関係の中でしか存在しない

 

 

 

微睡みの火曜日。

 

入眠アプリを導入してみた。自然音が何種類かあって組み合わせる。昨日は湖と水たまりに落ちる雨。自然音が良いのか生活音が聞こえないのが良いのか、思いの外よく寝たと思う。しかし、寝た方が眠い。まぁ昼ご飯の後に眠くなるのが健康なのだろうが、おそらく人間に完全に万全な体調というものはないから、影響されずに動けるかどうかの話なのだろうな。

 

行きはなんとなく藤の花が目に入り、いつもは選ばない公園の中を突っ切るルートを選ぶ。散歩している女性も同じ花が目に留まったようで、写真を撮っていた。スマホで撮る行為ってなんと呼ぶのが適切なのだろう。もう写メではないよな。デジカメで撮るのも語源的には写真ではないような気がするが、概念としての写真で良いのかな、良いのだろうな。

 

藤の花の次にはツツジ躑躅だと読めないし書けない。白とピンクと赤が1つの株に混在していて神秘を感じる。植物化学からすればメカニズムははっきりしているのだろうけど、あんまり知らない。もっと思うのは、自然の花は別に人間に綺麗だと思わせる目的(原因)はなく存在しているだろうに、何故愛でられるような色とカタチをしているのかというところ。広く進化論で、生存戦略だったという説もあるかもしれないが、これもあまり知らない。

 

寝た分の余白で余計に考えたりいつもと違うルートを選んだりしたのか。帰りもいつもと違うルートでゆったり草花や他の人の生活の営みを眺めながら帰った。入眠アプリの為にイヤホンをコンビニで新調したためにいつもと違うルートになったとも言える。

 

セブンイレブンが生活圏で行く対象になっていないもので、寄ったのは久々だったが、なんとも近未来ちっくだ。レジはあるが、店員さんは客が機械で会計しているのを見張るだけ。ほとんど袋にも詰めなくて良いし、無人化は近いなと思う。完全な無人化のためには客の倫理観の醸成みたいなものが必要かもしれない。人の目の拘束力はまだ強いだろうし。監視カメラで見張ってすぐ警備員が飛んでくるとかであれば大丈夫か。こうやって考えていくと残る仕事ってなんだろうな。なんだかんだ会話の技術は強いような気がしないでもない。文章は単純な情報ならAIが強そう。あんまり考えてない領域だが、人が人たる所以みたいな部分が残るのだろうなという感触。是でも非でもない第三の道を思考する部分とか。

 

 

ともあれ。

 

昨日書いたあと、やっと自分の見解というものを言語化というかまとまって思考できるようになってきたなと感じた。ただ、なんというか抽象的な指標を前提として云々ではなく、あくまで見解は具体的な対象と接したところで考察されるもの。

 

抽象的な指標というのは一般で言うところの価値観と言われるもので、価値観を語ることでなんとなくその人の性質が分かるというのはあるだろうが、僕はこの意味では語ることはないかもしれない。前もって準備した価値観が通用することなんて同じことが起こり続けるならともかく、現実的にはあんまりない気がする。現実を抽象化してしまえばざっくり是非で判断されるのだろうが、これは思考ではなく反射よな。自己紹介ができない奴。

 

ただ、脳が受け取る情報の整理方法としては、どんどん抽象化して無駄な思考を省エネしていくというのが主流だと思われる。男はこういうものだあるいは大人とはみたいな、概念に経験を収納して過ごす。過ごし方はそうそう変わるものではないから、これでもだいたい正しくは生きられるし、こう生きるべきとまで言えるかもしれない。僕は不器用だから、たぶんほんとに考えないといけないことがあればスイッチを切り替えるということができない。なので、色々考えて現実に還元するようにした。

 

手動でのスイッチもなるべく切り替えを最低限にする。ということで、週1まったり映画鑑賞は採用しようと思っている。大学時代は近くにレンタル屋さんがあったから結構な頻度で観ていた。邦画、邦画、アニメ、時々洋画くらい。しかし楽天TVを眺めたがあまりそそるものがない。ひなぎくで検索してみても出てこなかったし。面白かったとかおすすめより誰かが好きな映画を見てみたい。そうして、私信も送らないようにしたいところ。たぶん「送ってはいけない人」と無意識が決めてしまえば、どれだけ言語化したくなってもしない。

 

 

どうでも良いが、集団の中で居るときに場違い感を感じるなぁと思うことが経験上多々あったが、これって孤独感とも違うな。集団に馴染めなくて寂しいみたいな心情はもちろんあったかもしれないが、適切に名前を付けるなら、単なるいたたまれなさだろうなと思った今日この頃。1人で完結できると集団固有の温かみにありがたさを感じない。ただ個々の人は好きだから、1対1がよりよく人を読むことができるし、ちゃんと接していると思える。単なる社会性がない言い訳みたいだが、より適切に言語化しないと。人は埋めるのではなく足すものだ。

 

こんな感じで、誰かにとっての自分の価値に囚われず、もっとどっしり、というかふわっとした存在感で居ようと思う。淡々と存在を垂れ流す。

 

では、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良く寝られますように。