ぎゃっぷ

 

 

インターネットの仕組みや起こりを知らなくても使うことはできる。言葉も自分も人も然り。では、知ろうとする志向は余計なのか。回答はそれぞれ。

 

夢を見るのが楽しみになるくらい展開が豊か。

 

卒業式風の同窓会。花が一輪届いて、若い世代の卒業式と一緒に集まる。別に挨拶する訳でもないのに挨拶するとしたら、と、内容を浮かべる。「今まで積んだことと、これから足すことでだいたい何とかなるよ」って。(無責任)

 

同窓の人々はそれぞれ想像上に年相応になっていて、会話のテンポ合わなかったよなと揶揄されたことに対して、おかげ様でどんどん合わなくなっているわとてきとうに返している。そのうち、昔やっていたゲームをしようとなって、ばやっとした眼鏡の女性がオニになり始まる。そんなゲームあったかなと座っていたら、「もじゃもじゃ」と頭を掴まれ、ひっくり返され足の裏を触られる。どうやらイメージに合う物体を見つけてそれにタッチするみたいなやつ。色鬼の亜種だろうか。(おそらくそんなゲームはしたことない)

 

あげくの果てに抱き締められ、あいつらそういうことかーみたい遠巻きになった。しかしながらこの人、記憶の中にはいない。誰なのだろう。それにどちらかと言えば僕は抱きしめたい人なのだが。

 

そうして目が覚める。二度寝をしようとしたら「ぷーん」という音。寝ているときの蚊の羽音って爆音だ。早々に退治できたため1刺されで済んだ。

 

日中。

 

意識的にぼーっとを実践。何か世界とは別の言葉が出てきそうになったら、毎回強制終了する。言語的に考える時点で世界をおろそかにしているということだなと、宵顔さんと会っていた時を参考にしてみた。考え=言語として起こらなくてもきちんと人は生きている。もちろん意識的に意識するということは必須だが。

 

お昼には、母親にLINE。「里芋使い切りました。美味しかった!」というメッセージに添えて、何日か前のシラスと和えたお弁当画像。凄い!と返ってきた。思いの外ご飯生活のクオリティが高かったのだと思われる。これにはもちろん打算がある。このタイミングであれば電話がかかってくることはないし、生存報告もついでにできるということ。ただ、こういった現象化は言葉で思考した産物ではなく、言葉にする、しないに関わらない。

 

言葉は遅い。熟慮として言語を頭につらつら並べたという内心は、選択肢を吟味したというより、「考えた」ということを自分の中で納得する証拠みたいな意味合いでしかなさそう。たぶん言葉で考える前に脳内で演算は終了している。ここを言語化したところで思考過程もあやふやだろうし。

 

もちろん、自分とは関係ないことで何かを選ぶということであれば言語しか証拠にならないが、関係あることであれば印象が全てだと思われる。

 

夕焼けが美なことに理由はないし、美味しいものは美味しいだけ。

そういえば、今朝は夕方みたいな朝だったな。

 

勝手に出てくる言葉は、宗教で言うところの雑念。どんどん腰が重くなるし、世界に対しても鈍くなる。おそらく怒りも言語化によって自分の中で盛り上がる。言葉って決めることでもあるから、自分が怒ったって表現してしまえばもう感情としても怒るしかない。言葉に引きずられてしまう。

 

本来は、言葉を引きずる側であるべきなのでは。

 

言葉はこれによって世界を決めようとする。けど、言葉は当人の語彙の中にしかないし、当人の全存在を表現できるものではないから、しようとすればするほど自己規定値になる。そうならないためには、言語外の自他を意識して、余計に世界を言語化しないようにすること。

 

いや、これってふつうのことなのか。

やはり、僕は発達段階としてだいぶ遅れているのかもしれない。

 

いやいや、感じはどれだけの語彙があっても言い尽くせないと諦められるのは、ある程度語彙が蓄積されたからだとしておきたい。

 

 

ちょっと本の話を挟んで。

 

カズオさんの本は2本目だが、なんだか人間関係の微妙な機微というか確執に意識が向いていそう。だから、人間以外の場から描く。「わたしを離さないで」では臓器提供のクローン人間だし、クララではAFだし。何気ない子供社交シーンでもヒリヒリする。社会という枠組みとの微妙な衝突。味わい的にはアンナカレーニナにもそういうところがある。社会的にどう振る舞うべきかと個人の中身の溝。

 

夏目さん。そうとうに偏屈な人なのだろうが、文章においては物事を公平に捉えているのが好きだ。動物にもきちんと重みがある。保護対象であることを前提としていない感。まぁ擬人化に価値があるとするのは、人が最も価値が高いということであり、僕は価値で捉えるのは悪手だと思っているから、ちょっと近い。

 

「芸術学」に表現とは意識することだというフレーズがあった。これを踏まえて戻ってくると、人は意識できることしか表現できない、つまり、言語化できる対象は意識できるものしかない。

 

今朝の通勤のシーンを振り返ると、はとぽっぽが電線に止まっているの珍しいなとか、紫の自転車に乗っている人を見かけて、何をもってこの色を選んだのだろうとか、諸々言語化しようとすればできることはいっぱいある。

 

意識できる対象は言語化される集合より広い。何を見ているのかの意識の表現では写真になるだろうし。ただ、惰性で捉えている情報と、意識は別物だと思う。意識は、自分がいま何をしているか、何を見ているかということを自覚できて初めて現れる。誰かとの一致ではない。

 

余計なバイアスという色眼鏡を介さずに観た世界はきちんと残る。

 

 

どうでも良いが、文才ってなんだろうな。いつも読んでいる人が文才欲しいって書いていた。

どういう目的(意図)なのだろう? 当人が書いている意味がきちんと伝わるということでればかなり伝達力はあると思う。ちゃんと自分の語彙を扱っているし、書きたいのはそういうことなのだろうなというのも分かる。

 

もっと拡げて、何を書いても大多数に承認されるとなると、それは才能というよりは時代の需要に存在が一致しているかどうかによる。

 

僕としては、文才みたいな曖昧なものは持ち合わせている気はしないし、ドラゴンボールがに文才下さいって願ったところで外付けの何かが得られるだけだから要らない。僕が願うとしたら、僕のことではない。今だったら全世界の人のストレスがちょっと和らぐようにかな。完全にストレスがなくなるのは生物的によろしくないらしい。

 

自分の言葉を扱うためにブースターは必要なくないか。

 

そもそもインターネット世界においてきちんと人のことを読もうとする人物は奇特な人でしかない。数量化して自分と近い人、面白いコンテンツとしか読まない。そんなモノサシで承認されたところで自己価値が高まるのじゃろうか。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。