おふれこ

 

 

 

本日はなんとも自分の声が軽かった。とんと自分の性質がよく分からない。昨日の自分は断捨離とか宣っていたが、そういう話でもなかろうよ。観ることは変わらない。である限り、変化の可能性は尽きない。良くも悪くも。変なの。

 

さておき。

 

アニメのサービスにやっとこさからくりサーカスが追加されたから第1話を鑑賞しながら書いている。漫画を読み込んだ層としては声とか絵とか違和感バリバリである。声のイメージが全然違う。絵が今風に綺麗になっているのとしろがねの声がやたらと高い。誰かと思ったらコナンの灰原ちゃんと同じ? しかし、全部を36話で収めるってかなり凄いな。編集者が何を中核としたかが気になるところ。

 

そういえば、この漫画って「笑い」が1つのテーマになっている。裏では「選択」だと見ながら思った。けどこちらは後で。

 

ちょうどベルグソンさんの「笑い」も2周目に入ったからこれについて書こうと思ったけど、喜劇論は自分の中で全然見解ができ上がっていない。理知と滑稽のちょうどいい狭間みたいなことを書いているのだけど、なかなかどうも。空白だという説の方が分かり易かった。この漫画だと、人の副交感神経を優位にさせることで症状が和らぐという病気があって、弛緩を笑いと捉えているような感じ。これは、この病原体(というかナノマシンみたいなやつだっけ)の製作者が人の笑いをそういう風にしか捉えられなかったという物語の中核にかかわる。

 

作者さんは喜劇論を凄く読んでそうである。今から思うと、サーカスという舞台と舞台の外という描写もあるし。観てくれる人が居るから演じることができるみたいな、観劇者によってキャラクターが決まる登場人物。「うしおととら」も遠野物語とか民族史とか読み込んでそうだな。

 

選択もきっと誰か個人の選択というより、もっと大きな演劇のような物語性のこと。

いやいや、あんまり深みで考えるのはまたにしよう。日記が書けなくなる。

 

日記といっても、別にイベント事がある訳でもない、同じ時間に起きて過ごして同じ時間にここに居るだけ。

 

そうそう、本日は、まずは自分がもっとちゃんとしようと思ったのだった。ちゃんとするの中身は、部屋を綺麗保つとかそういうのではなく、もっと自在に自分を生きること。考えることで展開する事項は突き詰めて、想うことで心が重くなるようなことは放っておいて、良いところだけ抽出する。笑いたいときにはしっかり笑う。怒りは基本的に無駄だから継続しない。基準をきちんと自分に標準を合わせる。そうか確か昨日寝る前に基準をどうのって考えていたらからか。

 

生活とか現実とかはいまだに良くわからないけど、すべては自分で判断することだと思っている暫定感。

 

例えば、漫画アプリは朝7時と夜7時で無料コインが復活する。朝7時はちょうど身支度中に読めるから読むけれど、夜7時はご飯を作る前の本を読んだりナンプレしたり(今日は最短時間を更新した)する時間だから、アプリの都合には合わせてあげないとか。

 

内と外の分け方をしっかりしようという修行。飲んだくれでも、仕事とか読書に支障がない限り許す。

 

新刊枠。宮下さんの料理描写、歴代最高に美味しそう。

 

でもなく、「暇」という概念ってやはり一般的語用としては、何もすることがないという意味なのだろうなという描写があった。まぁコップに半分水があることをどう捉えるかと類似しているけど、何もすることがないからそれをしているということは、他にも何かする選択肢がある中で、あえてそれをしているという自己判断があるのでは。僕の日記時間は、当然、ごろごろするとか、ぼーっとするとか、本を読むとか好きな人の日記を読み返すとか、なんなら夜のジョギングとか、膨大な選択肢の中から決めてやっている訳だけど、これは意志とか努力とか高尚なものでは全然ない。

 

ただ、自分がすることを決めている。だから、これが欠けたとしても僕の精神衛生が不調になるとかそんなことは全くないと思う。今まで、僕は書かずには居られない人だと捉えていたけど、これって、何かを続けるには相応の欲求があるはずだという一般的見解に寄っていた。

 

もしかしたら本を読むことすらこれなのかもしれない。

 

(やはりこの視点から見ると好きな人の僕の文章の読み方はちと継続的生活習慣からはずれているような気がするから気になってしまう)

 

要は、世界は継続でできている訳でも選択でできている訳でもなく、判断で構築されているという説。僕は人を巻き込む判断をするのは頗る苦手である。

 

選択と判断の違いは、あらかじめあるカタログから決めるのか、そのカタログの外にも何かあるなと現実化させること。選択は他責にし得るけど判断は自分の責任にしかできない。

 

カタログがどれだけ増えたところで自由にはなれても自在にはなれないのでなかろうか。

 

そう、恋文を送っていた判断は何か返って来るからではなかったけど、選択さえされないところで書いているのは余剰という説が浮かび、何かを解釈するときにはなるべくネガティブに依るから、内に秘めた方が良いだろうなという判断。別に気持ちが変わったとかではなく、言語化すると共有という意味が含まれてしまうから。

 

最後。

 

フロムさんの「愛ということ」の3周目読んでいたら、同一化の話で、創造的活動があるというフレーズがあった。創造の過程で素材と同一化して、その素材は自分の外にあるものとかなんとか。

 

この素材を「言葉」としてみたとき、僕は創造的活動をしているのかもしれない。正直には書いているけど、一応誰かが読めるために整えないといけないし。でも、自分の外にある言葉と自分が同一化したいと思うことはない。

 

同一化ってそんなに気持ち良いこと、というより、衝動すべきことなのかな。

 

ふふん。

 

いつものごとくお祈りしておやすみなさい。