組み立て

 

 

人が立ち止まろうと思ったら、時速1400キロの速さで自転の逆方向に動かないといけないという歌がある。もっと厳密に言ったら公転にも反抗しないといけないから、立ち止まっていたらとっくに宇宙空間である。いや、精神的なものだとしても、そもそも精神に位置はあるのだろうか。

 

さておき。

 

本日からkindle読み放題では、幸福を科学するという本を読んでいる。(某宗教団体とは関係ない)。僕は未だ幸福とはどういう存在なのかが分かっていないから疑義はあるのだが、それは置いておく。ネガティブな感情は忘れるようにするのではなく記録するのだという方法論があったため、書いてみる。別に自己否定ではなく自己問答みたいになるはず。

 

 

仕事での失敗は脳内メモリを一挙に占拠する。本日そういうことが起こった。なんなら今でも引きずっている。やっぱり人間界に関わっていてはいけないというと大げさだが、それくらいのインパクトがほんとにある。

 

原因も対策も自分の中では分かっている。原因は不注意もあるが、人を信用し過ぎたこと。ミス①は、こういう言葉ではそこまで解釈しないだろうという信用があり、言葉足らずだった。当然対策は念押しのキーワードをちゃんと言うということ。ミス②の信用は逆で、聞いたことに対する返答の言葉をそのまま解釈したら別の意味が含まれていたということ。ミス②の方は不注意というか確認不足でもあった。普通なら言ったことが正しいのかをチェックする。これは帰り際だったということとか、しっかりしてそうに話す人だったということとかもあるが、おそらくミス①によってメモリ(余裕)が圧迫されていたことによる。

 

人に対する信用は、人は良きときにちゃんと僕を切ってくれるという方向が主だったから、ちょっと信用の方向を間違えていたのはある。

 

そうして、先生がしりぬぐいしてくれたのだが、当初はここに対する申し訳なさが表にあった。ただ、そもそも論として、人に迷惑をかけないように仕事をするって人間には無理よな。自分に対するハードルを下げるということが大事という幸福を科学からしたとき、僕はとっくに自分のハードルは下げている。

 

1人で過ごしているとき、卵を駄目にしてしまっても道を間違えても、味付けを失敗しても、なんなら試験に落ちてもどんどんやれやれーくらいまで思っている。失敗というか、試行としか捉えていないような。失敗できるというのはまごうことない変化の種。

 

これがなんで社会という場になったらこれほど反応する対象になるのか。なんだか歪よなという思考が回る。失敗してはいけないという強迫観念があるとか、失敗すると自分の立場が悪くなるとか、はあるが、そもそも、失敗は悪だという観念を植え付けられているのだろうとふと思う。

 

最初の社会である学校でも、忘れ物とか遅刻とか事情関係無しで問答無用に怒られる。僕は忘れ物常習犯だったが、悪いとは習ってもそれが無くなることはなかった。忘れ物をしなくなるようにするには次からどうしようかみたいな怒られ方をしたことがない。ただひたすら悪いことだ―悪いことだーみたいな印象だけが刷り込まれる。

 

先生の中にある僕への評価が悪くなるという不安みたいな感じも、考えてみるととてもおかしい。挙動の波紋で言えば、動けば動くほど失敗する訳で、良い波紋もあれば悪い波紋もあり、失敗した僕をどう捉えるかは先生の世界の問題でしかないはず。

 

整合性がないといえばもう1つ。本当に失敗を回避したいのであれば、失敗した過去よりも次に失敗しないような未来に重きを置くのが自然。失敗したことにメモリを占拠されることによって、より次の失敗が生まれやすくなる不合理があるのだから、おかしいのは学習によって習得されている失敗によって起こる感情の方。

 

ほんとにどうしようもなく嫌で避けたいことだが、それでもぶれずに遊べるのか問われているような1日だった。他人を巻き込んだ失敗でも遊べるようになるのがほんとの挙動よな。

 

自分の失敗は良い。他人の失敗も別に対策取れているとか変えようとしているなら問題ない。ただ、自分が他人にしりぬぐいさせるような失敗が嫌だって、おかしくないか自分よと詰問してみる。

 

ある意味、これも壁なんだろうな。仕事で失敗しない自分の理想像と失敗して迷惑をかけてしまったギャップ。ほんとここだけ凄く感情が起こる。過去世セラピーでもやってもみようかなってくらい。だから人の世界から自分が居なくなると楽になるのだろうな。

 

しかし、ここも変革しようと思っていて、マイミク拡大キャンペーンでもやってみようかとなっている。暖かい人間関係は幸福感に繋がるらしい。

 

やれやれ。

 

幸福を科学の本は、統計的な幸福感を高める方法論を語っているのだが、この科学的幸福感ってなんぞやっていうのをよくよく読んでいると、要は、幸福感を感じさせる脳内ホルモンの濃度が高まった状態のことを言っていて、意識が捉える概念としての幸福ではない。

 

ホルモンで捉えるのであれば、眠いとかと一緒よな。例えば、ハグをすればオキシトシンが増えるとか、寄付によって報酬ホルモンが増えるとか。いや分かる。確かに添い寝はとても心地よい。人と寝たら滅茶苦茶良く寝るんだよな。頭も回らなくなる。これを安心と評しても良いのか。寄付は知らない。

 

要は、この方法論は、意識が幸せを感じる方法ではなくて、体が幸福を感じる方法であって、なんか違う。違わない人はこれでやったら良いと思うが、幸福は技術で良いのかな。いや、愛することすら技術だから良いのかもしれない。

 

僕は幸福感を感じなくてもというか、物理的接触がなくても十分楽しいから、意識的には何もなくても幸せではあるのかも。中身がないからあんまり使わないけど。中身がないと言ったら、どんな言葉も同じか。中身は込めるもの。

 

なんだっけ。

 

諸悪の根源という単語が目に入ったから考えてみた。

 

やはり、人だろうなと。人に意識が芽生えなければ悪という概念は生まれなかったという意味で。でもこれだとルール外だと思われる。悪は在るという前提条件を共有した上での諸悪の根源。

 

なんだろうな。国家論でも一番悪い国家体制と良い国家体制があって、面白いことにどちらも独裁制なんよな。独裁者の精神性が高ければユートピアになるし、精神性が引くければ地獄になる。

 

未来人と会った話でも精神性の高さの話が出てくるのだが、高いって文字通りに、精神性を標高で観測している感がある。たしかに、感情は上下で感知されるものとされている。むしろこの価値観自体が悪なのではとなっていきそうなのだが。

 

高次元からのメッセージでは、絶対的存在者の意識がまずあって、自分のことを分かるために存在を分けていくことで世界が生まれた(聖書っぽい)。そうして、高次元にも色々勢力があり、存在者から離れるように人を重たくする派閥があるとか。ここが罪悪感とか憎しみとかを担っているとかなんとか。

 

意識に重さがあるというもフィクションだとは思うが、たしかにネガティブ寄りになっているときはその感情に押さえつけられる感はある。ない?

肌感でいう重力と同じ。本日の僕はこんな感じだった。人の中にある自分を考えてしまう。

 

悪の話は諸悪の根源について語り合うログを見せていただけるらしいから、鍋に入れて煮詰めておこう。

 

現実に戻ってきて「身体」の話。芸術学へ。

 

化粧は自分の為にするものだというフレーズは、たしかにそうだよなと思った。

人は体を「再所有」する生き物であるってかなり分かりみ。

 

意識と体を媒介して意識が体を納得するために、化粧とか入れ墨とか装飾品があるって、かなり本質を突いているなぁと想った。身体改造アイデンティティ

 

一番長く過ごした恋人さんがそういう人で、舌ピアス(官能的な略)とかへそピアスとかしていた。僕はこの人のすっぴんが好きだったのだが、だからといってすっぴんで居続けることはしない。今思えば、この顔面改造時間もじっくり眺めれば良かった。その時間では僕しか見られないものだったのに。

 

なんなら、整形したいって言っていたが、ちゃんとできたのだろうか。

 

僕はあんまりこういう齟齬って感じたことはない。

そもそも別物だという感覚なのか、媒介するまでもなく自分であるということなのかは不明。ともかく、お呪いは要らない。

 

という意味で言えば、内部的にはすげぇ自信満々野郎とも言える。

だとしたらアンバランスが過ぎる。

 

ちゃんとバランス取らんとな。

 

自分の嫌な部分も含めて楽しもう。

 

次としては、この素朴な自分で人と関わる試行だよな。

相手の世界に巻き込まれるのではなく、自己主張する。

 

僕は、自分を信用していないが、信頼はしているのかもしれない。

だから直感に従える。

 

では。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。