顔の話

 

 

方向性が定まらない感性に対しての可能は道を開くだけ。

否定はしない好きにさせる。他己像への自制は無い。

 

 

 

ホラーテイストの夢で始まる休み前の1日。

 

何処の森の一軒家に誰かと住んでいるのは良い。車が2台あったから道路はあるらしい。行ったこともなさそうな風景。それはともかく、何か車の中に居ると、中に居ることに気付かずに車中を覗いてうろつく子供達の顔。ガラス越しだがなんとも近い。相手からは僕のことが見えていない模様。

 

そこから走馬灯方式に知っている人やら知らない人の顔がたくさん出てくる。人の顔のスライドを見ていると、どんな表情であれ美醜であれ、止まった顔ってよくよく見ると気味が悪いものだという気分。二度寝時はもっと生々しい誰かの止まった顔に見られているという気配がした。目を開けると誰かの顔があるのではみたいな。

 

人間の顔は動いているから人間なのだよなという素朴。

空間を切り取る写真が魂を吸うという印象に至った導入期の印象も分かる。

 

僕も昔はプリクラとか付き合ったが、自分の顔が写真に撮られるというのはとても苦手だった。決め顔が静的にできないし、何か別人のように感じる。大学時代の心理学の授業で自画像を描いてくださいというがあって、僕は中の目が描けなかった。顔の造形を描けないのはナルシスト傾向があるという評価があったが、形に自信(確信)があるなら、描けるような気もするなーという感じで聞いていた。

 

最近は撮られても特に頓着はないというか、顔(マスク)がどうでも良いというかで、何で嫌だったのかというのもちょっと分かりみ。まず正面の二次元顔があんまり良くないというのもありつつ、この顔を存在の看板とは特に捉えてないというのもありそう。どれだけ(というほどでもないが)、顔の造形が良いと言われてもピンと来なかったのは、そんなところに存在の重心を置いていなかったという説。

 

別に僕のことを好きでもなさそうな、中学当時のヒエラルキー上位の女子の1人が、僕の顔は好みではなくて、委員長の顔の方が良いとか言われたことがよく分からなくて残っているし、この顔面については時系列の人が好き勝手言ってきた。看板に見合うメンタルではなかったという説もあるが、他己像で自分像を形成するのだったら、最初からもっとウェイウェイなっていたようなという疑義。

 

内心、この看板の良し悪しって結局のところファッションというか、流行でしかないという感覚があったのかも。顔に存在を乗っけると何か痛い目を見そうって。だから卒業アルバムとか、証明写真とか、免許の写真とか、社員証とか、だいたいやべぇ。笑

 

俯瞰視すると、この静的マスクの真骨頂はきっと横顔である。

まつ毛が生来ぼさぼさだし、横から見れば正面から見える鼻の穴が見えない。

 

軽口はほどほどにして。

 

人の顔が表現するのは造形の美醜みたいな記号的な意味ではない。芸能人ならのっぺら的な顔を表現することに傾注されるだろうけども、人の顔の意味って世界がどう見えているのか。看板なのではなく、人生劇場の結晶の表現体(文体と似た文脈)。

 

こういう意味で、決め顔ができないのは世界に対して緩んでいるからであって、だいたい笑って過ごしている(仕事中も)から、笑い皺の年輪が凄い。一昔前は眉間に皺が寄っていたりしたのだが、今や眉間はつんつるてん。どうやって寄せるのかも顔の筋肉を真ん中に寄せるようにしてやっと、みたいな。

 

 

言葉よりも顔付きの方が人格についての信ぴょう性になると思われる。

たぶん、人ってそういうものを感得しているだろうし。

 

人相占いみたいな話でもなく、ただの自分の顔の観測論。

僕の存在に嬉しくなる表情を浮かべてくれる人は嬉しいし、どれだけそういう風に振る舞っていても、そういう椅子なのかなという顔が見えてしまうと、

 

僕がこういうレーダーを感得した原初は母親のヒステリーだから、表情以前の話。見るに耐えないほど醜かったのも確か。造形には出なかったのだが、激昂したときはほんとに鬼みたいだった。

 

そんな家族生活の中で、笑い皺ばかり増えるメンタル、結構異星人レベルっぽい。

ストレス係数が高い私生活だったから、姉も妹も不具合が起きた。ちなみに、僕は家族について、情を感じない。それぞれ変人がたまたま家族という場に集まっただけなのかという解釈。家族関係からは離れるべき人達。

 

母親に対しては何故か僕の方がいまや優位気味になっている。心配だからなるべく連絡してくれるとありがたい所存ですみたいなことを普通に言われる。別に何もしていないし、激昂もしていないし、訥々と論理を語った訳でもないのに、どんな存在感だよ。

 

(ビールを飲み終わり、残しとけと言われた日本酒の最後の4㎝を飲む)

 

僕が本気で怒るなら激昂して嵐が過ぎ去れば凪ぎになるなんて表現はしない。

相手をコントロールしたいがためのものではないし。もちろん、そんなことはもう起こらないのだが。いや、相続問題で何か起こるかもしれないけども、どうだろう。

 

表現物にあくせくすること。

自分が書いた記事の読まれ具合に一喜一憂、もしくは影響を受けるって、これも写真のような時間が停止した存在の表現なのだろうな。その過去の自分を承認されることによって自分の存在の何が認証されるかもよく分からない。

 

かつて僕は文章でも認証されたりしたことがあったのだが、なんというか、そんな嬉しくない。恋人さんが名付けを間違えている宵伽さん(ほんとは宵顔さん)にも、僕が最初に観た演劇の日記について演出家が評価していると言われたのだが、僕としては演出家さんのこと知らんし、表現物を消費して生きている訳ではないから、表現者に対して存在を分けたリスペクトはしていない。

 

自分にできないことをやっているとか、世界外の凄さみたいな感覚はなくなっている。

このものさしは、関係を断絶する。

 

芸術作品は消費物であるというという風潮はともかく、ほんとは芸術って個人を動かすメディア。人格に影響される、ライブを聞いたり演劇を見たりした後に自分が動かないのは、芸術としてそれを捉えていないと言ってしまって良い。

 

素朴論としても、相手に影響されない関係は関係として破綻している。

自分の人生劇場に含まれる他人に影響されないって不感症なのでは。

 

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い幸せを。