。ただ埋めていくでは駄目らしいから、構造で考えるべきか。1~9が入った9マスの正方形が1ブロック。この正方形が9個あり、どの縦横でも1回しか数字が使えないという条件で考えて、何マス埋まっていたら1意に確定できるか。こういうのが純粋に考えるということ。ただ、純粋に考えた先に何があるかというと、どうなのだろうとは思う。遊びでしかないと言うか、遊びが人生を形作るというか。

 

 

ともあれ。昨日の合理性の話は、もともと下敷きで考えていたことが前提になっていたから読みにくかったかもしれない。もともともは、人が物事を捉える基準とはなんぞやというテーマだった。全部言語で考えた訳でもなく、ぼやぼやした概念で考えるのだけど。

 

捉えることは解釈するに等しい。分かり易い評価値だと、正誤、善悪、好悪みたいな勧善懲悪の判断。学問が大学までで終わっている人は他の指標というものがないから、自分の経験則で集積したものを基準として物事を判断する。いや、これはあんまり高等教育を受けたかどうかには関係ないか。素朴な基準の為に学問を使う研究者も居るだろうし。ジェンダー論とかそんなイメージ。

 

で、ちゃんと何かの学問をやった人ないし在野で自分が正しい訳ではないと知った人の場合、基準が1つではなくなる。哲学だったらもう基準は人の数だけあるみたいなことになりそう。現代の哲学者の本って読んだことあったかな、分からない。

 

で、僕は法律学を一番読んできたのだけど、法律学のほんとはルールを押し付けることではなくて、そのルールの意味は「いまこの場で」どう確定できるかを追求することだから、既存のルールを正当化する言い訳をすることではない。大学時代に読んだ本で、法律の解釈とは、連作小説みたいなものだという例えはとても面白いなと思った。日本語的な言葉の意味と、時代で繋げてきたその言葉の意味の確定に辻褄が合っていないといけない。

 

あんまり専門的なところを書くつもりはない。これって人が未来を判断することにも通じているなというだけ。自分の今までの物語を覆す判断をするようなことがあれば、物語が崩壊してしまうという、保守的な思想。法律は人を殺しうる道具だから突飛な判断はできないけど、個人が突飛だとしても誰も殺さないから問題はない気がするけど、今までの自分が死んでしまうと思い込んでいるのかもしれない。

 

ただ、この自分が培ってきた物語、果たして正解なのか。別にもともとの性根って自分が決めてものではないし、最短距離が良いとは限らない。

 

僕の素朴な生活的判断だけど、駅からの最短距離は当然知っているし、そこを歩けば一番早いから仕事に使う道は決まっている。ただ、休みの日は面白そうなルートを選んでも良い。京都の格子状の道が生活圏にあったら滅茶苦茶楽しそう。

 

要は、健康、安定、効率、安心、みたいな魔法の言葉をちゃんと自分の判断基準にできているのかという話。普通の人だと当たり前すぎて見えないからあえて話すことはない。

 

僕の判断基準は、ほとんどがどうでも良い。判断は無意識の方が優秀だから意識的にどうこうみたいなことはセーブの方に係る。ちゃんと海鮮系ではイカが至上だとかいう基準はあるよ、もちろん。何かをあえて自分の意志が決めたという経験則がないだけ。もうはじめから決まっていたような感じがする。ナンプレみたいだ。今残っている人が何故残っているかが分からない。

 

自分に決めてって言われたことを全部スルーしてきたし。何が駄目だったのだろう。たぶん、あなたはこういう人だと決めてしまう基準があったからだろうな。どうでも良いけど好きだって言ってくれる人が良いっていう観念はとても正しかった。僕が相手を好きであるという観念はナンプレ的には一義ではない。特定の対象に対する好きは代替できないけど、別に僕の人生にとって必須ではない。当たり前、人を必須にして、その人が亡くなったら自分も無くなるなんてことはしない。

 

なんだか僕のネットの生息圏をちらっと覗いたら、魔女が居た。魔女は強欲だから、別にその人のことを想っていないのに、自分の範囲で居させるために蜜のような言葉を吐く。この魔女と個人的に話したこともあったのだけど、自分の為の誰かという基準ではあった。フロムさんの言で言うと、典型的な持つ人。たぶん物理的にも美人なのだろうけど、食指が向かなくなって足跡も付けない。

 

僕は自分の世界観に含まれない人に向くから、同じ人を見ていても観ている部分が違う。どちらが本質なのかは当人次第。春さんのことを忘れないのは、おそらく僕だけの語彙があったところ。まぁネット世界で忘れていない人もいっぱい居る。会って現実的な振る舞いを知りたかった人、いっぱいいっぱい。

 

ちょっと冷静になって。

 

マクベス読んでいると、演劇って、観察できる夢。夢は非現実でしょう、そうして、演劇も非現実。だから演劇は僕の中では夢の一種。夢の定義に寄りけりだろうけど。もっと言えば、現実の中にも夢の部分があるような。

 

そういえば、好きな人は文章では割と魔女っぽいのだけど、現実的には可愛い女の子という評価。ほんとこの可愛さはずるいわ。

 

では。

 

おやすみなさい。