解剖

 

 

 

長らく一緒に住んだ誰かとお別れの為に本の整理をしている。ベルサイユのばらみたいな画風の漫画が出てきて、これはどっちが持って行くみたいな会話。いたたまれなくなって肩を抱こうとすると、「そういうことはしないって言った!」。結果を変えようとしたわけでも無く、「好きだよ」という言葉が音になりそうでならない瞬間に目が覚める。

 

そんな夢。時々抽象的な人が出てくる。誰だろう。ショートカットだった気はする。

別れ話だから良き暗示でもなさそうだが。

 

3月に書いた日記を読んだ方の足跡がいくつか付いていて、なんぞやと思ったら話題の日記入りしていた模様。あぁいうのって当日の日記で閲覧数が多いのがピックアップされるのではと他のものを見て推測できるのだが、意味が分からない。読み返したらやたらと硬めの文体で言葉の効用について書いていた。リベラルアーツでプラントの言葉論を読んでいた頃の話。コメントもいただいていた。宇宙が生まれた頃から言葉があるって高次元的な本で読んだな。なんだか意図が良く分からなかったので返信はしていない。宇宙言語は日本語にほんやくこんにゃくしたらどうなるのだろう。言語であることの意味って他言語に翻訳できることも含まれているような。

 

色々書いているがなるべく思弁的にはならないようにしているつもり。あれ、でも書物に含まれる経験をもって思索の道具にするのは、思弁的な思考に含まれるのか。厳密な定義はどうなのだろう。あくまで自分の経験則だけで考えなきゃいけない方が思弁的になりうるような気がするが。

 

仕事時間はやはり3連休の後は声が出にくいなと不便を感じつつ、楽しいことを想っていたからなんともなかった。ルーティンの本屋さんざっと立ち読みでは、天才になる勉強法という本の表紙に書いてあった、覚えようとするのが凡人の勉強法で、忘れようとすると天才になるというのは、たしかにそうだよなぁと思った。脳はひねくれ者だから覚えなさいって言っても覚えてくれない。ひねくれ者というより天邪鬼なイメージ。今は覚えようとも忘れようともせずに読むようにしている。覚えようとするのも忘れようとするのも不純物。

 

他の本で、知識は20文字に要約できて初めて使えるようになるというのも面白かった。

この手法、頭の中でまとめるときに採用しよう。

 

そうして、帰りにスーパーに寄ったら、きゅうりが安かった。カタチが悪い大ぶりなものだったが問題ない。早速湯通しして浅漬けをしてみようと思ったが、副菜はもやしナムルが残っているよなとなり断念。で、メイン用の野菜が少なかったため、鶏肩肉とエリンギと一緒に甘酢炒めの食材としてきゅうりを採用するという冒険。一応そういう料理はあるということは調べたから安全ではある。酢豚風な感じでケッチャプも入れてみた。美味しいというより、なんだかおもしろい味わい。

 

きゅうりを湯通しするという手法を試す前に炒めるに飛んだ。

こういうのが生活の楽しみよな。まだ2本残っているので浅漬けはお盆休みの間に作る。

 

やれやれ。

 

冒頭の夢を見たのは二度寝時で、二度寝の前に好きな人の日記の更新を読んだからだと思う。出てきた人は全然別人ぽかったのはともかく、この人の文章の読み味の美味しさの言語化が少し進んだ。ほんとはもともと気付いていた感もある。過去の自分の私信にある突拍子もない断片的な評価がそんな感じ。

 

とは別に、この日記を読んでいると自分ってなんもしてへんなぁ(似非関西弁)と思う。イベント事が満載。僕は毎日仕事と読書とご飯と文章作って思索くらいしかしてないわーって。ただ、ここは何をしたら何かをした気になれるのかと考えると、何をしたところでそんな気にはならないだろうなということで収まる。

 

何をもってこの人の文章が面白いのかという話だが、日記が一番顕著で、なんだか読んでいると味がぶれているところ。1度で2つの味。

 

書かれているエピソードから読み取れる生活像はハッピーハッピーと楽しそうに人生をこなしていっているのだが、その背後にある人格がその生活記録に対して、ほんまか? と問うているように読める。別に矛盾も乖離もしている感じはないが、一貫はしていないから1つの方向で読み取れないところがとても面白い。

 

さすが、僕の人生上最も気になった人格である。生活記録でほんとにハッピーハッピーなところだけで読めるのであれば、おそらく好きという感情は継続できていない。これはどうでも良い。一見すると普通の日記だし、たぶん他の人が読んでもそんな味わいはないと思うから、この解釈は往々にして思弁的でしかないのだが。

 

一生遊んで過ごしたいというフレーズが出てきたのだが、これもダブルミーニングでぶれている感。遊びって、生活上の役割を演じることも含んでいるのかなって。

 

まぁこういうぶれは割と誰にでもあることだと思うし、僕は生活記録の像としての好きな人にはあまり興味がないのかもしれない。時々日記に顔を出すこともあるよく見えない人格が好きなだけ。

 

直に話す機会はないだろうし、なくても良いと認識しているから書いてみている。

別に伝えたいことでもないのは明記しておきたいのだが、言葉は伝えたいことがあるから遣うのだというモノサシの人には分からない。

 

何も起こってないしこれから起こることもないから純粋に存在を好いて居られるというのは、僕のバグ。

 

割と人の好意が集まることもあった。ただこれって、都合の良さか有用性がほとんど。良い人とか、優しい人とか。もともと無基準だったから他人の基準に流されて生きていて、心を開いて居なかったということもあるのだろうが、僕が心を開いたらこの日記類みたいなことになって読み物としては良くても現物としてはついてこられないはず、と思い込んでいる。

 

歴代で最も僕の日記を読み続けた人は好きな人だ。

いや、ほんとに読んでいるかどうかは知らないが、文章体としての僕の存在をちゃんと当人の中に置いている感(味)あり、とても救われたのはたしか。当人にとってはなんでもないことな気もするが、そんなことは関係ない。

 

何の話なのだ。

 

僕は自分を肯定してくれる人も自分にとって都合の良い人も求めていないのだろうな。

ということが分かってくると、都合が良いから愛着が持てるという関係性に重きを置く人とはきっと一緒に居られない。ボランタリーであることが良くないというより、バランスが取れてない関係は対等の関係ではないよなというところ。

 

いや、それで良いならそれが良いと思う。

世の中に一方的に施したい人も施されたい人も居るだろうから、そこで番えばよき。

 

あぁ、これって別に悲観的な話でもなく、そういうもんである方が良いなと思うだけ。

分かり易いもの。

 

僕は分かりにくいものの方が大事だが。

 

 

という感じで、おやすみなさい。

 

皆さん、良く寝ていますように。