存在

 

 

「むしろ周囲の人と生きていると自覚している一般人の方が、傍観すれば、意見も知見も交換せず、一人で生きている、いわば孤独な生活といえます」

 

 

某AIの見解。僕は意見も知見も聞くの好きなのだが、人って基本的に出来事ばかり語るよな。孤独ちっく。

 

 

さておき。

 

変なスイッチが入ってしまった。内省および反省スイッチ。恥ずかしや。こんなのお酒を飲んでないとやってられない。(こら

 

日記検索で足跡があったものだからそのとき書いた日記(内々)を読み返したのだが、すごく淡々としている。どんな語句検索だったのだろう。ともあれ、僕の文章がナイトキャップになりうるのも分かる。何人かそんな自己申告をしてくれた人が居た。小難しいこと読んでいると眠くなるもんな、そういう話ではない?

 

昨日の日記も読み返してみたが、誤字がひどかった。そのままにしても読めるだろうという感じだから放っておく。あえて言うなら、哲学の方程式のとこだが、言葉で方程式を作ると表意的記号としての言葉では完全なものはできないということ。自分の中でのある言葉は完全かもしれないが、読み手からすれば読み手の中での言葉になるから、正確にはなり得ない。この辺りが悟性的認識の限界なのだろうな。

 

今日はよく寝ていたのだが、微睡みの中で「人間らしさ」について考えていた。

 

人肌への恋しさが人間らしさにならないと思うのは、きっと人間以外でもあることで、要は「動物らしさ」だから。眠いと不機嫌になるとか、空腹だと云々とか、ストレスで変なことになるとかもここに含まれる。ざっくり動物=人間とするなら別に人間らしさでも良いし、分析する必要はない。人間観が雑過ぎないかと思うが、そんな人とはあまり話さなければ良い。

 

例えば、「働かざる者食うべからず」とかアリとキリギリスの教訓みたいなことがあるが、これも虫すらやっていることだから、「働く」ことが人間らしさとはならない。社会的立ち位置と人間であることは別の話。

 

結局のところ、人間らしさは世界を変化させることにあるのではという仮説。環境を変えることは他の生物でもできうるから、内部の世界観を再構築できること。要は、解釈によって世界を改変できる。

 

そうして、解釈の素になるのが言葉である。言葉を扱えるのが人間の固有性だが、情報を伝えるだけなら他の動物にもできる。言葉を扱っているようで言葉に扱われている人多いよな。これって外から分からないようで、読み味で分かってしまう。ちゃんと言葉を扱っている人の言葉は味わい深い。冒頭に出てきた小説家さんの言葉の扱いはとても美味しい。

 

今読んでいるSFは、脳の情報をバーチャルに完全にトレースできるし、人が現実で感覚できることも再現できるようになっているのだが、それでも、何か在るのではないかということを主人公が思考している。これ作者さん自身の思考なのだろうなと勝手に思っている。別に一致させて読んでいる訳ではないが、ときおりそういうのがにじみ出ているのが美味しい小説だと思う。だから、某人の小説とか制限している人のは読めないのだよな。白夜行は読んだが。

 

人間らしさも突き詰めて考えればかなり難問だ。現象学のPDFで内省をすることでしか真理は分からない」というのがあったが、僕はこれに賛同したい。内省ができることが「人間らしさ」。動物は反省して改善することはできるかもしれないが、ただ、自分を省みることができるのが人間の固有性。

 

昨日の日記の僕の遊び人具合(?)も、開示するのはどうなんだと思うが、単なる内省。割と全部生々しい。街並みとか匂いとか、僕の感情とか。内省は自分の過去から教訓を持ち帰ることではなくて、自分の過去にはこういう出来事があったというだけ。

 

 

そういえば、どの映画を見るかで探していたときに、タイトル見ただけで色々再現された。「ぐるりのこと」で、女性の手は小さい方が良い、何故なら○○(下ネタ)って、たしか深夜にテレビ流しているときに見た。深夜食堂は直近の元恋人さんとホテルで見たな。

 

という感じで、僕は記憶力がないと思う。記憶力って、他人事の情報をどれだけ再現できるかという話であって、自分の話ではないだろうし。伊勢神宮とか高知ののれそれとか出てくるがともかく。

 

そうして、デカルトさんの「像と形而上学」という章を読み終えたのだが、これもほんと難しい。ここでいう「像」ってなんという定義なのだって語られないし、形而上学もよく分からないし。事柄の奥に本質があるみたいな学問だったっけ。

 

ただ、芸術とは、それを通って「存在が顕われる」というのはなかなか面白い。ここでいう存在者もきっちりと定義されている訳ではなく、「何か在るかもしれないもの」みたいな感じで、鋼の錬金術師の真理の扉感がある。ここで言う存在者って「神様」であっても良いのだろうな。デカルトさんが何か信仰していたかどうかは知らないが、観念を突き詰めて行けば人知の外になるから、これをどう解釈するかはそれぞれ。

 

僕は無神論者だが、人知の外にある何かは信じているところがある。たかだか人の認識で世界は把握し切れるものではないという意味。人は段階的に必要な人に出逢うというのも、結局は中の話であって、とっかりは自分の中にしかない。

 

存在を一言で述べられる人って居るのだろうか。こう考えていくと、現実とか事実とか生活とか確固とした世界を形成している言葉も揺らいでくる。

 

人の存在で言えば、生身で接している人は特に存在ではなく、そこから抽出された本質が存在だと思われる。自分にとってどうかという話ではない。どれだけ周りに人が居ても孤独感があるのは、自分の本質に届いてないからかもしれない。

 

僕は割とちやほやされる側というか一目置かれる側だったから、周りに人が居ないということはなかったが、そんなてきとーに見られることは脱した。三十路過ぎるとお腹が出てくるという定説だったがいっこうに太らない。体が薄すぎるのはお祖父ちゃんからの遺伝なのだろうか。貫禄がないが、別に貫禄に価値を置いていないのだった。ケアしているから触り心地は良いと思われる。すべすべって言われていた。触ることは触られるのと同義だからこれくらいは当然。

 

 

僕はここにおいて言葉として存在しているが、別に自分自身と連動させてはいない。自身の言葉の方がなんなら文字数も多いし、文字数と自分の本質は無関係。ただ、言葉で表現できるものが事実だということも分かる。言葉をどれだけ扱えるかというのが文字世界だと優位になる。

 

が、外付けの言葉を綴っているだけだと美味しくない。

 

 

では、おやすみなさい。