現象

 

 

現実では夏がすぐそこというような蒸し暑い1日だったが、始まる前の夢では白銀世界だった。雪の中で繰り広げられるアクション映画で興奮したところ、終わった後も真っ白で、誰かと連れ立って歩いていた。お互いもこもこした服装で、坂道というか、道が付いていないただの坂を先に上り手袋越しに引き上げたとき、何かの感情が生まれる。

 

坂の上は川に沿った少し高い道になっていて、道なりに歩きながらその感情について話しあう。帽子も被っているしもこもこだし、夢の中の人物はあまり実像を伴っていないのだが、おそらくモデルは小学校の同級生の女の子。

 

走るのが早くて5年次に僕と同じくらいのタイムで、ちょうどその頃に家が火事になって転校して、中学校の時か高校の時と別々の学校として、あと、その後1回どこかで会ったかなというくらいの人(たしかそのときは化粧をしていた)。名前が平仮名さん文字で、3姉妹一番下で、いやさらに弟がおったなとか薄っぺらい情報が思い出される。

 

そうして、感情についてだが結局、答えは出ない。「ただ、温かった」と僕は言う。

 

目が覚めたとき、たしかに心が温かくて、あぁ恋愛感情ってこういう感じだったなと思う。

セルフ惚れ薬みたいだ、この心境で誰かのことを考えたらきっと好きになってしまうとか寝ぼけた頭で変なことになる。

 

二度寝の前にちょっとここについての考察。確かに、僕の夢の世界には温度がない。白銀世界でも全然寒くはないし、誰かに触れたとしても「感触」はあるが、温度はない。でもこれって、精神世界全般に言えることよな。温度を感じているのはあくまで体であって、頭の中には温度という概念があるだけ。感情も温度と連結しているように思うが、あくまで反応しているのは肉体であってそこからのフィードバックを頭が解釈している。そういう熱がない世界に熱をもたらすのが、こういう感情なのかなという解釈。言葉は当てられないが、ないはずの熱を感じる。

 

そうして、ほくほく2度目に寝入ったら今度はいつものごとく舞台は実家になっていた。中間の話は、カラスに攻撃されるとか最近の実体験に基づいているから省略。2週間前くらいに公園を横切ったら、頭を突かれ、なんじゃと思って見たらそいつは怒るでもなくしれっとしていた。なんなんじゃ。もじゃもじゃしていて木と間違えたのかもしれない。ほんまか。

 

3度目に寝た時、座敷で寝ていて可愛らしい黒髪ロングの座敷童が出てきた。モデルはちんまい頃のいとこに違いない。ほんと美少女だったと思う。今はもう僕より身長高いのではないかというくらい大きくなってしまったが。この前(もう2年前くらいか)里帰りした後、叔父さんの車で大阪まで送ってもらい一緒に降りて、少しだけ植物学について雑談した。僕は「場」では話さないが、「人」とは話す。

 

そうして、座敷童に着いて母屋から自分ち家に渡る階段を上ったら、その先で姉と妹が取っ組み合いのけんかをしていた。座敷童はスルーして行ってしまうが、僕は通り過ぎることができない。言い争いの断片で、「泥棒したって認めるのなら、何を盗んだか言え」と姉が妹に馬乗りになっている。なんなんじゃと声をかけてみたら、妹が怒りの顔をこちらに向けて、「あいつがやった」と掌を返す。何故か姉もその気になり、何を言い出すかと思ったら、「何が盗まれたかは言わない」とか。で最終的には妹は熱したアイロンを構えて攻撃体勢になるし、この辺りで目が覚めて、恐ろしいというより意味不明だなという感じ。なにせほくほくしていたし。

 

今から考えると、第1の夢と第3の夢の温度差が凄いし、家族に対する呪詛が凄いと思うが、僕にとっては家族って理不尽の象徴なのかもしれない。他の理不尽はなんとでもなるくらいの理不尽な世界だった。上の言い分論理的でなくて全然だがこういう感じだったのだよな。でも、こういう非論理を正しいとできる人は割といるとも思う。

 

さておき。

あまり夢に浸ってばかりも居られないため、現実的試行の話。

 

マクロが面白い。昼休みに続きを読んでいて、帰ってからすぐに取り掛かりたかったのだが、WiMAXの切り替えの手続が先で早く早くという感じ。もぞもぞどころではない。

 

とりあえず、出勤前に昨日写経したプログラムを見返して、outputのつづりが1個だけ間違っていたということが分かり、ちゃんと再現できた。

 

こういう細かさとか組まれた言語の意味とかが分からないから忌避する人も居るのだろうが、僕は結構好きかもしれない。愛すべき融通が利かない有能な後輩みたいなイメージ。1から、なんなら0から10まで教えないと正しく出力してくれないが、1回ちゃんと教えれば入力通りの出力を返してくれる。

 

まぁそんな人間はいないし、人間の凄さは曖昧な入力でも曖昧に当たりをつけた答えを出せるというところにある。これは、その人の脳が学習してきた個体差によるもので、人は生きているだけで個性的であるということなのだが、外から見た個性を見ている人の方が多い。脳が学習してきた個体差は自分に対してすら見ようとしないと見られないし。なんとなく空気読んでくれるってデジタル世界にはないこと。いや、ディープラーニングならあるのかもしれないが。

 

1から100までの数字で10ずつ出力する、入力された西暦について閏年かどうか判定する、セルに●を入れていって三角形を作るというプログラムを写経したのだが、考え方が面白い。人間だったら経験があるから、10、20、30となるが、プログラムにはそういう前提がないから、10で割って余りが0であるかどうかを1から100までの数字でひたすら検証させる。計算能力は高いから、なんなら人間より早く出力されるのだが。閏年のルールは教える側が知っていないといけない。曰く、400で割って余りが0なら閏年だが、その中で100で割り切れるものは閏年ではないらしい。なんでだろう。

 

細かいのはさておき、なんとなく自分の到達点は分かった。ナンプレの問題を自動的に生成するプログラムを自作できるところ。上級編はぎりぎり一通りで答えられるくらいの空白数とか。アプリで実際そういうのがあるし、法則もある程度限定されているのだから、できなくはないはず。

 

こういうデジタルな考え方を収集することは、人間には法則はないということを浮き彫りにさせるということにもなる。

 

「人には必要なことしか起こらない」という命題も、厳密に考えると精確ではなくて、無限くらいの膨大な生活データの中で、それに引っかかったということは、自分にそれを引っかける因子があったということ。必要というより必然だと思う。なんの宗教的背景もない、なんなら科学的な見解。なんでそれが目に入るのか、そうしてしまうのか、心を動かされるかは脳が学習してきた結果でしかない。

 

人には学習能力があるとしてきたが、厳密な主語は脳なのだろうな。

脳に入力できる道具は言葉であるとすると、言霊論が現実化してくる。

 

楽しいのは発見があるからだろうか。そうかもしれないし、そうでもないのかもしれない。

 

いきの構造曰く、楽しいの語源は古事記まで遡り、天照大御神が天岩戸から出てきた時に手を伸ばして喜んだという「手伸し」からから来ているらしい。この概念は時間も含んでいて、未来に向けて手を伸ばすとか。あと、リベラルアーツの本では、アルファベットの語源は、ギリシャ文字のアルファとベータから来ているとか、虚数のiの語源はイマジナリーとか、言葉の概念はとても楽しい。

 

ところで、また現実の話なのだが、僕の会話スキルの評価というのが仕事であった。その中で、文章として話しましょうという指摘があったのだが、文章として話すことって本当に必要なのだろうかと思う。応対としての仕事の定型文ということならば、まぁそうだろうなと思う。

 

が、コミュケーションに置いて文章でしか話さないって機械音声かよって思ってしまう。スピーチとか講演での発話なら分かるのだが、会話って中空にある雰囲気を言葉にしているだけであって、文章になった方がおかしくないか。文章にしたら伝わる訳でもないし、そもそも会話において人は文法をきちんと聞いている訳でもない。文法がきっちりしているのは発話側の自己満足なのではという感じ。

 

僕は会話をしていて相手の方言も楽しんでいるし、なんなら個別のユーザー定義語彙も楽しい。むしろ人ってそれぞれの定義の言葉があると思っているから、これをあれと呼ぶのはおかしいみたいな笑い話に加わるのはなんだか嫌。僕があまり場で発言しないのは話しすぎるとぼろが出る経験則からなのだが、別にユーザー定義している語用はない。言葉にしていないところにはいっぱいあるが。近しい人との共通定義は楽しかったな。その人としか

通じない言葉をいっぱい創った。

 

発音する口は一種の笛であるという音声学の話も面白いのだが、今日はまだ本題がある。

 

「自分が許していないこと」

 

許していないことを放置していると、腰痛とかの痛みとして体に返って来ると言っていたのが「人は何故腰痛を腰痛を選ぶのか」で、この前読んだ、本当の自分になったら病気を止められるという本も同じことを言っている。

 

僕を掘り下げていったとき、特に社会とか誰かの人に対する怒りはない。怒りないしストレスって、期待値と予測値の差分だっていうのは応用神経学が言っていたことだが、人に対する期待値もない。期待値を創ってくれたあとどうなんだということは気になるが、それもどうでも良く。

 

自分が存在することを許していないというのは、希死念慮とはちょっと違って、誰かの中に在る自分と、素朴な自分は全然違うのに、なんでそれを許しているのだという怒り。でも、人は当人の上限でしか人を捉えられないし、自分の外に在る対象は脳がカットする。

 

義務的にしか動けない人の中で自在であって良い訳はないし、しんどいことが生きている実感になっている人の中では同じようにしんどいように振る舞わないといけない。いけなくはないのだが、縁が離れてしまう。

 

承認欲求ってなんなのだろうな。

認められるってやんわり気持ち悪くないか。自分と評価が乖離するみたいで。

 

ともあれ、今の自分はまぁまぁ許している。

何かせずには要られないという生き急ぎではなく、何かしたいと思ったときにブレーキになる要因がないから。自分が選んだブレーキなら仕方がないと思います。

 

そういえば、繋がりで考えた時、人もそういう対象で在り得るのかということを考えた。この人と知り合っているから次にこの人と脈が付いてみたいな、世に言う人脈みたいなやつ。

 

僕は、人をそういう対象にはできないなって思っていたら、「人脈なんてクソだ」という本が目に入り、立ち読みしたのだがよく分からなかった。なんとなく、人脈を拡げるより、自分を磨けみたいな話なような感じだが、僕にとって人は、コントロールできな。意志でたまたま繋がっている惑星みたいな存在でしかない。

 

存在は現象としてしか認識できないし、現象は考えられることも含んでいる。

 

遂に1日記で原稿用紙11枚分まできたか。

 

僕は文章を書いている時にも文法を意識していないし、文法あんまり知らないから、読む人大変だと思うが、よく読んでいるよなと思う(他人事)。

 

では、おやすみなさい。

 

お幸せに。