いつかのどこか

 

 

夢は映画仕立てで僕は登場しなかった。20歳くらいの男性2人ともう少し年上のベリーショートのお姉さん。とはいえ、あまりストーリーがある訳でもなく、男性の1人があくせくする(魔女の宅急便の眼鏡の男の子が自転車をひたすらこぐイメージシーン)のだが、お姉さんはもう1人の方に惹かれていて、何やらバーのようなところで話している。僕で濡れるんですか。濡れるよ。

 

そこで夢はおしまい。僕はこんな台詞は発したことない。ただ、ひっくり返したような言葉は発されたことがあるから夢の中では反転されたのか。そういえば、王子様みたいと言われたこともあったな。本の先生と付き合っていた頃長野の高原にいったとき、遊歩道がまんま山道で転びそうだったから手をかしただけ。

 

自発的走馬灯みたいだ。

 

さておき。

 

ふわふわした気持ちは、そうゆうことではなく、孫がよく顔を見せてくるおばあちゃんの心持ちなのかもしない。おばあちゃんの、というのはおじいちゃんのそれは昔過ぎて覚えていないから。

 

なにせ読めるものが多い。鮮度ピチピチなのと、少し寝かせて熟成させたのと。どんな贅沢だ。

 

だいたい起床予定時間の2時間前に1回目が覚めるのがルーティーンで、何気なく覗いたら一ヵ月分公開されており、寝ぼけた頭に一息で通した。やっぱり美味しい。そのあと、2時間、ここだけで日記を一本書けるくらいに言語的に考え事をしていた。もうほとんど覚えていないけど。

 

「来るとか来ないとか言っていた人」として登場させてもらっているなー(無感覚)と思ったとき、僕も良く読んでいるだろう人を登場させる手法を使っていたなということが想起された。

 

なんだか人の文章に登場していると登場人物になったみたいで嬉しいという感覚は分かる。僕としても普通に登場人物だから書こうとすれば書けるし、あえてみたいなところはあった。ただ、これって生活圏の人でやると変な齟齬が起こる。直近の恋人さんがそうだったのだけど、読ませていた当時の派遣の若い男の子に、「彼女さんには読ませない方が良いと思いますよ」って言われたのだった。僕の生活的人格とここの言語的人格は随分違うらしい、知ってた。

 

読んだときは思い付かなかったけど、この「言っていた」に含まれるニュアンスがとても良いな。あくまで僕の発信は独り事であって、対話ではない。なるほど、独り言に対する返答は独り事だということで返信の形式は使わなくなったのかと独りで解釈。そのあとの「やっぱり来てくれた」というフレーズも好き。

 

個人的にあの時素面ではなかったのかという事実が最強に面白かった。できればコンビニでチューハイ飲んでいる姿も目撃したかったな。

 

人間は生活防水ってなんぞやと少し考えた。「少しくらい不都合があっても稼働する動くもの」みたいなニュアンスなのかなとなり、通勤時間に、たしかに時計って変化そのものよなとか考えていたのだった。その動きに合わせて社会的人間は調律される。

 

あと、言葉のみで読み取る部分としては、経歴の開示が詳細になったなぁって。職歴もたぶんそっち界隈で働いたことがあるのだろうなとは匂っていたけど、やっぱりそうかと(これも無感覚)。スキル的な発話と所作。僕もバーで働きたかったことがあったのだが、物理的に夜型ではなかったから断念したのだった。たぶんそう思い込んでいただけでやってみればできたのだろうな。

 

そうして、この人いつも生活圏にパートナーが居るなというエピソードからふと自分の傾向に思い至る。僕はどの時系列でも個人的なパートナーはほぼ生活圏の外に居た。高校はともかくとして、大学以降は同じ大学ではないし、職場恋愛もしたことがない。直近の元恋人さんはちょっとこれに近かったが。

 

これってなんでかと言うと、僕は生活圏では自分ではないとずっと思っていたから。人の固さでいうところの、僕の固定値が生活圏では決められているし、職場とか家族とか生活圏の友人と接している自分と、パートナーに対する自分は違う。この見せる人格と見える人格がざっくばらんに混ざる感じで同一化を感じるのもとても分かるのだが、そんな希釈化された人と接して面白いかという気分になるのは確か。

 

直近の元恋人さんは交友関係が広い人で、続いていればフジロックとかにも行っただろう。で、友人カップルと初詣するとかもやった。でも、この交友関係って、条件付きであって、条件を取っ払って相手のことが把握できないのに楽しい空気だけの上澄みをさらう意味とは。いや、たしかにやってみれば楽しいとは思う。

 

問題は、そんな中でこの人格が開示できるかどうかということ。僕は別に他人の発言にあえて意見をしたりしないし、空気のように場に居るだけだし。たまに2人きりになれば、ちちゃんと話すかもしれないけど、僕が何を当人に話したかが他の人にも共有されるのかと想像するとげんなりしてしまう。抽象的な人ではなく個別の貴方と話しているのだけどって。

 

だから、同居人さんとのエピソードを書いている好きな人は凄いなというか不思議な感じ。僕が同棲生活しているとき、日記もたしか書いていたけど、パートナーは一切登場させなかったと思う。この人はまさに生活圏の外のSNSで他に何も癒着しない出会いだったけど、歴代で1番長く続いた人。

 

なかなか登場しないからこそ大事にされているというは僕の価値観の流用であって単なる独り言ばかり言っている人だなと認識されている説。まぁまぁあり。

 

僕が共同生活向いてないのは、自分の稼働域を遊んでいても、人で遊んではいけないと思ってしまうところ。人間関係があった頃を振り返ると、人ってそれぞれ自尊心があるからそれを踏んではいけないように調整しないといけない。合理性の調整なら良いけど、別にそこまで合理性を追求している訳でもない、今までで固まった自分がある。

 

 

事実と、事実かどうか分からない幻想は分けないといけない。

ただ、個人の感覚でいうと、これは等しく現実だからややこしい。ゆるぎないものとして体験という経験があるけど、試行も加えないと変なことになる。

 

経験は継続で得た知識ではなく体とか頭の稼働域のであって、誰にも流用できるものではない。

 

で、僕の経験の話。

 

自分と連動せずに読み続けて何年か経ったけど、言語としての意味とその背後にある文体=言語化的人格は別軸というか、別の味わいがある。

 

好きな人の日記を読んで感じたことは個人的に送ろう。

 

あと、自分の中に起こる感じは操作性がない。現象に直に接してからしか分からないし、前もって準備できるようなものでもなく。これって、今までの全世界の情報が無意識に収納されていて、そこから良きにはからっているとすれば楽だけど、全然違う対象もあってなんなんだ、わからんちん。

 

 

僕の本質は穴倉の中で遊び回っている子供みたいなものでまだ外には出ていない。

 

そのうちまたパートナーもできるだろうなと楽観してみて、この僕が個人的な関係の人と何を会話するのだろうとは思う。どういう人ならパートナーになるのだろうという想定ができない現状。まぁ別に支え合うとかの文脈ではなく、互いに1人で十分で、ある意味どうでも良いけど一緒に居ることがプラスになるということだから、ある意味居ても居なくても変化はないのだが。

 

 

やっぱり1回全部断捨離して良かったな。

 

 

おしまい。