自発

 

 

地面が揺れる夢をよく見る。何日か前は書かなかったが、自分が住んでいる所が倒壊したがなんとか生き残った物語。本日は、どこかのビルの地下に知らない人達20人くらいで閉じ込められるという話。それぞれ分かれて支柱部分に寄り添わせ、あぁこれやばいかなと思いながらも皆を元気づけていた。そんな役割する奴かと思ったが、僕の本質はたしかにそういう柄かもしれない。自分で安心してくれると嬉しい。

 

災害対策マニュアルみたいなものは読んでないが、支柱という最も丈夫なところに寄るというのは理に適っているのかも。

 

これ退場かな、という感情がとても生生しい夢だった。

 

 

さておき。

 

何日か前に憑き物という言葉がふと浮かんで、頭の中に響き続けている。憑き物は割と落としてきたが、あと残っているものは何だろう。

 

ということで法律系試験の話。本日合格発表があり、割と合格している気満々で次の準備をしていた。それ用の書籍も今朝楽天ブックスでポチってしまい、先ほど発送しましたという通知が来た。

 

この文脈だと先は読めると思うが、僕の番号はなかった。残念とか悔しいとか申し訳ないという気持ちが生じて、帰ってからのルーティンが遅れてしまったが、なんとなくすっきりしている自分がいる。ずっと続けてきたことだが、そろそろ逃げても良いんでないって。逃げると言っても、本を読まなくなるということはもう1生ないし、応用神経学からする「学び」へのモチベーションから言っても軸がズレている。

 

ふふ、リベラルアーツの本を追加し不謹慎にもほくほくしている自分が居る。

 

応用神経学でいう「学び」って、自分が選択して予測を立てて、その差分でドーパミンが出てくることによって記憶にも記録にも定着するということだが、強制的なおべんきょは予測値が立てられない。それでもするというのが義務教育であり、試験の点数という報酬で釣り合いを取っている。

 

僕にとって、法律のおべんきょは能動性というより、受動的な流れがまずあった。法学部に入ったし、就職の時にちょうど法科大学院が新設されたし、就活よりは良いか流れ、受け続けるのも流れになったから、起点の時点から自分で決めていない。告白されて付き合ったみたいな関係。

 

で、思考とは何ぞやという応用神経学で、論理というより、過去の自分のデータと対象を結び付けて、自分ごととするということらしい。この前の啓発本とか、法律以外の本であればそういう思考が働くことを考えても、自分ごとにできていない、しないという脳としての拒絶があることが分かる。

 

思考するというのは、言語に引き直せるということでもあり、言語化できなくてもイメージ化はできるということにある。イメージ化の拡張の中に法律はないんだよな。日記で言語化できないのは、他人事でしか採取されていない。日記は自分の言葉で書きたいし。

 

そうして、もっと掘り下げると、素朴な僕の思考からは最も離れているのが法律的思考なのだろうなというのが今更ながら分かる。完全な論理でもない、一般的感覚を持ち寄った形式。論理則とか法的三段論法とか経験則とかそれっぽい科学的な方法論はあるし、常識の極致なのだろうなとは思う。まぁ、苦手なことに挑戦したという意義はあったし、この苦手なことが、全然個別的なものではないというのは十分分かったのではという感じ。

 

僕は綺麗で整然とした優しい文章を書きたいが、論理的であることなぞどうでも良い。

 

やっぱりどうでも良かったのだと知るための10年。

 

ちょっと休もう。

 

法律書はほぼ読まないようにするし、時間枠ももう少し余裕を持たす。

 

おそらく趣味的には読むだろうが、もっと「したい」に寄った方が良い。

森にも行くし、会いたい人にもアポを交渉してみるとか。

 

僕が法律の機能として興味を持ったのは、有事の紛争としての裁判というより、ルールが意識されない不文律としての法律だった。これを法律事務所の面接の時に言ったら有資格者にきょとんとされた。有事でご飯を食べる職業だもんな、きょとんも分かる。

 

まぁ過去を否定はしないが、これからどうするかだよな。

 

言葉の扱いとしても、法律学は細かくて狭い。論文試験というものがあり、最難関だが、採点対象である以上、知識的な言葉がほとんど求められる。事実と概念を繋げるというための論証って面白いが、結局は自分の言葉でなくても良い。ある裁判で、裁判所が判決を書いた文章の要約とか、なんとか。

 

たしかに読み物としては面白いが、自分がそういう風に書いて面白いかとなると全然違う。まぁ試験だし、面白いかどうかなんて問題になってないし、ただ、僕は自分ごとに還元されるかを問題としている。

 

 

という意味で、このおべんきょも憑き物だったのかもしれない。僕はもうここから離れて文章を書けるし、発話もできる。

 

自由すぎないか。

 

まぁ調整は大変ではある。親には期待してくれてすまんが、もう期待しなくて良いです、余剰が起こったら投資してくれ分は分配しますで良いか。仕事場では、もうちょっと腰を据えて深くやってみたいのだが、給料上げてくれるかという交渉とか。

 

自信の話も応用神経学にあって、自分が何をしているかをちゃんと把握できていることだた。日記ではまさにそう。自分が何を書いているかは把握している。

 

ただ、関係性になる相手の立場が先に来るから次元が増えてややこしい。

 

あ~、解放感。

 

人生もっと楽しくなるな。

 

という感じでおしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。