もともと

 

 

 

本質とか固有とか現実的には全く意味をなさない。なんのメリットも確証もないのにとても恐ろしいことだ。なにより怖いのは、損ない続けているのではないかということ。なるほど、これが勇気か。

 

定期発信はとっくにブロックされていて、別に毎日読んでいる訳でもないし何を言ってんだこの他人はという読みに流れた方が楽だもの。実際ありうるし、こっちの方が都合良くもある。1日1通か2通でも、1年積んだらどうなるか。途中から誰にも読まれず闇に消えているという想定の方がほっとしなくもない。

 

ただ、どうしてもこのまともな見解を許さない自分も居て。

あーでもない、こーでもないという解釈が生まれて自分の中だけでは1つに決め切れないという読む人のデメリット。

 

いや、人はそもそもそんなに他人に感化されんやろうという一般論は分かるのだけど、僕は少なくともそういう風には生きていないから、どうしても気になってしまう。本屋のハードカバーの帯に、「人は人生の断片でどれだけ心を動かされたかで決まる」という言葉を見かけて、僕は割と毎日動いているし、なんというか、自分が動いたときに自分だけが動いているということはそんなにない気がしている。

 

損なうのは怖いけど、やめられないで良いのかな。

まず読むことで時間を損なっている。数分でも1年ならどんだけになるか。

 

どうでも良いけど、「笑顔の必要性」って何かそういう単語が公になったのだろうか。何名かが語句検索でやってきていた。全然有用な情報じゃなくて申し訳ない。

 

さておき。

 

昨日の日記、マフラー装着したのにマフラー装着し忘れたって、誤字が過ぎる。その後個包装のマスクって書いていたから文脈的には読めなくはなかったはず。冒頭当たりはアニメを見ながら書いているから、だいたい言葉の配置を間違える。

 

そうして、本日は財布を忘れた。全然注意深くない。が、きっちりすることと注意深いは概念が違うので個人的には問題ない。注意深いは、誰かが財布を忘れたのだろうなと気付くこと。あれ、いつもこの人水買って常備しているのに買ってきていないな、何故だろうという違和感が見える。僕は見つかると恥ずかしいので問題はない。午前中は水分無補給だったけど、昼に楽天ペイでリカバリーできてほっこり。新しいことって必要に迫られないとできないし。コンビニでは使えるけどスーパーでは使えないらしく、帰りはリカバリーできなかったけど、いつもと違うルートになるもの楽しいこと。生活で遊んでいる。

 

しかし今日は寒い。

 

昼休憩でタバコを吸いに行った公園の池に氷が張っていた。なんだか小学生時分に水たまりに張った氷を楽しく割り歩いていたことが再生される。感触とて楽しいのは霜柱で、視覚的には張った氷。本日も割りたくなったけど、良い大人なのでしないでおいた。仕事の日でなくて誰もいなかったらやっていただろうけど。

 

張った氷の上でちょこちょこしている小さな鳥がいて、あんな細い足で冷たくないのか、鳥に冷感はないのか、よく観察したら足踏みしていないかを観察したかったのだけど、これも良い大人なので歩いている間にしか眺められなくて悔しいところ。

 

寒いのが嫌だなより、楽しさの方が勝る子供である。

 

何処かの地域は豪雪で不便になっていて寒いのは悪いことだとしなきゃならないかもしれないけど、だったら、世界的に餓死している子供はどう扱うのだと常々思うから、あくまで範囲が狭い中の当たり前でしかないと思う。雨が嫌だなとか思えるのってそうとう幸せな生活圏で過ごしているような。

 

あくまで自分が嫌だなら良いけど世界的に嫌なものだとするのは違うというだけ。

 

豆腐がだいぶ売れていたから、日本人の大多数に漏れず鍋が食べたくなり、名前に雪が入っている魚の鍋を作る。付け合わせには何にしようかと思い、弁当でも作らない卵焼きにした。鍋はポン酢で食べるからしょぱいだろうから、口直しになるようにちょっと甘めに作る。甘い卵焼きはそんなに好きではないが。

 

一口目の鱈の美味しさ。下味に塩を振ると良いらしいからやってみたけど効果の程は知らない。鍋なんて誰だってやろうと思えば作れるけど、人の可動域は、やろうと思ったときにほんとにそれができるかどうかにある。

 

義務的でも権利的でもないところの体と心の一致。

 

作り過ぎてあまりそうな鍋。2人分くらいだったな。

あしたの雑炊の具材にするか。

 

 

そうして。

 

「SO LONG GOOBYE」という仕事をテーマにした演劇で平日の8時間を生きる屍のように過ごすのかみたいなフレーズがあったし、今の仕事場でも、そんな感じの人は多いけど、僕はふつうに人間として仕事を試行している。

 

やらされていることとしていることの違いって、そもそもそんなに離れているのだろうか。

 

あと、仕事上のグルーミングみたいな言葉はあくまで仕事だからやるし、別にやらなくてもちゃんとこなしていればなんともない。まぁ今の職場は経験則上人間係数高いところだからかもしれないけど。派閥もないし、あくまで他人は他人という感じがとても良い。

 

僕は一瞬、別の仕事でとりまとめみたいな役割をしたことがあるのだけど、その時の仕事上の発話って、場を和ませるとか、体調大丈夫かの確認とか、必要以上のことは話さなかった。割と良い上司だったらしい、送別会の主婦の人の言曰く。LINEも交換したのだけど、携帯が壊れたのでもう交流はない。でも、頼る人は世界線に居なくなったということかもしれない。

 

僕は気付く人でありたいというのはこういうこと。世界線の中には教職取って先生になるというものあった。僕が先生になったら、学習指導要領をこなしながら、たぶん生徒1人1人をめちゃくちゃ観察すると思う。何ができるかはともかく、ちゃんと見ている大人が居るということは示す。整君にはそんな先生が居たけど、僕の時系列の大人は全員自分で忙しかったと思う。

 

で、やらされているということの極致って、人生だと思う。生まれたいと思って現実化した存在ではないし、ここをあえて自発的に調整しなければならないと思わない。人生の目的がないといけないというのは、意識高い系の人達が創ったもの。

 

与えることが充足だっていうのは僕にはとても分かるのだけど、あえて自分をそこまで掘り下げる必要はない。人は制限されたがるのが割と自然。制限された中で文句を言いながら人生を終える。

 

 

そういえば、今日考えていた、自分の文体は擬態だなということ。

 

僕のほんとの中身は誰にもやらんだから言語で表現できるものではなくて、言語化する際には、読んでいる誰かの人格を借りている。今は整君。たしかにこんな奴がいたら一般的には気持ち悪いと思う。僕はここまで考えていて注意深い人が近場にいたら会話したいなって思うけど、だから創作なのだろう。人が完璧に分かることなんてないし。

 

 

でも、こうやって現実化していく中で、固有の自分が探られている感はある。

 

僕は物語を読み返すのが好きだ。読んだ瞬間のコンディションで読め方が変わるから。この意識がどこから来ているのかということは、法学の話だった。

 

同じ行動でも、認識によって意味合いが変わる。知っていてやったのか、知らなかったのかだと、保護の度合いとか非難の度合いが社会的に変わるとされている。しかもこの認識って状況的な証拠から、きっとこういう認識があったに違いないという水準。

 

 

 

だとすれば、何かに対して同じ評価しかないというのはとてもイレギュラーなこと。

 

自分の固定化って、自分にも世界にも不自然よな。

 

なんで固める必要があるのだろう。

 

自分を守るためだとして、守る自分って、未来の自分から攻撃されるかもしれないのに。

 

おしまい。