ぬくもり

 

 

ほとんど通常営業の二重に戻った。昨日はちょっと痛かったから悪化すると思ったがもうちょっと違和感あるかなというくらい。「ものもらい」を聞いている。この歌も好き。どこからが自分か。

 

さておき。

 

予定は半分くらいしかこなせなかったが自分の工程には無茶振りするから大丈夫。ご飯もちゃんと食べているし、月がとんがっているのも見えた。何よりまだ1日あるのが良き。精神も凪いでいる。だいたい仕事時間と同じくらいは解いていたのかな。

 

楽しみと苦しみはとても近いところにあるのでないか。別にドMでもないが、なんなく今日を楽しんだ気はする。まぁ苦しみにも諸々の類型があって理不尽なものは楽しくない。ただ、自分の意志で負荷をかけたことによる反作用みたいなのは楽しみに含めて良いのではなかろうか。あと、楽しみには一般的には娯楽が含まれるが、僕は受動的なのはどうも楽しくないかもしれない。それによって自分が変化するとか頭使うなら良いのかもしれないが。

 

メディア論の映画は気散じというのはとてもよく分かる。白痴は言い過ぎなような気もするがヒーロー譚とか勧善懲悪なスッキリ観を現実の価値観と一致させるのは、あるいは。要は。芸術が人の価値観を決めるって当然な気もするが。

 

僕が、僕によって人が寛いでくれている姿が好きなことの解釈が1つ。「不在」から。この物語では主人公の父親はろくでもない人で、殴ったりしていたみたいだが、僕の父親は酔っていても特に高圧的になったり、暴力を振るったりはなかった。そうして、主人公とこっそり出歩くときが一番気を抜いているように見えたというところがあって、あぁ、そういえば、父親が気を抜ける場所はあったのだろうかと思う。パートナーや娘たちには罵倒され冷たく当たられ、息子は無関心。ここのひっかかりもあるのかもしれないと考える。この観念だとすればもうちょっとうまく使えるはずだが、使えた試しがない。

 

そういえば、「思う」と「考える」は主観と客観というか公用文書では書き換わるくらいな意味合いだろうが、ここではどういう使い分けなのだろう。と、考えると、思うは浮かんだままで、考えるはその後に思考が加わっているような感じ。無意識でやっているだけだが、使い分けが違うと何か違和感がある。

 

 

そういえばを重ねて。考えることはネガティブに向かい行動はポジティブに向かうというフレーズを、久々に眺めたTwitterで見た。僕はあそこでは呟けないのだが、なんというか時間経過を感じない静止画みたいな場に見える。いや、それぞれの時間は経過していているのは言わずもがなだが、人が止まっている。これでは解明できていないか。言葉の量は多くても結局は同じことをリピートしていてなんとなく人間味を感じない。人の観念の集合体として見ればまぁそうなるのは分かるが、あんまりのめり込んだら主観時間が吹っ飛んでしまうなとは思う。

 

そうそう、考えると行動の話。僕はネガティブ傾向も人には必要だという立場が前提にあるがともかく。確かに行動は実際の移動とかどうより、脳が活性化するから、なんかいい気分になるのは分かる。走っている人とか筋トレする人とかそんな感じ。脳の活性化というのは、要は生活で使っていないところを使うことで刺激になるというということ。楽しみの領域かも。

 

ただ、考えるが必ずしもネガティブになるかというと微妙なところ。ネガティブになるのって、それってそもそも考えているのではなく思っているだけなのではというのがまず1つ。確かに内省って暗がりに向かうが、自分を識ることは大事。ただ、この文脈だとその先には実践=行動があるから、考えるの定義が違うのかもしれない。

 

もう1つが、考えることは普通は言語で行われる訳だが、言語の操作性からして、何か身の丈に合わないことを言語化しているのではないかというところ。言語で考えられた自分と、実際のギャップに絶望してしまう。内部的言葉は制約なき自由だから、なんとでもできてしまう。ありたい自分が言語化されると大変かもな。

 

僕の中では、考えることも体の操作とそんなに変わらない。自分が考えることができることの上限は考えてきたことの集積であって、言葉の操作性には丸投げしない。この意味での操作性は、自分が知らない、なっていない言葉でも容易く自分のものとできることであって、自分で解明した言葉を使い分けるという意味の操作ではない。

 

言葉はファッションにもなりうる、なかなか恐ろしいもの。実際になんとも思ってなくても悲しさ嬉しさを表現できるし、ある意味現実的バーチャルを形成できるから、動かないで済むのだろうな。人間は動物だから動いてないと滞るのは当たり前。

 

動物といえば。柴犬と猫と鳥(種類忘れた)の動画を観て癒されている。コメントを見ていると、感情がある=人間と等しいみたいな観念があり、なるほどと思った。この前髪を切りに行ったとき、女性の店員さんに髪を洗って貰って気持ち良いな感じた(変な意味ではなく)あと、人が、人とか動物とかと近く居たいのは、自然法則とは別の法則(意志・感情)で動いている存在を求めるからなのだろうなと思った。細かく考えると何故かには色々ありそう。例えば、同類を感じることで自分の存在を確立するとか、意志によって求められることを欲するとか。

 

これもついったなのだが、世界から退場しない理由というのに、自分が居なくちゃどうなるか分からない同種が居ることがあるというのは確かにと思う。どんな関係も継続していく上で、程度は違っても共依存関係がある。誰かに必要とされるって気持ち良いというか、苦しみと楽しみの共通項にも近そう。

 

自分が個体でも存在できるとするのは難しいから、人は共同体という制度を創設したというより、流用したの方が近そう。自分が生きていて良い理由をどこかで作らないといけない。自我の弊害。一応建前としては人は生きているだけで貴重だとされているが、実は(社会に迷惑をかけない限り)だったり(私を煩わせない限り)だったり。

 

今日スーパーに行ったら相変わらず動線を空けてない人が居て、こういう思考は想像力とか気遣いで、人はこれを資源というか資産にしている感がある。使ったら減るもの。ほんまか。だから身内だけ大事にする人って信用ならん。

 

僕が溜め込み傾向だからかは知らないが、おべんきょって、どれだけ中身で蓄えるかというよりどれだけ思い出せるかにある。僕のイメージだと人の脳内にある情報は圧縮ファイルみたいなもので、その鍵は、余白なんじゃろなと思う。脳には入っているが、現実化できないことが記憶力の欠如と呼ばれているような。

 

人の頭の中なんて覗けないし、自分に見えたその人の情報だけでその人を判断するのは違う。自分もそういう風に判断されたら嫌でしょう。いや、僕はそういう風に判断されて問題ないが。

 

新刊枠の挿絵付きのはなかなか哲学的なフレーズが多い。「心は1つじゃないの」とか。

 

個人的に心は複数説。これに至ったのは本を並行的に読むようになったからかもしれない。対象によって、自分の感情は変わるし、なんなら、自分が持っている情報をその対象にも持ち寄らない。これは人に引き直すと、ある相手には情報を知らないで通すし、聞いてくれる相手にはいっぱい話せる。まぁ心がいっぱいあったとしても体は1つしかないから現実的な意味において何か不具合があるということはないのだが。

 

 

でも、人を知ろうとしたとき、それを向けられた人は固有の好意と思ってしまう。だいたい重なっているが、我ながらあんまりしない方が良いと思う。この方向の行先は自分の犠牲だし。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

急にあったかくなったので体調崩しませんように(大阪感)。