なにをみているか

 

 

 

 

夜空がいちばん明るい帰り路、円形の光源をじっくり眺めるとうっすらと月虹が見える。月虹という言葉を三日前くらいに知った。響きがとても好き。月を一周する虹のことは当然知っていたけど、ちゃんと言葉が付いていること。虹の音読みは「コウ」なんだな。世界は知らないことで溢れている。

 

さておき。

 

特定のすっぴん眼鏡画像を保存するためだけにつぶやき場にアカウントを作り寝る前に眺めようと思い、フォトアプリを開くと消したはずの5年前のデート写真が出てきた。クラウドに保存されているのか。物より思い出派だから基本的に記録は残していないのだけど、たまたま行った場所がトリックアートの錯視の絵画が展示されているところだったから、色々撮っている。例えばこんなやつ。顔は今と全然変わってない。表情はどうだろう。

 

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なんだかぶわっと思い出しながら寝ると、変な夢をみた。この人自体が登場したわけではないけど、なんだか混とんとしていた。前半は父親が発狂して無理やり高校を休ませてくるのに反抗して森に逃げるみたいな。都合で休ませるような親じゃなくて良かったなと。後半は、この人らしき人を見かけてバスで追うという夢を見て、夢から覚めて実際そういうことになったのだけど、バスに乗り遅れて何故か友人が5、6人乗った車で追うことになり、携帯に架空の地理でこのバスの行先のメッセージが送って来られる。最終的に錯視みたいな居酒屋に辿りつき、やっぱり探してみると1人店を出て、結局見つかることはなかった。

 

共通項は、夢の中でも夢を見たこと。

 

 

芋ずる式に最初にしたデートのことも思い出した。もう10年ちょい前だから、もはや夢とあまり区別がつかない。顔もほとんど分からない状態で好きになって、1年ほどほとんど文字のみの交信が続き、告白して付き合うことになった初めてのデート。東京都だが区内ではなく市。真っ白いワンピースであった。イメージと違ったから僕の為に楚々にしてくれたのかとのちに直に聞いたけど、違うと言っていたな。何をしたのかは抜けているけど、夜には雨が降った。

 

いろいろありましたなぁという記録と、当時の感情の残滓でなかなかスクランブルされる。別にまだ好きかと問われても、いやそういうんじゃないなと思う訳だが、覚えているものはしょうがない。

 

僕が写真として記録しないのは、もしかしたらこの媒体が掘り返し力半端ないからかも。感情があの頃じゃないもの。結局うまくいかなかった事例を1つ積み重ねただけではある。幸せになってりゃいいが、大丈夫かしら。僕では大丈夫にしてあげられなかった。

 

 

そうして、新刊枠でフリーマーケットの場面があり、雨に降られて隣りに出店していた人とテントの中でぎゅうぎゅう詰めで雨宿りをしているとき、二度と会わないだろうけど楽しい、というフレーズがあって、また他のことを思い出した。

 

10年前から5年前の間くらいの時に、鳥取県の友人(全然連絡取らないけど唯一まだ友人枠)が結婚式をするということで招待してくれた。前日に前乗りしてビジネスホテルで泊まったのだけど、夜にふらっと出かけてバーを見つけて入った。1人かつ自分を知る人が居ない土地という条件が付くと滅茶苦茶活動的になる。

 

で、たまたま同じく1人で飲んでいる男の人が居て話しかけて、その場だけの交流があった。バーテンダーの勉強をしていて、このお店のマスターの技を盗むためだけに離島から船でこのお店にやってきているとか言っていたなぁ。もう顔も店の場所も覚えていないから、これこそ一期一会である。よくもまぁ覚えている。朝方まで飲んでちょっと寝て、式場に行ったのは良いけど黒の長靴下を持ってきたつもりが忘れていて、くるぶしソックスで裾を気にしながら、友人の上司とその場でちょっと仲良く話していた。あいにくからっと晴れてはいなくて、霧の中の光景だったけど、これはこれで幻想的。

 

ついでに、ゼミの同期の人が静岡で勤めている時に遊びにいってキャバクラに連れて行ってもらったときに、キャバ嬢の人生相談に乗っていたことも思い出した。これは中身もあんまり覚えていないけど、何か夢があるって言っていたような。

 

まぁどちらも僕の記録の中では事実だけど、これによって僕が変化したわけでもないし関係の継続になった訳でもないから、夢のようなもの。というのも、人って自分の中にある記憶を語るとき、自分に結びついたものしか話さないイメージがあるから。

 

僕にとっては近いからという条件だけで変化したり影響を受けたりすることはないし、影響があるから残っているということもないから、あんまり関係ない。

 

というよく分からないところで生きているけど、毎日楽しんでいる。記録の中で残っているものから抽出された要素としては、好意は造形と関係ないところで巻き起こるし、残されるのも僕にとって有用かどうかではなくて、きっとほんとに面白かったかどうか。

 

ルイージのコスプレをしてパーティーをしたことも思い出した。知らないお姉さんから握手を求められるくらいの完成度。白手袋越しだけど。あれってハロウィンだったのか、いや普通の人だったか。この関係を取り仕切っていた人が胴も好きでないから、朧気。

 

あと、歴代で僕と誰かをくっ付けようとしてくる人が時系列でそこそこ登場してくる。なんだったのだろう、アレ。ちなみにそれ通りにくっついたことは無い。めんどくせぇ。

 

なんだか色々やってきたのだなぁ。と今さながらに想う。

 

 

ともあれ、経験則はぶっ壊して世界に対してフラットであろうと試みている。という視点で見るとだいたい可愛く感じる。

 

可愛いという言葉も曲者で多義的だけど、愛玩的な道具性ではなくなんとなくいじらしさを感じてしまうところ。ざっくぅのようにぶにぶにしたいとかではなくて、まだ読みにきてくれるのか、なんなんだという出自不明な可愛げ。

 

あと、僕の文章読んでいる風に言葉を綴ってくれるところとか、なんなん可愛すぎるやろともだえる。もちろん、たまたまの一致もあるから完璧には悶えられないけど。

 

ということで、僕はあんまり意志的に自分に投げられた言葉だけを注視している感じがしない。意志的な言葉って変な話、虚飾が混じる。どう投げたいかというだけで投げまくれる人は変則的サイコパスで、普通は、投げたことによって自分がどう見られるかという予防線がある訳だから、ペルソナちっくな言葉しか投げられないはず。

 

人は人の非言語を無意識で捉えているという説はこの辺りにもあり。

 

素朴に考えると、自分で響かない人はどれだけ有用だとしても関わる意味はないし、自分が響かないことも同様。

 

でも、響かないことが大人という定説もありそうではある。その人にとっての自分より、自分にとってもその人が優位であるならば、関わったとしても類型的に僕も振り分けられるから、僕も類型的に振り分けるだけ。

 

好きな人が僕を振り分けない意味が分からないから、文章のファン以上の好意が保たれている。「おやすみさない」ではあれだけ振り分けていたのに。

 

ふらっとに捉えると一方的に好きが継続するなんておかしい。

僕の無意識レーダーだと、僕に対して好意がない人に対して2年も続く訳がない。

 

だからどうのという話ではなく、僕のこと観測していて大丈夫かという感じか。なんの有用性もなかろうに。

 

では、おやすみなさい。

 

良い夢を。