ものがたる

 

 

虚構に虚構を積み上げて紡いだ物語は1つの事実で覆る。別にそれでよいけれど。

 

 

朝食はパスタにした。茹でて水を切ってバターとオリーブオイルで和えて味付け海苔をまぶしただけのズボラ飯。素材を食べる。昼もちゃんとご飯を炊いて、豚肉を解凍しながら酒、醤油、砂糖、チューブ生姜で下味をつけ、玉ねぎと一緒に炒めた豚丼

 

お風呂から出ると母親から不在着信。うーむ、週1発信が遅れ気味だったから仕方がない。と詰め詰めの時間に折り返した。電話とは人の時間を奪う利器だ。案の定感染数が増えたけど大丈夫かという話。テレビを見ないからてきとーに相槌を打っていたのだけど、話したい人には気づかれない。僕としては、いくら待っても収束することはないのだからカウントするのはやめて、個人個人がやれるだけやって自由にすればよい、という見解なのだけど、空気は読むから何も言わない。結局のところ、広い目で見て何を優先すべきかという価値判断の話だから、自分がどうのという話でもないのだよな。経済が回らないことによる死亡率の方が遥かに高いようなイメージだけど、それより感性数を抑えることが大事なのかという命題。文化が死ぬという可能性は現実化しつつありそう。僕は開催してくれるのであればどういう情勢になっても絶対行くが。だってその場その時間でしか観られないし。まぁ自粛になってもしょうがないけど。

 

時間を奪われていると分かりながら、思わず話を促してしまう自分よ。黙れば察して切るに違いないのに、なんか聞いてしまう。まぁ、通話しながら作業する仕事で培ったスキルで、ご飯に使ったフライパンを洗い、米をセットし、シャツにアイロンがけをしている途中で終わったから問題ない。昔だったらもっとイライラしてたいと思うけどどうしたのだろう。暇な時間の方が多いからかね。割と自分のこともよく分からない対象としている。

 

 

さておき。

 

落ち着いていると言いながら口説き文句っぽいものを書いている昨日の自分。まぁ正直であるということだけがここのルールだからしょうがない。

 

法律学はほんとめんどくさい奴だなと思っている。厳密な自分ルールがあって譲らない頑固者のようだ。ただ、読み解いていくと結構楽しい、というか分かり易いのだと思われる。まだその境地には至っていないけど、1つの対象としてはまた1段階面白くなってきた。

 

物語性のことを考える。あと、「からだ」。

 

人は自分の物語に不満があるのだろうかという問題提起から、「からだ」にはどうしもなく物語性が付与されているよなという論考。

 

僕は自分の「からだ」について絶対的な意味で不自由をあまり感じない。体力テストとか運動会とかがあった時代には、相対的に足りないなと感じていたし、その相対が絶対だと思ったり、それに恥ずかしくなったりしけど、今は穏やかだ。

 

「からだ」が宿す物語。体型も傾向としてはそうだろうし、あと傷痕。僕で言えば、太ももの火傷痕(たしかこたつでの低温火傷)とか、左足の内側の甲のちょっと下に、シャーペンが刺さった痕の黒点が残っている。細胞分裂しているのに着色が消えないってなんだと思ったけど、タトゥーも同じ原理なのか。

 

(某日記の中で、骨まで見える切り傷の断面から脂肪の粒を取り出すという描写があったのを思い出した。とにかくなまなましかった)

 

「からだ」の中で物語が最も宿るのは「かお」だろう。「かお」にはその人がどういう風に生きてきたのかとの物語が刻印されている。この「かお」は造形ではなく、表情とか顔付きといった、動きの中にあるもの。どういう表情をする人生を過ごしてきたかという今までの物語が集約されている。僕はあんまり表情筋を活躍させなくても生きてきたから無表情がデフォルトちっくだったけど、マスクのおかげで口角が上がることが増えた。あと、笑った時に皺が何重かできるのだけど、どれがほんとの皺かなと鏡を見るときに思う。たぶんだいたい愛想笑い皺な気が。ほんとの笑いは1人ときのが多いような。想い笑い皺。

 

そうして、夢と物語と演劇。演劇が夢のようだという話を昨日ちらっと書いたけど、夢の物語性って、自分の現実的な物語では起こらないこと、という前提があるのでは。夢日記とかは知らないけど、なんにせよ、自分が生きなければいけない物語の投影ではありそう。

 

小説も少なくとも2週間に1冊ペースで読んでいる。今日も1冊終わった。この人はそろそろお腹いっぱいかな。割と非現実的な話なのだけど、素朴に見れば現実的社会とそんなに変わらない。次の本は、このまえ京都に行くときに勝った宮下さんのパスタとかスープの話、宮下さんの根っこはあんまり見えないのだけど、文体が綺麗だと思う。

 

で、娯楽としての小説って、演劇、映画、なんならSNSと同じで、自分の物語ではない物語に移入するというところにある。好きな人が書いていた変身願望の亜流と感じる。たぶんそうやって、変身することでリフレッシュするという消費なのだろうな。移入せずに観る場合でも観る主体としての自分の物語の一部としてこういうのを読むのであればあまり変わらない。今の時代に合っていないとか、今の常識から外れているとかいう感想が浮かぶのがそれ。

 

こういうのって、自分の物語への不満の投影なのだろうなと思う。物語への批判って、なんの生産性もなくないか。だれかの性格とか性質への否定的評価が、当人がかわいそうな境遇だったから変わるのか。典型的には犯罪者か。

 

やれやれ。

 

ということで、僕は自分の物語性についても特に不満がない。いや同居人になりたいとか昔一番長く続いた恋人さんと再会して、縒りが戻るかどうかの時に恋人ができたって言われて、「その人は自分と近かった」って添い寝中に言われたときにうらやましいって反射的に言ってしまったけど、長い目で見れば違う。

 

結局は、他人の物語は他人のもので、自分のそれは自分のものという意識が必要だった。

 

この意識の効用は、母親との通話みたいに他人の物語を顧慮できない人はそういう風に世界を綴っているのだろうなと諦められること。人生を過ごすことを綴ると表するのはちょっと上等過ぎるかもしれない。綴ってはいない。

 

なので、僕は自分が好きな人も面白い人も、独立して想える。自分と直に接するかどうかは問題にならない。

 

という意味で人の物語を読みたいのか。

 

 

では、おやすみなさい。

 

良い夢を。