幻想的現実

 

 

2つの夢を見た。1つ目。初老の刑事の秘密を見てしまい。命を狙われる話。最終的に部屋に窓から登ってきて1回殺される。首を拳銃で撃たれて、そのあと火を付けられて煙で意識が飛ぶエンド。しかし夢なのでちょっと巻き戻すことができた。もう1回。今度は登って来る途中で蜘蛛の糸のごとく切り離す。落下した犯人は開き直って銃を乱射しまくっていた。理容院FPSの話があったからだろうか。自分ではしたことないが。

 

2つ目。架空の宗教上のお葬式の話。黒ネクタイを準備できていないなぁと思いながら、教授の叔父と奥さんからこのお葬式のルール(二種類の色の紙でできた花があり、半分ずつの花と三種類の花をどういうときに使うのか)を聞いていたら葬儀が始まって急いで取りに行くのだが、ちょうど祭壇の近くを無造作に通ったら、竜胆と牡丹の間は通っちゃいけないのに悠ときたらと、父方のおばあちゃんにがっかりされる。

 

起きて、こういうよく分からないルールがあるところではだいたいがっかりされてきた人生だと思う。ちっちゃい頃、叔父さんの結婚式で料理のお皿を舐めて母親にがっかりされたり、父親の葬儀の時に左手で釘を打たないといけないところを間違えたり。親戚とファミレスでご飯食べたときにコーヒーに角砂糖ではなく、色が付いた砂糖を入れてびっくりされるとか。実家の砂糖が色付きだったのだもの。

 

作法はともかくとして、本日昼ご飯どきに考えていたことは、ほんとうの無神論者って、人が亡くなった時に、人の何を悼むのだろうということ。いや、素朴な悲しさも分かるし、僕も悲しむだろうが、この悲しさって社会観というか突きつめれば宗教観に繋がっていると思う。他人の存在を信じるというのは、素朴な生物的な感覚ではない。自分の世界から消えるという感覚が近そうだが、死別と離別にどれくらいの違いがあるのか。たまたま懇意だと悲しいが、特に懇意ではない人の死に対しては気の毒にとか可哀そうにということになる。何が違うのだろうな。動物に対してもそうだろう。チロが死んだときめちゃくちゃ悲しかったもの。自分の周りの温度の喪失があるかどうかなのだろうか。

 

さておき。

 

なかなかバランスが崩れているが、このまま1回ろくでもない本性を探っておきたいところ。自分が何者であるのかを分かることが人生の意義みたいなところがあるし。今朝、ふとルーズリーフに手書きした、「もっと見ていたい」という願望はこじんまりしていて現実可能性があるが、かつての手書きの中に、「人を害さないように生きたい」というフレーズがあって、何をとち狂っているのだと思う。人を全く害さない人なぞもはや人ではないし、自然現象ですらない。まぁ見るだけであれば害さないというはありうる筋だが。

 

 

ともあれ。

 

もう1回同じところで収入印紙を買うのも恥ずかしかったものだから昼休憩時に別の郵便局に行った。初心者マークが付いている人だったのだが、17500円分でお願いしますと言うと、暗算して4枚ですねと。なんだか一生懸命種類覚えたんだろうなという跡が見えて愛らしいと思う。これでやっと願書が完成したから書留で出すのはこの店にしようと思う。

 

弁当を何処で食べようかと地理を思い出していると、思い入れがある公園がアウトプットされた。不安定期の象徴というか完全に悪い意味だが。当時同棲していた恋人さんが働いていたガールズバーが終わるまで待っていた公園。浮気相手はお客さんというなかなかえぐいものをえぐるが、自業自得としているから呪詛にはならない。罪悪感は半端ないが。

 

申し訳程度に1本桜が咲いていて、あぁそういえば今年は桜の開花が早いって先輩が言っていたなと思い出した。これって植物生化学の花の開花は温度の間隔によるってやつなのだろうなと解釈する。暖かい日が続いた時があってそれでしか判断できないから桜は春と勘違いした。ほんとは違うのに。僕もだいぶ勘違い。でもなんでこんなのに付き合ってくれたのかはよく分からない。やっと飽きてくれたと思うと安堵がある。

 

そういえばバランス悪い繋がりで変な料理を作った。ささみと白菜が食材で、味付けは塩コショウ、ケチャップまではいいとして、コチュジャンと牛乳。いったいなに食(洋食なのか中華なのか)に分類されるのかという料理だが結果的には美味しかった。美味しいことが意味不明というかなんだか腹立たしい。施行してきたからどうしたらどうなるかの因果が自然と習得されているとも言える。料理は愛情ではなくただの物理的因果みたいなところがある。作ってくれたことを愛情にするという観念は分かるが、だとすれば作ってくれる人は誰でも良いはずだし、作る相手も誰でも良いはずだが、そうはならない。

 

そろそろ佐々木さんの小説も終わりで、なんだかちと名残惜しい。ただ、素朴な僕の感覚はまた違うかなと思ってきている。僕はずれてはいるが別に何かができない人ではないし、できないことはできるようにすれば良いという質。掃除もしていないだけで、組み込むように調整すればきっとやる。

 

問題は、対人において何をおいても罪悪感が先にくる。自分と接することを意志してくれる人に対してもまぁ接しても良いけど、どうせ離れていくくらいの価値しかない自分と接してもしょうがないでしょうって。他人の時間を無駄にする人物という観念がずっと拭えない。別に原始宗教由来の観念ではないと思う。ただの経験則的な学習作用。そうして、この刹那ではどうせオレナンテみたいなことは思っておらず自分も楽しんでいるし相手を楽しませようともしている。

 

だから、別に世界に対して悲観的な訳でもない。楽観的とも違って、結局自分次第だなというだけ。ただ、古今東西の書物を読み漁ってみて、自分と近い感覚とか自分のことを発掘できる道具を見つけているが、結局本質的な自分は最初からみじんも変わっていないのではないかとも思う。人のことは見るが、相手から見た自分のことがとんと分からない。

 

とんと分からないというのは適切ではないか。見ていれば自分をどう評価しているのかは分かるから、好意の種に水をあげてみてどうかみたいなことはできる。ただ、こういうのも不毛な行為ではある。

 

どうでも良い、いや良くもないが、年下の上司の左手の薬指に指輪がハマっていて、たしか2年前まだ禍ではなかった頃の忘年会の帰り道で話した時に恋人が居るとか言っていたなぁ、公的な契約関係結んだのか、良かったなぁと思ったのだった。モンテーニュだっけ、結婚は鳥かごだって言っていたけど、鳥かごに入った方が楽な人が多数派だから結婚制度がマジョリティな訳であって、人は自由である風で生きたいだけなのだろうなと思う。良い悪いではなく、ただの性質の話。

 

装飾品アウトでも結婚指輪だけはオーケーってなかなかアレだよな。

一種の宗教観がある。僕は男女問わずピアスとか見てしまうが。長髪を括っている男性が居て、こういうのもええなと思った。

 

僕はあんまり物理的な形という意味で自分の個性を見せたいということがない。観測圏内で言うと、スーツのベルトからはみ出た腹肉がデフォルトだとすれば、あんまりデフォルト体型ではないか。毎晩飲んでいていてもご飯がヘルシーだったら太らない。ベルトはスラックスがずり下がらないようにするためのものです。女性は体系が見えない服装がいっぱいあってある意味楽かもしれない。ふんわりしていれば中身のフォルムは分からない。全方向に攻撃しているようだが、僕は見ているがそういうのはあんまり読まない。もっと内側。

 

体のレスポンス遅くならないかとは思うが。体が重いと現実的所作も遅くならないかという想像。僕の肉体は高校の時から5キロ圏内くらいでしか動いていないから、体が動かしがたいというのは精神によるとしか思っていない。

 

今週末、また御苑でも行ってみるか。あそこ桜があるイメージはないが。

 

 

では、おやすみなさい。

 

皆さんが良く寝ていますように。