彼岸の間

 

 

座れそう、いや、むしろ安眠できそうなハンモックみたいな位置で輝く三日月を帰り路で見かけてほくほく。

 

 

6時過ぎに目が覚めて、遅番の起床時間まで、1時間ごとに2度寝、3度寝、4度寝まで3部作の夢を見た。高校1年の時の数学の先生(女性)が出てきて、何かもやもやした霧の中に居る。もやもやですねーってあっけらんと喋っているのだが、今日は時間がないから終わりと言われ、死後の世界みたいだった。そのあと、エレベーターから降りると、小学校4年次の担任の先生(男性)が出てくる。靴紐を結んでいると、「できないふりしてエレベーターの前で靴紐を結ぶ」、「高校の早期退学を考えておいてください」、「早期退学ってなんですか」、「3年次になったら退学になることです、言いませんでしたか」と某アニメのナナミンばりに言われた。どんだけ退場したいのだ。

 

2度寝に遡り、一番長く過ごした恋人さんが出てきて、何やら話し込んでいるのだが、「・・・言えなかったんだよ」と言われ、起きた後、自分がしたかった(したい)のはそういうことかと分かった。

 

ちゃんと起きた後、この数学教師の名前を掘り返そうとしたが、どうも思い出せない。授業中に「半端な夢のひとかけらがー」「最後のkissは煙草のフレーバーがした」という歌詞のアーティストのファンだと言っていたエピソードだけ出てくる。ついでに他の先生質が無駄に出てきた。どの人も全くもって個人的なエピソードがない人達。なんで残っているだろうなと考えると、これは自分のことだからだろう。相手が自分のことを覚えているかとは無関係で、自分史としての記録。

 

そうして、出勤前の1服をしてたまたま見ると、ほくほく5分前に更新されたnoteの記事を見つけてしまう。こんな鮮度でスキを付けたら張り付いているみたいだからスキを付けるのはお弁当時間で良いのではないか、と20秒くらい葛藤。結局勝利したのは、スキに素直になれだった。張り付いていると思われているかどうかも今更の話。僕は自分の生活を壊さない最大限の時間で読んでいます。

 

中身は僕が行った日の前日で、やっぱり受付に入ったのはたまたまなのかと思う次第。確かに受付の人員は足りているように見受けられたし、企画担当さんとのセットは個人的に馴染んだが、あれか、「華」という意味で受付に回されたのか。回したのは演出家さんっぽい喋り方だったが、別に真相はどうでも良い。見られて嬉しかったというだけ。制作日誌の言い回しがとても素直になったなぁとか勝手に思うのだが、やはり何か心境の変化があったのだろうか。「嬉しい」で語句検索してみたいところ。やはりあの激しさだとマイクスタンド壊れるよな。でも、あの激しさはとても大事な気がする。命という感じ。

 

劇評は、おそらく土曜日に書く。日記に使っている時間を1日充てれば書けそうな気がするが、ぎりぎりまで煮込みたい。2週間以内ということは土曜日が締め切りで良いんだよな、たぶん。煮込んだところで良いものになるかは知らない。が、時間は大事に使いたい。客観的な良さは分からないから、個人的自己満足で。

 

この楽しさはいつまで続くのだろう。

 

さておき。

 

フロムさんは読んでいると胃もたれみたいな感覚になってきているため、次の本を物色中。「脳に良い食べ物」みたいなやつがちょっと気になっている。別に何か精神状態が悪いなんてことはなく、あくまで自分の為ではないただの興味。栄養学も気になるんだよな。僕が栄養学が難しいなと思っているのは、食って、何を食べるかによるだけではなく、その時のコンディションにも依る訳で、この個別的なところはどう捉えられているのだろうというところ。いくら栄養価が高いものを食べていても、それがストレスになるのであればおそらく全体としての体は健全ではないだろうし。体が物理的に成長する時期なら栄養価は大事だと思うが、維持に係るとき、健康的な食生活がどれほど健全さを保てるのか。野菜嫌いならビタミン剤で代用するとかどうなのだろう。僕はだいたいなんでも食べるからあんまり関係ないが。

 

食と言えば、ヴェニスの商人ってかなりキリスト教的な話っぽいな。晩餐を一緒にしたくないとか言っていた。でも、食事ってちゃんと頓着すれば他の生物を生贄にして自分の生命を保つ行為なのだから、儀式以外の何物でもないとは思う。

 

これを拡げていくと、人が書いている文章を読む行為も、存在を食べる行為だし、創作物全般、ないしまぐわいも儀式めいてくる。よくよく考えると、世界はだいたい尊い。当たり前だが、いちいち尊さを考えていくと大変なのも分かる。

 

僕は時間を大事にしたいなと思っているが、自分が消費する時間の選択というのももちろんあるとしても、本質は、たまたまの時間の交錯みたいなところにある。宇宙の時間の中でたまたまここに僕が在り、誰かもたまたまあり、たまたま時間が交錯されること。これを大事にするとは何ぞや。

 

ここで冒頭辺りの、僕がしたかったことの話。

 

もっとちゃんと考えたら良かったなということ。今でも思う、僕は考えることをサボりがち。ほんと怠けている。

 

考えるの概念って諸々あると思う。物事を明らかにするための分析的方向性とか、他人のことを想像する方向性とか、試行錯誤の方向性とか。

 

僕が足りなかったと思っている、考えるは、もっと人のことを考えれば良かったというところ。父親が亡くなる前日、喉が渇いて自分の部屋から居間に降りたとき、父親が無言で僕のことを眺めているシーンがどうも拭えない。

 

状況としてどうしようもなかったのは分かるし、僕の力では動かしがたかったのも分かる。が、父親についてもうちょっと素朴に考えることができていれば、なにかが変わった可能性がある。別に僕は過去の自分に無理を強いるなんてことはしないが、考えるというのは、その時点の知見から別の可能性を見出すことで、自分にそれができなかったとは思われないという意味。自分でいっぱいいっぱいだったのが良くない。

 

いっぱいいっぱいというより、最近まで考えることを放棄していたまである。

考えるは自分を度外視した相手を想うことも含む。当時は自分が閉じ過ぎていたが、試行として父親が嗜好していた焼酎を呑んでみたりしていた。不味すぎて窓から投げ捨てたが。ほんとはもっと知りたかったんだろうが、知り方の術が分からない。一生残る悔しさだろうな。

 

少しトーンは落ちて、僕が一番長く過ごした恋人さんのことも良く考えていれば、浮気をさせずに済んだかもしれない。この時期はもっといっぱいいっぱいで蔑ろにし過ぎてしまった。(ネグレクトな意味で)

 

自分にとっての相手のことしか考えないのであれば、大事にできていない。

 

たしかに、近いと自分に含まれるから、あんまり考えられなくなる。

 

なんだか話が漠然としてきたな。この文脈での考えるは、関係性の内側から離れた相手の存在を想うこと。遠かったり近かったりややこしいが、自分の中の相手も大事だし、相手自体も大事だとすればこの二重性は仕方がない。

 

考える=存在だから、考えないと生きていないの同じだし、考えることで自分が拡張されて余白が生じて、その余白の中で他人を想える。まぁ、謎の人は僕の中の余白ではなく空白にVIP席があるから、余白がなくても大事に想えるが。

 

そうそう、もともと僕はこんな奴だったな感。

 

でなければ、なんの心も動かさない時系列の人を覚えているはずもなく。いや、いちいち動いていたという説もあるか。という意味では自分の存在自体は大事にしているという節もなくもない。自分を大事にしているから、他人のことも大事にできるというは真理なのだろうな。物体としての自分はまぁまぁ大事にしていないが、精神領域では自分として過ごしてきた世界はまぁまぁ再現できる。

 

これは記憶力ともあんまり関係ない気がするが、一般的には記憶力と言われるものなのかもしれない。記憶力という名前を外したことで解放されている気もするが。言葉は縛りでもあるという観念。

 

謎の人は謎に器が大きいから、蓋をあけて観察してみたかった。

 

結論。考えるという行為は過程でしかないから、別に公開する価値はないのだが、過程を観測してくれる謎の人(らしき)存在によって、僕の思考が存在として成り立ったという感じ。

 

おやすみなさい。