自己叙述

 

 

 

波が好きだ。

 

 

 

頭があまり働かないと思うのはきっと深く眠った証左だ。帰ってくるまで時間がかかる。あまり文字が読めていない気がするが、これも言語として頭の中で可視化されないだけで、もっと深いところで読んでいるのかもしれない。

 

 

なんとも暖かくなった。お昼に空中庭園に行ったら、熊蜂と足長蜂がぶんぶん言っている。地元ではくまんばちと呼んでいたなぁとか思いつつ、ボタンの花を見ると若干しうなだれていた。植物は直射日光避けられなくて大変だ、なんて捉えてしまうのは主観の偏り。ほんとは花がしぼむ方が植物としては次の巡りに移行できて良いのかもしれない。

 

昨日自己紹介ができない奴だと書いたが、同じ標準で考えると他人のことも紹介はできないな。誰かに別の誰かを紹介するなんて自己紹介より難易度高い。当人に自分の印象を語るならともかく。だから、友達の友達は友達みたいなのが雑くて嫌なんだな、たぶん。

 

生活はなんとなく、ゆったりしている。仕事が終わってからの徒歩はまぁまぁ早歩きだが、ルートを変えたり、本日は母にラインを送ったりしていた。あんまりメッセージを送らないのは、高確率で着信があるからなのだが、例に漏れなかった。

 

自分が偏屈になったからかもしれないが、久々の通話で選ぶ話題が世の中大変だ、ってなんなんだろう。理解はできるが、個人的にはもったいなくないのかと思う。別に何を話すかは自由で、悪いことを共有して何か満足できるのかもしれない。いや、何かしらの対処を余儀なくされる職種とかだと分かる。予測を立てないといけないし話し合いも大事。ただ、何人がどうこうって、いくら増えても個人レベルで対策も対処もできるようなことではないよな、と。そんなことよりもっと面白いことを発話した方が良いのでは。それとも日常に面白いことがない、そんな訳ない。

 

言葉が感情を呼び出すコマンドだとするなら、悪いことは言語化すると感情を増幅させるはず。という文脈で、愚痴とかも言わない方が良い。ただ、感情を溜め込むのも良くないとも聞くから、どちらしかないということでもなくバランスなのだろう。言葉による認識はとても印象が強くなるが、距離感大事。聞き役だったから人の愚痴はよく聞いていたが、愚痴で何かが良くなった人って居るのかな。愚痴を言っても良い人だと認識されるくらいで、これは特に良いことでもなく。バランスとるために心にもない愚痴を述べなきゃならなくなる。

 

あー、やはりこういうこと考えると言葉が詰まってくるな。良くない。

 

そういえば、本日考えていた数少ない思考。見解はまとまった思考だとして、日々の刹那の判断はいちいち考えて行っているものではなく、この反射の領域には経験則を前提とした標準があるよなということ。社会的な一般常識に重なる部分もあるが、包含されない個人の癖みたいな部分もあるから、これをあえて言語化すれば自己紹介にはなりうる。

 

食材は同じものを続けて買わない、小さい子が居るときは徒歩で赤信号を無視しない、外でもお弁当の具を落としてしまったら拾って帰る、毎日午前中と午後にそれぞれ水を550ミリリットル買って飲む、難しめの本は何回か読む。ちゃんと目を開いて日々を過ごす。レジではだいたいお礼を言う。

 

好き嫌いに関しては語るのは難しい。場合によるのではという感じがあるため、傾向としての自分でさえ言語化できないという思想。本とか文章を毎日読むが、好きだから読んでいるとも違うし、ほんとは趣味ですらないと思っている。一応外用の語彙ではそれでしか表現できないからそうしているが。好き嫌いは目的っぽいからか。いや、なにか雑な感じがあるからか。

 

内部を探るとかなり細かいな。別に人一般がこれくらい細かくあるべきなんて思わないから問題ないが。頑張るは自分には使わないし、頑張れもなるべく使いたくない。お疲れ様も挨拶だと思って使っているが、ほんとは言葉としてどうなのだろうと考える。ごきげんようとかの方が良いのでは。いや、この話はほんと細かいからやめておこう。

 

音として知っている言葉を手で書けるのかというのを左手で試していた。たぶん手で書ける言葉の方が一体感があるだろうなと。挨拶が書けなかった。鬱陶しいは、鬱の部分は書けたが、陶の部分の中が米になってしまった。鬱はむかーし難しめの文字を書けるように練習したことがあるため書ける。中が必じゃなくて※なんだよな、たしか、なぜか。この辺りも一致させておきたいところ。手で書ける言葉だけを文章で用いる、みたいな。

 

ほんとどうでも良いところばかりで生きている。仕事が続いているから最低限の社会性は持ち合わせている、ということにしておく。

 

そうして冒頭に戻ってきて。入眠アプリの自然音で一番しっくりくるのが波の音だった。虫の声は森の中で住んでいたから合うかと思ったが、実家に安らぎを覚えないため駄目だった。山の人だから海を求めるのかもしれない。一定のリズムが良きなだけかもしれないが。

 

自分の傾向も良く分からないところはある。とすれば、人の見て取り易い傾向だけでは何も知ったことにはならないよな。どれだけ近く過ごしてもほんとのことは分からないし、ほんとのことが分かったとして、それが近さを継続させることとも限らないし、人と人の間はとても難しい。でも互いが分かろうとしなければ継続することはできなくて、ループループ。

 

なんだか二次的な自己紹介みたいになってしまった。

 

ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。