無駄人生

 

 

放っておけないのに何もできない。せめて概念としての存在をご賞味あれ。

 

仕事で思いの外ダメージを受けた。他人に対してでも人への非難を聞くと胃がチクチクする。上司達が新人2人について意見を交わしていた。聞こえるように話さないで欲しかった。確かに全部正当な見解だと思うし、今後の教育方針を決めるための話だろうから聞こえた以外は仕方がない。僕も何かしらは言われているのだろうなとは別のダメージ。

 

こういう言霊を聞くと作業効率低下する実験結果があったと思うが、平気で聞けるのは他人事だからか。まぁ自分さえ守れていればそれで良かろう。自分がその対象にならないと思えるのは、勤続年数の違いなのかな。あんまり考えたくない。ダメージを受けるのは、たしかに考え過ぎなんかな。個人的に気になっているのは、年下の上司、過食気味なのではというところ。男性だが随分と肉感が増している。何もできないのに考えてしまう。

 

人の裏の部分が見えたとき、自分が表として捉えられているから大丈夫とは全然思えなくて、裏の方に評価してくれればええのにと思う。まぁ仕事だったら、ある程度こなしていれば過ごしていけるから問題ないが。舞台裏、邪すぎないか、人間。

 

たしかに、人が人を見るとき悪い部分の方に焦点が絞られるのも分かる。だって、自分を害する可能性があることだから。悪い部分をスルーできるのは、その人がどうでも良いと思っているか、全許容か。あるいは諦めか。

 

ほんと、生活に向いていない。

 

仕事の前後はもっと楽しいことを考えていた。

 

春の陽気で外に居る人が増えたなと思いつつ、でも春はぽかぽかしているというより実は暑くて、過ごしやすさでは秋に勝てない。ついでに個人的体感として、クラスで誕生日を覚えられる前にその日が過ぎてしまう。1学期始まって2週間ちょいで主張する程の欲求はなく、その後仲良くなって誕生日談義が起こったころにはもう終わっているんやとなる。

 

整った文章と正確な文章についても考えていた。僕はかつての恋人さんと付き合う前初めて読まれたとき、整然とした文章だと評された。今は無き、「大集合NEO」というSNS。ただ。僕の文章って、分かり易くはないような気がする。知らんけど。何が整っているのだろう。表記の揺れにも無頓着だったし、思考も厳密に論理的に書いている訳でもないし。そもそもこれを読んで僕が書いていることを理解できるのか。いや、理解とかあんまり求めてない。ビジュアルとして整っているという意味か、はて。

 

正確な文章は読みにくい文章だ。ヘーゲルさんがやたらと指示語を使う文体で、まじでさらっと読めない。3周目でも全然分からん。指示語がどの部分を示しているのかもさっぱり。ただ、真面目に1つ1つ潰していけば正確に読み取れるような気がしないでもない。個人的には思考力は途方もなくても文章力はないなと評する。原文だと違うかもしれないから暫定。

 

本当に完璧な文章なぞありえないが、正確さを求めるのであれば情報量=文字数が増え、文字数が増えた時点で読みにくい認定をされそう。あと、自分が使う単語をどういう風に扱うかということを定義しないとその単語は読み手の定義になってしまう。このすきまが醍醐味ではあるが、自分が読み取った意味こそ正当だとする人の多いこと。僕の文章も漏れずにすきまだらけだが、ちゃんと定義したいところは定義する。「あの日」の概念なのに、「あの日」にならなかったことが含まれるのは不思議だが、争いと分岐の概念とセットにすると自然と導出される。この自然は論理ともちょっと違うような。

 

謎の人の文体は整っているなと「おやすみなさい」を読み返して思う。言葉の配置が注意深いから、食べやすい。その文章で書かれている意味とは別のこと。僕は意味も好きだが、この注意深さというか律儀さって読み慣れないと分からないのかな。褒めてどうにかということではなく、普通にそう。

 

ブログは丁寧、小説はビジュアルも気にされている。形としての文字と文章を一致させるって途方もない。プロ作家はこういうところでは遊べないだろうから、差し引きしても、好きとは別に凄い。日記の粗さも面白いが、なんだか無理してなかろうかとは思わなくもない。毎日書くのは大変でござろう。

 

「おやすみなさい」で、人の概念として存在を愛しているという記事を読み返した。なるほど、存在を受け入れるって、固有の評価ではなく素朴な語彙なのかと思い至る。とはいえ、これを表現できると思われたのは何故なのだというのは気になるところではあるが。僕は概念になりたいのでこれも良き。

 

あと、造語も面白い。僕は時系列の恋人さんとしか通じない共通語彙的な言葉は造ったが、自分の中でしか使えない言葉というのはないので。思考形態が違うのだろうな。

 

概念になりたいというのは、別に自分の粗を見られたくないということでもない。部屋の壊滅的汚さは、引っ越しすればクリーンになるし、綺麗にしていると誰かが入って来るから(学生時代の経験則)。なんだか本の師匠が男から歓心を買わないために太ったのと似ているな。細かったときの本の師匠のことは知らないが、あんまり関係なかった。良い止まり木を見つけていればと思う次第。

 

別に人を自分の空白を埋めるために存在させていない。という境地に至ったのは最近。謎の人は自然と収まっているが、ほとんど物理とは関連していない。

 

やっと現世から浄化されてきたな。

 

舞台と舞台裏を考えたとき、僕には舞台という概念があまりないことに改めて気づく。

だから人の舞台裏にも平気でお邪魔するし、自分の舞台裏も平気で公開する。もっと裏は生生しいから書かないだけであって、別に怨嗟とか呪詛とかがある訳でもなく。他人とか世界に対するどうしようもなさにかまけるような時間は人生にはない。

 

言葉と人格的存在はとても近いと思う。物理的挙動(発話も含め)よりも。

 

僕も謎の人の文章的存在をいただきますしようと思う。ほんとは一方的に食べるのが至上なのだが。

 

という感じで、安らいだ。

 

おやすみなさい。