のこらない

 

 

朝も動くようにすると日中が眠いような気がする。とはいえ夜にタスクを増やすとお風呂読書時間が減るのでなかなか難しい。朝ごはんをなんとなく食べるようになったがこれでさらに筋量が増えるかもしれない。むしろガリガリだが、腹筋はやんわり割れている。好きなように生活していたらこうなった。

 

色々事務処理が溜まっている。今週末は廃棄する物と持っていく物を選り分ける予定。解約通知書の発送は朝時間が余ったら書いて休憩時間に切手を買って送れば良いか。まぁ、やろうとすればすぐできることに心を傾けるのは無駄だ。

 

なんとなく司法書士の資格試験のお勉強をする世界線が見えてきたから、登記法の方も読むようにしなければ。むかーし少しやっていたときに思ったのが、この界隈は観念というより現実の実務重視だし、法解釈よりもたしか行政の告示とかが強かったような。社労士のと労災認定とかも近そう。いや、どちらもちょっと齧っただけですが。

 

 

 

お仕事。

なんだか僕が入った頃より仕事の全体量が増えている気がした。属人的というか誰かの案件は誰かの案件という観念が強い。僕が入った頃が精鋭揃いで、途中からでも誰でもできるという感じだったのかもしれないが、今はぶんぶん最初の人に振り回している。先生が言うところの無駄が拡がっているような。

 

帰り際、古参の先輩の案件を眺めながら暇だったから調べて口添えした。辞めるのがもったいない、淋しいと言われる。ここを自慢と読み取ってはいけない。僕はこれを仕事だと思っていない(領分ではないから)し、親切心からしている訳でもないから。単なる好奇心からの行為。全てはたまたまの一致。こういう自由が利くという意味ではこの職場の空気感は結構好きだった。

 

古参の先輩は好きだが、その下の先輩含めの空気感が一般的になっているのは否めない。新人さん同士でも入ったのが先だったらため口だし、同じ職場においてそこの上下って要らんよなと思う。判断を振るところにおいてはきっちりしないといけないと思うが、そこと敬いがセットになっているのは如何とも。年功序列観念だから人があんまり進歩しないのでは。分断せずにどっちとも敬って、良いものは採り入れて無駄なものは捨てていけば良い。

 

そういう誰かよりも優れている部分で自分を確保するのも分かりみではある。いや、そんな意識はなく、おそらく世の中がそういうものなのだという無意識の動きなのか。

 

年下上司は逆に誰に対してもフランクだが、きちんと敬いがある。

良い人。

 

という感じで、ふと経営学の本の女性のリーダーも男性的でなければならないみたいなところから、このジェンダー論って、男性は競争社会を生きていて、競争に強い個体がリーダーであるべきという思想なのかなと思った。女性は協調的だという傾向論からすると利益に直結した判断ができないみたいな。

 

個人的にはジェンダーの傾向論は何も捉えていないと思っているから、やりたい人が勝手にやってくれという立場。そもそも法人とか資本主義制度からして変な感じだし、家父長制も今やあるところにしかないのではというイメージ。結婚しないと社会的立場が悪いのも、そういう社会で過ごしているからというだけ。

 

壮大な話になりそうだから縮小すると、どんな傾向的な言説があったとしても当人がそれに囚われる必要もないし、相手もそういう風に判断する必要がない。あるがまま。いや、規模を拡大すれば色々あるのだろうが、人ってそんなマクロの世界で生きていない。マクロの世界で主観的呪詛なく表現とか研究できるのであればともかくだが、自分から完全に離れたマクロを考えられるのはそうとうやべぇ人だから、どんな客観論も主観が混じっていると思ったほうがまとも。

 

どうでも良いが、彼氏と居るより女友達と居る方が楽しいという記事に対して、誰かと居る状況を他の誰かと居る状況と相対化することから止めた方が良いと思う。この捉え方って凄く失礼。失礼が当たり前の社会だと無礼が蔓延っているのだろうけも、少なくとも人をそういう風に捉える人と関係できない。

 

 

さておき。

 

個人的な傾向論。

春になると毎年村上春樹さんを読んでいる。毎年なんらかの啓示がある。ファンなのかというとそうでもない。たぶん当人と話す機会があったとしても、作品の文体ではないだろうし。

 

天悟はどうやら才能に溢れる人材らしい。僕は人の才能に嫉妬しないからなんとも言えないのだが、この才能が逃避よりであるというフレーズが気になった。数学の世界、文学の世界に逃避していれば自由であるという感じ。僕も結構色んな非現実に没頭する質だが、避難する為にはしなかった。

 

家庭内離島的な君主がわめき散らしている時には若干逃避したかもしれないが、特に非現実に慰撫されたという観はない。父親が亡くなった後に読んだ「流星ワゴン」(別作者)は感動したが、これは現実と地続きだし。

 

ここでふと思ったのが、創作できる人って非現実的世界に逃避しているというと若干言い回しが悪いが、その世界に片足突っ込んでいる人なのかなって。僕はそういう領域で生きることはできないけども、逆にやってみて良いとも思っている。日記の文字数をもっと増やせば成り立ちそう。

 

あと、天悟が父親に対する評価で、人には根源的に更新したい衝動があるはずなのに、父親には全くないから自分がこの人の子供ではないのではないかという話。

 

たしかに好奇心は人の本質に含まれていると思う。

ただ、合理的に生きるという社会規範からすると好奇心って迂遠ではある。自分にとって都合良い情報だけ採り入れてぶくぶくする劇場で生きた方がそりゃ楽だもの。この楽は自分が自分として苦しいというホメオスタシスも含む。好奇心は恒常性を壊しうるから、やめておけよと無意識が訴えてくる。

 

ここまで。

 

もっと早く書き終わるためには、エンターキーをなるべく使わないようなキーボード操作が必須。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。