つぎ

 

 

「関係は簡単な方がいい」。「不在」。一方的に助ける方が良かったとか、分からんでもない。でも、自分が優位でありたいからではないな。しかし、母親からの通話にイラつくのは一緒だ。ただ、いつも怨嗟の炎がある訳ではなく、たまたまおべんきょから仕事日に切り替えるためのアイロンがけをしてからご飯を作ろうとしているときにかかってきたから。

 

他に代替できる何もしていない時間なんてほとんどないから、どこかで無理やりねじ込まないといけない。自分が決めていないということが嫌なのだが、母親にアポ取らせるわけにもいかない。器が狭いということではないと思う。たぶん。決めてしまえば緩い。

 

 

さておき。

 

素面の試験前でもほんと通常日と同じくらい寝た。眠るためにお酒を飲むというチェックが外れた。最終的にはただ飲むために飲む、で良いのだろうな。平常との違いとしては、よほどもう一つの世界線の方に行きたかったのか、夢に出てきた。ちょっとだけ肉感的だが官能的でもない。どういう関係か分からないのだが、布団二枚をL字に並べていて寝ていて、「パンを焼いてきて冷蔵庫にハムもあるから」と言われ、準備する。そのあとなんやかんや、1枚の布団に上下逆で寝ており、「入って来るな」と言われつつ、特に無感情のハグで終わった。

 

現実的な接点としては唯一といっても良い場だから無理もない。ずっと準備していたおべんきょの試験と、ぎりぎりの天秤だった。来てほしいって言われたら、傾いていたかもしらない(そんな世界線はないが)。こういう、何かと何かが同じくらいで重なることって人生上多い気がするのだが、他の人はどうなのだろう。ゲームみたいで楽しいっちゃ楽しいが、なかなか気が抜けない。最初の選択としては文理選択だったのだろう。言葉のへの無意識からの興味で文系にしたが、同じくらい数学ができていた。理数系に進んでいたら、今自発的に苦労している微積分もちゃんとできるようになっていたのだろうか。

 

というのも、今日試験受けていて思ったのが、物事の収集の仕方というか容量って、ほとんど一生同じなのではなかろうかということ。僕は物事をふんわり直感で捉えるから、言葉の雰囲気とかは分かるが、厳密にとか体系的というのはとても苦手。でも数学的な厳密性にはちょっと馴れてきて、結局法律学も言葉の学問だからふんわりしているなというのもわかってきた。ただ、ふんわりが多いからもっとちゃんとしないとなとは思う。

 

要は、対象のことは最終的には解らないでも良いが、もう少し分かるようになりたい。というか、なれるはずみたいな意志。

 

ここを突破するためには、意識的に生きるだけでは足りなくて、蔑ろにしてきた意志的に生きるということが大事なのだろうな。別に何かになりたいとか何かを得たいとかという目的に向かう意志ではなく、自分が相手にしたい対象はこれだという意志。

 

帰り道、人が多いのが嫌だから道を外れて、会社が違う駅まで歩いた。何やら健康のために歩いている風な人が居て、「貴方は健康のために歩くのか、僕は移動のために歩きます」って追い抜かす。移動のために歩く=早いとは限らないが、自分の足のポテンシャルを甘く見ている人って多いような。こういう意味では意識と意志は連動しているとも言える。無頓着に歩いている人は苦手かもしれない。風景を気にしてゆっくり歩くとか、綺麗に歩こうとしているのはとても良い。細かい話だと、別に追い抜かす程の歩速でもないのに拡がるとか。いや、抜いて一直線になれよって思ってしまう。まぁ、こういう意識が優先順位低いことも重々承知しているし、自分も気を抜くとそういう動きをしがち。

 

そんなことより自分の話。

 

意志が弱いと常々評されてきた人生。優柔不断だって。ただ、僕にも言い分があり、ほんとにどっちでも良かった。何かをしたいということはないし、気分はあっても天秤に乗せないし。ここ何年かは、ほんとに駄目なことはしないようにして、どっちでも良いなりにどちらにしようかなみたいで決めるようにはなった。もう1つあるのが、対人だと選択権をこっちに譲っているようで、なんだか自分の決めたものがあるという人もいるから、天秤には相手の気分が載る。いや、決めてないのは(決めさせようとしている)のはどっちだよって。

 

ただ、こういう素をやらないというのはなんなのだろうな。むかーし、母親と姉が喧嘩していて、〇はどっちの味方なのって言われて濁したことを思い出したが、素だったら両者の言い分を聞かんと分からんわって言う。素では居られないのが生活関係という強迫観念があるな。母親は基本、自分のことか誰かの悪口が多いのだが、説得が強いとは思わないし。

 

自分がこうだ、って言い分には誰かに共感させようとしていないから理解が働くが、あんたもこうだよねって言われたら、うーんってなる。感情に巻き込まれてもなぁ。

 

なのでかしらないが、今日の通話はあからさまに不機嫌で通してみた自分。

気遣いなんてしたくないし、誰かの安心の為にも生きたくない。

 

あぁ、僕が人の心を感じるのは意志なんだろうな。

意志は慣れでも関係でもなく、対象とは無関係のもの。相手に好意を持たれているからとか、相手は勝手知ったるものだからという条件が付着したものではない。ただ、自分がしたいかどうか。

 

僕としては、もっと文章を意志的に読もと思う。専門書と小説はやっぱり違う。

ほんと、自分がここまで言葉が拙くて良く生きていたものだが、もっと内部では細かくしていく。

 

こうなってくると人のことはどうでも良いのに、なんで残っているのか。

不思議。

 

では、

 

おやすみなさい。

 

祈りはどうでも良いからできること。どうでも良くなかったら保護したくなる。

 

良い夢を。