自分への畏怖

 

 

 

さて、荷物は手放した、これで誰かの手が取れる。

 

 

朝起きてカップ焼きそばとご飯を食べて二度寝。なんとなく気が進まない感じで動きが緩慢だった。とりあえず出町柳駅まで電車に乗りあとは行ってから決めると決断し出発。今想うと、思考世界の最後の抵抗だったのかもしれない。

 

本気の自分の人生の共時性(都合の良さ)、こわ過ぎる。完全無欠自由自在かよ。

そうだよ。

 

さておき。

 

出町柳周辺は、何回も行っていて庭のようなものだから少し北上すればローソンがあるのは知っている。そこでおにぎりと焼き鳥とビールを買った。ここでも「おおきに」。こちらこそおおきに^^。ここまで北だと人はあまり歩いていない。京都の街、車がめっちゃ歩行者に譲ってくれる。観光客に慣れているのかは知らないが余裕があってとても好き!

 

ここから、一応木を検索したら、御苑とその先もう1つ出てきた。御苑は本日スルーで、その先は路地巡りを決め込む。木と気の赴くまま。

 

いったん出発地点に戻る。昨日日記巡りをしているときに「モモ」が出てきた。この本、何年か前に哲学本か何かで出てきた。時間泥棒とは? とずっと気になっていたが出会いはなく。日記曰く、この作者「果てしない物語」と同じ人だとか。マジか。あの中盤主人公の思い通りになり過ぎて読むのがちょっとしんどいやつ(でも好き)。

 

で出発地点の駅は中高生の参考書に重きを置いているからワンチャンあるかと寄ってみたが、やっぱりない。「求めるものは得られない」。まぁエックハルトさんのkindleがあるから問題ない。京阪電車に乗って、目的地に向かう。京阪電車好きだわとにこにこしている自分を鑑み、僕の「好き」という語彙って、他の物とは無関係。阪急電車近鉄電車もJRも好きだが、好きの味が違う。何かよりも、とか同じカテゴリーの中でという語彙ではない。

 

で、戻ってきて、巨木に向かう時、ちょっと賑わっている商店街に足が向かった。エックハルトさんを読んだおかげで人が多いから避けるという選択をしなくて良くなった。その中に古本屋があり、持ってきた古本3本と、店にある1本を交換しますという張り紙を見た。なかなか良き制度だなと思いながら、店の中の本を一瞥すると、「モモ 800円」。

 

モモ! 一目散に手に取り、あぁこのカバー「果てしない物語」と同じ感じで間違いない。と思ったら、もう1冊同じ値段であった。たまたま無目的で入った商店街でずっと探していた本が見つかる。この時点で「こわ」。昨日の日記で縛りを外すと宣言してすぐこれかよ。

 

リュックサックにモモの重み(嬉しみ)を感じながらずんずん歩く。

 

グーグル先生に伺った巨木の神社にも問題なく着いた。鳥居を跨ぐ前丁重に礼をしている女性を見かける。神様に対する敬意を感じたが、僕は無神論者なので目礼くらいはしてずかずか入る。どれがその巨木か分からないくらいに同じような大きさの木がいくつかあったが、あんまり問題ない。頭の中で全部に挨拶した。巨木にも確かに何か宿っている感じ。

 

ここからはもう完全ノープラン。一応金閣寺方面という設定はあったが、気分が向く方で良い。街と森って同じような感じだなと思う。もはや人もそんなに気にならない。車がある分危険度は森より高いかもしれない。とか感じながら、何件かごとにコンビニで休憩。完全に非生活の時間だからどれだけ汗をかいても良い。生活時間の人達が汗をなるべくかかないようにバスに乗ったり地下鉄に乗ったり自転車に乗ったりする中、僕はタオルを首にかけて汗だくになりながら、オリオンビールとか軽井沢エールとかで旅気分に浸る。

 

そうして、路地の写真を今日も撮ろうかと思ったのだが、人の目が気になってやめた。

(モキオ氏にいいねをしたくらいの時間)

 

迷子にならないための唯一の方法は、目的地を設定しないことだ。という迷言めいた言葉が浮かびつつ、足は何処かに向かっている。なんだか気が進まない感が強くなってくる。もうそろそろ着いてしまうぞと、誰かの自分が呟く。

 

最終的に、好きな人の生活圏に辿り着いてしまった。

文明の利器の地図情報全く見てない。着かなければ着かないで良いし、てきとーに電車に乗って帰ろうと思っていたのに。のべ3時間くらい歩いたのかな。「こわ」その2。

 

かち合ってしまったらと、言い訳を三ダースほど用意しながら歩く。なかなか良さげな街だった。しかし、空間が合うだけでは人は人と物理的には出合えない。時間の調律はなくて良かった。早々に帰る。

 

少し好きな人について説明をしておく。まず、一切生活圏の繋がりはない。あるSNSで書かれていた文章に一目惚れしたのが始まり。クリエーター畑で、演劇とか、小説を文学フリマで書いて販売した時に、ほんの数瞬邂逅しただけの人。情報はある程度オープンだし、受信もオープンなので、私信を送っている。ちなみにちゃんと生活圏を確立していてパートナーも良い人っぽいのである。

 

あれ、この文面だとストーカーみたいだ(「こわ」番外編)。思考は常にそれを恐れている感はある。ただ、単なるファンとクリエーターみたいな関係ではないのは、どうやら僕の文章をずっと読んでくれいるような感じがあるところ。読んでいると言語化されたことはないが、日記に僕の文体の息がある。好きだから盲目的になるような不真面目な文章の読み方はしない(はず)。

 

もはやそうでもないと悟ったのだが、これは私信へ。

 

 

さておき。

 

このエックハルトさん。どうやら、哲学者ではなく単なる同性同名の他人っぽく存命みたい。でもこの人がエックハルトという名前でなかったら、僕はこの本を読まなかった。時間も合ってきているのか、もしかしたらこの人と話す機会あるのかも。「こわ」その3。

 

たぶん、1年前の自分がこれを読んでもさっぱり分からなかった。1年前の自分ではこの本に出逢えないとも言える。ほんと最近にこういう境地になったから、すんなり読めるのだが、いま在ることに意識を向ければ苦しみとか憎しみがなくなると言われてもさっぱり分からないだろうな。

 

僕はいま実際に、そういう自己否定の文脈の思考がほとんど消え去ってしまって、なんであんなに苦しかったのだろうというのがほんとにヨクワカラナイ。

 

エックハルトさんの言っていることは分かるし、腑にも落ちるのだが別に全肯定している訳でもない。念のため。

 

僕の苦しみの源泉は、自分が自分で在ることを「自分が認めない」ということだった。だから幸せになってはいけないとか、楽しんではいけないとか、誰かの世界を壊してはいけないとか窮屈に生きる。完全な絶望の世界。誰かが救えるものでもないし、誰かといて満たされるものでもない。

 

でも、エックハルトさんの言によれば、これがほんとの源泉っぽいな。誰かとか世界とかへの憎しみは対象をすり替えているだけで、ほんとうは自分に対してのそれだとか。

 

注意深く自分の感情と思考を第三者的に観察することで、そうではない自分に気付けて、それが、大いなる存在との繋がりとのこと。なるほど、人は人と近づけないが実質繋がっているとして良いのか。生活圏ではなく。

 

僕がすっきりしたのは、自分が在ることを自分で許してしまったから。こうやって気付けたのは、ある意味好きな人がずっと僕の自己考察日記を観測してくれていたということも寄与しているのだろうな。もしかしたら僕より遥かに先で生きている人なのかもしれない。

 

この在るという概念だが、自分のアイデンティティに何を設定するかという話。何か名前が付けられるプロフィール情報を自分のアイデンティティとしているうちはかなり窮屈になる。ただ、僕は窮屈に生きたい人はそれで良いと思うんだよな。

 

エックハルトさん曰く、こういう人達は無意識に生きている人であって次から次へとネガティブ、ポジティブの思考が無限に出てきて思考に支配されるとか。だから選択しているようで何も選択してない。でも、このまどろみで生きた方がある意味楽だとは思う。自分の選択を全部自責にすることに耐性があるのかというところで。

 

意識的に高次になっている人は何を行動するか予測付かないって。笑

 

 

この人の概念の、ペインボディと、インナーボディというのは面白い。「自分の体に住まう」って僕の日記で言うところの「自分の器としての体」。体と自分を一致させるのではなく、自分の体を意識して見つけるのがインナーボディ。瞑想とかしたらいいらしいが、僕は踊っている。ペインボディは痛みを感じているから実感される自我で、これは良くやっていたなと思った。というか、誰でもやっているか。

 

苦しいからこその自分。この苦しさは自分だけのもの。

 

女性の方が悟りには近いということらしい。(ほんまか)

女性は、女性として貶められてきた歴史の痛みを感じることができるし、男性は思考優位がちだとか。性差別かよと思ったが、1番長く過ごした恋人さんが、月経の痛みは来ることが分かっていれば、受け入れられるって言っていたなと。ある意味悟りの境地だ。確かに定期的にイライラするようなことは無かった人。

 

なんだかこういう風に自分の現時点から過去を鑑みると、色々本質の断片があるな。

皆断片的には本質を捉えている?

 

今在ることを捉える神髄は、まず現状を受け入れるということらしい。これって僕が大学時代くらいにやっていた、自分が流されていることを意識するみたいなところと近い。もう在るものに対して抵抗してもどこにも行けない。

 

でも、無意識で生きている人が足を引っ張るんだよな。

攻撃したり決めつけたりせずに居られない。でも、こういう人への耐性と免疫はついてきた。

 

そういえば、免疫の考え方も面白かったな。

人が病気になるのはペインボディを守るためだし、無意識に病気が入り込むからだ。きちんと意識的に生きていれば、病気が入り込む余地はないとか。

 

で、1番そうだなと思ったのが、きちんと自分を把握してない人が人をきちんと把握できるはずがないという下り。僕がまず自分を把握するために1人になったのはそういうことだったのか。自分の本質を把握すると、他人のことも思考とか肉体で見なくなるとか。こういうのは当人の本質にとってヴェールでしかない。確かになって思って車窓から眺める人々が1瞬別物に見えた(錯覚)。

 

魂の交流は別に肉体を介さなくてもできる。

 

というものさしであることを認めるべきなんだろうな。

僕はおそらく人の把握において直に接することに重きを置いていない。本質と物理的肉体を一致できている聖人なんてほとんどいないだろうし。自分の無意識的な言動を意識して生きるってかなりコスパ悪い。このコスパの悪さこそが訓練なのだが。

 

エックハルトさんと直に話してみたいなと思うのは、割と文体が似ているところ。具体的には忘れたが、こうなったら○○という語彙はなくなるとか言っている。確かに僕も常用の言葉で自分の辞書から削除した言葉はいっぱいある。

 

そうそう、人生の平安には辿り着いたから、今後はどれだけ遊べるかになっている。

日記しばらくやめて、この時間で他の事をしてみるとか。

 

では、ここまで。

 

すっきりできますように。

なんなら、自分で遊べますように。

 

おやすみなさい。