言外

 

 

朝から外がなんとく身重。地球の重力に囚われると、ちっぽけで何もできない気分に浸れる。開いていないなという感じ。なので、内部の方で色んなことを見かけに行った1日。どんな時でも動くのを止めない、挙動不審である。

 

先に晩御飯。

 

気を抜くと食べるのが面倒になる。朝は食べたが、昼はタイミングを逃してお土産の鶏皮揚げをいただき、夕方にスーパーに行ってサラダ巻き4切れをいただく。どちらも美味しい。家に残っていた豚肉で焼き肉をすることにする。これだけではメインが少ないため、お刺身を少し買おうとおもったが、ちょうど良いサイズが無い。なんとかマグロの短冊を買った。

 

切れ味が悪くなっている関孫六の包丁では上手くお刺身にできなかったため、急遽ユッケにすることにする。めんつゆとわさびとすりごまでタレを作り、ウズラの卵はないから鶏卵で流用。黄味だけ取り分ける。卵白はレンチンしてリーフミックスのサラダにかけた。刻み海苔があれば尚良かったが、なくてもじゅうぶん美味しい。

 

さておき。

 

純文学ならぬ、純日記というジャンルを見かけた。読んでないから分からないが、なんとなく自省録(内省録?)みたいなニュアンスがある。僕はあまり他人の生活を覗くという感じではなく、内部の移ろいを眺める方が好きのようなので、記録の中に思索パートが入っている文が好き。あまりないけども。ある意味、生活パートは近くに居さえすれば見られるものだが、思索パートはもっと私的な領域な感じ。ここでは疎通の為の言語は流用できないからなかなか味わい深い。

 

とはいえ、文体自体が中身を暗喩しているとも言えなくもないのか。

ここはまた後で。

 

 

机に向かっている時に流すBGMは歌詞がない、作業用の音を流している。なんとかヘルツとかも試してみたが、最近はもっぱらクラシックを聴いている。邪魔にならずに没頭できるというか。全然理論的な側面は分かってないし、違いも分からない。

 

これをYouTubeのAIが学習したのか、街中のピアノが置いてあるところで即興パフォーマンスをする動画が流れてきて、ふつうに感動した。音楽の巧拙は分からないがなんだかエネルギーが流れてくる。こうやって世界に表現できるのは凄い。表現が誰かを揺り動かすというのも。こうやって動きが誰かにエネルギーを分配できるまで昇華できるというのは人間の醍醐味よなぁと。なにより、パフォーマンスしている人のてらいない笑顔が良き。

 

音と言葉も相似なのかもしれない。響きとリズムで本を読んでいる節もある。

僕のはリズム感としてはどうなのだろう。ピアノの運指を眺めて、奏でるように言葉を綴ることは可能なのかを考える。たしかにスマホのタップよりキーボードの方が多弁になれるし、物体としての紙に書く時も指が偏る。

 

文をメモ的な記録と捉えれば、なにやら重力に囚われた物体的な建築物とアナロジーになる。分かるような分からんような。言葉が物として存在しているって嘘やろ。

 

だから詩人が存在する。

 

そろそろ本題。

 

僕はこの人生において、おべんきょすることを楽しむ為にやってきた宇宙人なのではという結論に至るのだが、とりあえず順を追って。

 

本を読むことは僕にとって、自分の仲間を集めることではなく、付着した偏見を拭き取れることにある。いつでも外からこのルールに従わねばという感じがあった。

 

スピリチュアル系でフォローしている人はなんとなくちょけている(世界で遊んでいる)から好きなのだが、その繋がりで、不食を実践している人が居て、まぁそれも存在としてあるだろうなと想えるようになっている。僕も時々毎日食べるのは面倒だなぁと感じる節があり、そのうちやるかもしれない。美味しい物だけ食べたら良いのだよな。

 

やれやれ。

 

ここから、宇宙人の見分け方の動画を見かけにいく。

 

これ、かなり面白かった。

曰く、自我の比率がやたらと低い、人間社会の普通のルールに馴染めない。

 

前者の方から。

たしかに僕は、存在として陣を取ることがとても苦手。場所を取ったら人格が確立するというのが、うさん臭くてたまらない。その場所って、内部から来ているものでは決してない。だって、場所(空間)の観念自体が外付けだから。

 

こういう文脈だと、僕も流す側になりたいのだが、まだまだ修行が足りない。

 

 

後者の方も、人が現実としているルールって素朴から来ていることはほとんどない。まぁ僕は学校について今思えば監獄みたいなところだったなと想うだけで、それについて特に怨嗟もない。青春という概念も自由だったとか全盛期だったみたいなところがあるが、スポーツ選手でない限り、肉体の経年と精神の経年は全然連動させなくて良い。日常の動作で衰えるとか嘘やろ。それほど意識的に自分の体を動かしている訳でもないのに。

 

そういうものだというところに従っているだけ。

 

ダーツ再燃は、今の方が自分の体を自発的に動かせるのではという節もある。

今の方が上手く投げられそう。

 

外から現実を見てしまうのも、下手すれば解離性なんちゃらになりそうだが、別に精神に欠陥があると診断されることはない。場所は演技場みたいなところだし、素朴を開くところではないし。

 

僕のことを貴方は月の人だと評した人も宇宙人かもしれない。

 

この世界のルールを学ぶために法律学に寄ったというのもなかなか面白い説ではある。

言葉は演目だという説は、我ながらなかなか。

 

ほんとはもっと書き込む予定ではあったのだが、書き込めなかったところで僕の存在として不満はない。そもそもがお裾分けだし。

 

はい。

 

おやすみなさい。

 

良い言葉を。